第一章 VXIII プレリュードの終幕
第一章 XVIII
プレリュードの終幕
「ごめんなさい——」と一次試験前に廊下で出会ったその人の言葉が、俺の意識を外界に向けさせた。
「私があなたを救うわ。その厭世で薄く濁った双眼に光彩を取り戻させてみせる。その病的に傷が刻まれた腕に二度と傷痕が残らないようにしてあげる。
だから、私と来なさい?」
真心の込められたその言葉が向けられたのは、言うまでもなく俺じゃなかった。
決意の込められたその視線が向けられたのは、当たり前だが俺じゃなかった。
「何故、僕なんですか?」
自虐と自罰に染まった双眸を上げたのは、俺の2つ隣に立つ人だった。
絶望と嫌悪だけを含有する声音を以て問うたのは、試験開始前に実施部屋で俺に手を差し伸べてくれた、優しいながらも病的なあの人だった。
「私があなたに一目惚れしたからよ」
当然だ。分かり切っていたことだった。
実力も勇気もまるで皆無の、それも不正かバグかで生き残ったような胡散臭くて鈍臭いぽっと出の餓鬼と、一体誰が進んで運命を共にしたいって思うんだ。一体どこの誰が、こんな俺を信用してくれるって言うんだ。
それに、きっとこれで良いんだ。こんな欠陥品みたいな俺を愛してくれた人を、俺の幸せを願って全てを擲ってくれた明莉を拒絶してしまっている俺に、生きる資格はない。
「……よりによって、僕ですか」
「えぇ。他の誰でもないあなたよ」
「失敗作の僕より、もっと貴女に相応しい人がきっといるんじゃないですか?」
そんな筈はない。あなたは優しくて、俺なんかよりずっと強い。
今だって、選ばれなかったら死ぬっていうこの状況であなたは俺を生かそうとしてくれている。
たった一度の会話で、試験実施部屋が一緒だっただけの縁で、自分より俺を優先してくれている。それが自己嫌悪や自殺願望によるものだとしても、結果的に俺を救おうとしてくれている。
自分の命が掛かったこの状況で、あなたにはできている。俺にはただの一度もまともにできなかったことが。
「確かに、あなたは失敗作ね。その過剰な自傷癖が第一の証拠」
「なら——」
「けれど、失敗作には生きる資格がない、なんて道理はこの世の何処を探し歩いても見つからないわよ?
あるとすれば、それは単なる主観じゃないかしら。例えば、あなたの此処にあるそれとか」
「……なら、客観が是とされ、主観が否とされる道理が存在することを貴女は証明してくださいますか?
客観云々の話じゃなく、主観である僕が、僕を否定しているんです。
だから僕は、生きられません。資格でなく動機が、権利でなく理由が、僕からは欠落してしまっているから」
「良いわよ。けれど、どうせ遠回りをするならもっと華やかで絢爛な道を通るわよ。生気に満ちた煌びやかな道を。
誓うわ。私があなたの生きる動機になる。この狭い鳥籠の中では見つからなかった理由を、一緒に探し歩いてあげるわ」
「ッ…………」
視界の右端で真っ白い綺麗な手が差し出された。それに、息を呑む気配がする。
呼応するように、俺も無意識的に顔を上げた。苦悩と苦痛に染められているその人の表情が視界に映る。
……あぁ。同じだ——
そう思った。鏡に映った、自己嫌悪に歪んだあの顔と、全く同じだと。
自己憎悪の底なし沼に沈んで、なのに一縷の希望を求め天へと手を伸ばす。自分の生存を願えないのに、誰かに生きる資格を乞う。自分を許せないのに、誰かに免罪符を求める。
そんな自分が狂おしい程に憎くて、なのに生存欲求には逆らえない。深層心理では皆んなと同じように自分の幸福を願っている。
その自傷には、自分を許せないから、生きている実感を得たいから、他のことを痛みで紛らわしたいから、そして誰かに助けて欲しいから、という多くの思いが込められている。
自傷こそが自殺志願者の抱える矛盾、その象徴なんだ。
同時に、俺が今この瞬間にすべきことを悟った——
「私があなたをこの小世界から連れ出すわ。そして教えてあげる。世界はあなたが思っているよりも、ずっっと広いことを」
「………僕、は——……」
葛藤で悲痛げに歪めた顔を、その人はこっちに向けて来た。
……大丈夫だ。今際に、ちゃんと思い出せた。
俺が何故、明莉を好きになったのか。
その温かな優しさが大好きだった……大好きだからだ。
