第1alt.章 α 泥臭香るプロローグ
第1alt.章 α
泥臭香るプロローグ
「検索、開始——!!」
ハッ ハッ ハッ ハッ……!! と息を切らし、飲み込めない唾を垂らしながら、少年はひたすらに走る。
死角から迫る捕縛魔法と同時に頭上から迫る状態異常魔法を転げながら躱し、路地裏を駆け抜ける。
虚空から現れた捕獲者の手をすんでの所で回避し、二転三転しボロボロの布を脱ぎ捨て、尚も少年は走る。
「きゃっ! 何——!?」
「こいつ隷人種か——!?」
「ッ痛てえな殺すぞ!!」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!! と少年は心の中で唱えながら駆ける。
生まれてこの方まともに走ったことのない脚。
必要最低限と悲鳴を上げる為にしか稼働したことのない肺。
最低限の栄養しか与えられず痩せこけた全身。
命じられた時にしか使わなかった脳。
それらが発狂する。
疲れた、休みたい、楽になりたい、と必死に訴える。
少年は、歯を噛み締めその訴えを却下し続ける。
自分には利用価値がある。
客観的に見ても存在意義がある。
殺されることはないだろう。
故にこれは、生存本能に依るものではない。
しかしもう痛いのは嫌だ、痛いのから逃げたい、という生物的かつ本能的な欲求に由来する脱走であることは事実だ。
「連邦には《星の姫》がいる。間違いなく侵犯は勘付かれてる。おりゃまだ死にたくねえ。騒ぎだけは何としても避けようぜ」
「円卓が出て来たら厄介だからな。少なくとも俺達じゃま〜ず勝てない。秒殺だろうよ」
「その時は《愚者》に縋る。我々の目的は悪魔及びラプラスの回収。それ以外は全て無視だ」
「しかしその悪魔が『あれ』には付いている。即時無力化は不可能だ。敵国内である以上、大規模な魔術は使えん」
「それで? 追い続ける。これ以外に何があると?」
「今でこそ私達の先を走るが、それは【世界検索】に基づく空間把握と未来演算によるものだ。
『あれ』は既に疲弊し切っている。強化と火事場の馬鹿力で無理を押し通しているに過ぎない。
この逃走劇ももうじき終いだ」
コンクリートや石製の家屋の上を疾走し、少年を追跡する5人。
暗殺者じみた真っ黒いローブで顔を覆い、隠密達は虚空に消えた。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ッッゥ、ぇ、ッハ、ハッ、ハッ、っく、ハッ——————」
肺に酸素を送るべく必死に呼吸をしながら、頭に投影された映像をもとに最適の逃走経路をつんのめるように走る。
全身に酸素を送らんと際限なく早鐘を打つ心臓。
動悸を抑えるように胸を押さえ、振り返ることすらせず猛進する。
止まれば捕まる。止まらなくてもいずれ限界が来る。
追跡を撒く手段はない。
国境を出ても、こうなることは目に見えていた。国境を侵犯して来ることなど、魔法を使わなくとも予想が付いていた。彼らを振り切れないことなんて、容易に予測できていた。
だというのに少年は、もうこれ以上痛いのは嫌だ、という客観的に見れば本当に幼稚な理由で脱走した。
結末が予想できていても尚、子どものように喚き散らし、涙と鼻水を垂らしながら醜く情けなく愚かしく逃走した。
しかしそれは、少年が生まれて初めて意思決定をした瞬間でもあった。
ならば彼のこの行いを愚行と称するのはきっと違うだろう。
確かに蛮勇だ。勇気とは呼べないし、賢明とも思えない。
だがそれでも少年は、自らの意思で選択をした。これでもう彼は単なるモルモットでも契約者でもない。
シモンという名の、一人の少年である。
脳内に未来の光景が映し出され、少年は無意識的に軽く跳び、空中で身を翻し唐突に現れた魔法を躱した。
「うおッ!? 何だ!?」
「おい!! どうした!?」
通りを歩く通行人のうち一人が魔法に直撃して卒倒した。
ピクピクと手足が痙攣しているのを見て、喧騒が一層騒がしくなる。
虚空から放たれた魔法、その発生源からはチッと舌を打つ音がした。
(馬鹿お前——! 何やってんだ騒ぎは起こすなって……!!)
(奴は疲弊してる……!! 当たるかもしんねえだろ!)
(確かに『あれ』の未来演算は万能ではない。常時発動ではなく能動的にアプローチしなければならないのがその例だ。
しかしその文頭には、自らに危機が迫っていなければ、という前提条件が来る。脅威たる魔法はその対象内だ。
現時点では、無闇に放ったところで当たりはせん)
(だが、早々に片付けるべきなのは事実だ。『あれ』は意図的に往来の多いルートを逃走経路に選択している。
これではどの道騒ぎになることは避けられ———)
少年が路地裏に入るのを見て、男は言葉を呑んだ。
そして万一に備え、隠密達は少年を取り囲むべく方々に散った。
(助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。お願い。お願い。誰か助け———)
「ッッヴ——……ッ」
何かに躓き、大きく転倒。
「ぃ、たい………」
いいや。それは正確ではない。
後半は正しいが、前半は間違っている。
確かに少年は転倒した。しかしそれは足が、肉体が限界を迎えたからであり、溝や物に躓いたからではない。
少年も最初は勘違いしていた。
身体を起こそうと手を地面につくと、肘が上半身の重みに耐えられず、情けなく曲がったのを目撃して、ようやく自覚した。
思えばここ数日、ずっと、ずっと逃げていた。日数を数える余裕なんて1ミリもなく、夜も朝も昼も夕暮れも怯えながら背を向けてしゃにむに逃げていた。
誰の為でもない、他ならぬ自分の為に。
あの苦しみが一生続くと思うと、全てが嫌になったから。
けど、もう終わっても良いんじゃないか……。
少年は心のどこかでそう思った。
そうだ。痛いのだって苦しいのだって、自分が我慢すれば良い。だって見上げる顔は皆んな笑顔だったから。自分の周りにいる人は皆んな、こんな自分を見ても笑ってくれる優しい人達なんだから。
それに、自分の能力は皆んなの役に立つらしい。なら悪いのは自分じゃないか。
自分は特別なんだ。選ばれたんだ。これは優しい人達を救う為の力なんだ。
こんな悪用なんて、しちゃダメだった。
だから皆んな、自分に魔法を使わないように言ってたんだ。
……あぁ。そうじゃないか。
一体どうして、逃げようなんて思ったんだろう。
生きる資格をくれた。生きる意味をくれた。生きる権利をくれた。
なら僕は、その恩に報いなければ……
諦観に染まった瞳で天を仰ぐと、視界の端に、誰かがいた———
「おいボロ雑巾。オマエそこで何してんだ——?」