なら、明莉がいない今優しくする理由がないってあの言葉は、撤回しなきゃならない。
明莉の顔を思い出そうとすれば、体はそれを拒絶する。押し寄せる吐き気が無理矢理に思考を遮る。そんな肉塊がこの世界に留まる資格はない。
けどせめて最後くらい優しくありたい。それが俺と彼女を繋いでくれたものだから。
空元気で構わない。上手に笑う必要もない。ただ笑顔を返せば良い。
俺は大丈夫だと、そう伝えれば良い———
——霞んだ視界で、天へと昇る光を見届ける。
炉はやっぱり自暴自棄かもしれないが、その燃料に彼女への思いもちゃんと含まれていた。
告白すると、もしかしたら自分を選んでくれるんじゃないかって期待していたのは事実だ。そしてあの人に自分を投射したのも事実だ。
だけど、俺は確かに、ほんの少しだけ変われたんじゃないだろうか——
「さて。残るは君達2人だ」
穏やかな声音が優しく耳朶に触れた。
空へと還った光から視線を外し、その神の如き双眸を俺と残る一人に向ける。
俺達2人と相対するは、無機的且つ虚無的な金髪の《天使》だった。
全てを見通すような宝石よりも綺麗なその瞳は、廊下でぶつかったあの時と変わらず、実際の所は何も見ていない。
まるで人形のように佇むその人は疑いようもなく美しい。しかしあまりにも生気がない。人形のように綺麗だが、それ以上に在り方が非生命的だ。
「……やっぱり出来レースじゃねえか——」
俺の隣に立つその人は肩と声を震わせ、手を強く、強く握りしめて言った。そしてその言葉は俺の胸を深く抉った。
その痛みに触発されて、咄嗟に口を開く。
「ぁ——………」
———葵。キット生キテ、幸セニナッテネ———
だが、心奥に刻印されたこの言葉が、半強制的に俺の口を塞いだ。
結局、出かけた言葉は喉奥に引っ込み、消化管を落ちて行った。
横から向けられる落胆と絶望、非難を含有した視線から思わず目を背ける。
「成る程。しかし心配はきっと無用だよ」
「ぇ——……?」
朗らかな微笑を伴ったその言葉は、一体どちらに向けられたものなのか。何に対して心配する必要はないのか。それが分からない以上、俺は顔を上げることができなかった。
「出来レース、と君は形容したね。そして君の先の言、実に言い得ているよ」
君にそう判断させた要因は大きく二つだろう、とその人は反応も返事も待たず続けた。
「一つ。《使徒》と《天使》の位置関係。唯一度の例外もなく、計11の《天使》達は正対する《使徒》を比翼に選んで来たからね。違和感を抱いたのは正常な感覚だよ。
一つ。あり得ざる13人目の《使徒》、つまりは君の隣に立つ少年の存在。仮に彼が選ばれないのであれば、例外を適用した意味がない。無論、これは恣意的決定ではないよ? 言うなれば不可抗力的且つ契約的なものさ。
詰まる所、君が不条理を嘆くのは当然の帰結だよ。これら2つを以て、君は此度の契約の儀を出来レースと判じた。そして君の胸中にある渾沌たる激情が、確信へと至らしめた」
相違あるかい——? と問うかのような視線に、その人は首を縦に微動させた。
その瞳孔に一条の希望が映っているように見えて、どうしてか胸の奥が軋みをあげた。
「結論と推量を言おう。
まずは前者だが、現時点で君のそれは杞憂だよ。現に、これまでの法則に従うならば、君達2人の内《使徒》に選ばれるのは君となる。
不条理を悲歎するのは人の特権だが、運命を語るのは人の驕りだ。結末が読めたからと絵本の項を閉じるのは早計が過ぎるんじゃないかい?」
「次に後者だけどね——」と言いながらその人は、ひたと俺を見据えた。
「君のそれこそ杞憂に終わるだろう。信憑するに足りない当て推量ではあるがね。
舞台に立ち演じるのは人の義務だが、脚本を紡ぐのは神の権利だ。悲劇的結末を知りたくないからと物語の幕を閉じるのは短絡というものじゃないかな?」
仄かな微笑を口元に浮かべたその人は言い終えると、意見ないし反応を求めるように、首を少しだけ傾けた。
「俺は——!!」
焦燥感と生存欲求に駆られるように、隣に立つその人は前のめりに口を開いた。
対して俺のすべきは、それを見届けることだ。
「生きたい……。生きたいんだ。親友を2人殺して、戦場からも背を向けて逃げて、その先もずっと逃げて、逃げて逃げて逃げて——!!
……人間とか亜人とかそういう規模の話はできない。俺はただ、生きたかった。さっきの試合だって、ひたすらに逃げ惑って偶然手にした勝利だ。
だから俺に、実力はない。才能だってない。俺にあるのは、できるのは、多分生き残るってことだけだ。
けど、そんな俺にどうか……どうか、生きる資格をください——」
震える手を握り締め、切れ切れの声で言い、正面に立つ《天使》に深く頭を下げた。
どうしてか、俺はそれからまた顔を背けた。
伏目で見やると、その綺麗な顔は変わらず無色のままで、その大きな瞳の焦点はどこにも合っていなかった。
虚空を見詰める、という表現が一番近い気がするが、決して言い得てはいない。
人形が目を開いている時、「虚空を眺めている」とは決して言わないのと同じで、その目は本当に単なる飾りみたいだった。
だが、俺がそれ以上に驚いたのは、それに対して自分が安堵感を覚えたことだ。
胸の奥でふっと湧いたその感情は、まるで深層心理が溶け出たみたいで魔が差したとは明らかに違っていた。
万物万象を見通すかのような人のそれならざる双眸を向けられて、俺は逃げるように目を逸らした。
俺に自己アピールなんてする必要はないし、そんな資格はないと感じたから。せめて最期くらい正しい選択をしたいから。
———葵。
自己犠牲はやめて、と明莉には何度も言われて来たが、俺のこれは自己犠牲なんかよりももっと醜悪なものだ。
だから、
———生キテ、
俺の物語は此処で閉幕させる。
———キット幸セニナッテネ。
「ッ——————………」
心奥に綴られた、あえかなる彼女の言葉に突き動かされて開いた口を、伏目で閉じる。
俺の挙動を見ていたのか、それとも単に連続しただけか、その人は変わらぬ柔らかな声音で告げた。
「さあ。幾星霜奏せらるるプレリュードの終幕を担うは君だ。
約束の時だよ、ガブリエル———」
ガブリエルという名の《天使》は頷くことも声を発することもせず、無感動に、徐に手を上げた。
そして俺を指差し、福音を告げるかの如く透き通った声音を約束の舞台に響かせた。
「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な———」
ゾッとした。
そして確信し諦観した。
「どちらにしようかな」というこれには当然だがランダム性なんてない。
字数が決まっている時点で指を差した瞬間にはどちらが選ばれるか確定する。神の意思など介入しない。
するとすれば、どちらを最初に差すか選択するその刹那のみ。以降に残るは必然性と因果性だけだ。
この歌は奇数。だから選ばれるのは、
「て・ん・の・か・み・さ・ま・の———」
俺じゃない。俺の物語は、確かに閉幕を迎え———
「言・う・と・お———………」
———なかった。そして在った。神の意思は、確かに存在した。
目撃したのだ。電脳世界に於いてあり得ざるモノを。神の御意、その具現たる“ノイズ”を。
そして俺の背を伝って行った悪寒が、そっと髪を撫でた気がした。まるで大丈夫だと言わんばかりに。
「再開しようか。ガブリエル」
イレギュラーに手を止めたガブリエルに、その人は穏和な声音と朗らかな表情で言った。
その落ち着いた様子に抱く違和感、それを喧しい心音が掻き消した。
視野はガブリエルという名の《天使》に集中し、意識は逸る激情に濁された。
今、彼女が差すは俺の隣に立つ人だ。もし、この人から始まれば———………。
俺よりも先に結論に至ったその人は、咄嗟に声を上げた。
「待っ———」
「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な———」
しかし彼女は、その一切を無視して機械人形の如く無感動に紡いだ。
「て・ん・の・か・み・さ・ま・の・言・う・と・お・り———」
その透き通るように白く細い指の先は、俺の胸を差していた。
電脳世界へと昇る時の感覚、そして死の感覚、そのどちらとも似て非なる、微睡みに落ちる感覚が俺を支配する。
俺が反応するよりも早く、隣の人が声を上げるよりも早く、俺の心身は分解された——————
———契約の儀は此処に閉式した。悠久の光陰を経て、人間は遂にユークロニアより人類史へと帰還する。24粒の麦を以て、人間は漸く天上より地獄へと凱旋する。幾風霜のプロローグを紡ぎ、人間はまさに序章より二章へと到達する。さあ。真なる冷戦《真冷戦》、その開幕を告げるブザーを鳴らすとしよう———




