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デュアル・ワールド=ファンタジア  作者: 遠野夜空
第一章 愛欲に濡れたプレリュード
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第一章 XV 奈落の底にて、黒き華は狂い咲く

           第一章  XV

       奈落の底にて、黒き華は狂い咲く



 視覚も意識も全てが白一色に染められたかと思うと、今度は全てが暗転した。

 そして中央に、一点の光が灯る。


「——おはよう。お疲れ様」


 霞む視界に、声の主は顔を覗かせて来た。

 濡羽色の艶やか長髪を垂らした少女は、俺と目が合うと柔かに微笑んだ。


「ぉ、れは——」


 上体を起こし、目を細めながら周りを見渡す。


「頑張ったね。お疲れ様」


 言うと、その人は俺を包み込むようにぎゅっと抱きしめて来た。

 覚醒し切っていない頭は、未だ思考停止を続けている。だが、何故か優しく抱きしめられた瞬間に、背筋を激しい嫌悪感が走った。

 それを気取られないよう、相手を引き剥がすのではなく自分から離れる。


「私にギュッてされるの、嫌だ?」

「ぃ、え。そうじゃ、なくて………」


 その視線から逃げるように目を逸らすと、不意に悟った。

 脳が思考停止する原因は覚醒していないからじゃない。情報処理を拒んでいる、現実を直視するのを拒絶しているからなんだと。


「ッ………」


 抉るような激痛が支配する頭を、強引に稼働させる。現実を直視する為じゃなく、状況を理解する為に。

 ……俺は、いや俺達は確か——

 俺の思考を遮るように、その人は不意に俺の隣に座った。

 そして俺の頬に両手を添え、コツンと額を合わせて来——

 走馬灯の如く、過去の記憶が脳を横切った。

 俺が今まで何をしていたのか。俺が一体何をしたのか。全て思い出した。あの子と交わした約束も、あの子が遺した最後の願いも、あの子が見せてくれた最期の笑みも、俺があの子を、撃ち殺したことも。


「ゔッ———」


 腹の底から込み上げて来た吐き気に口を覆う。


「大丈夫? 苦しかったら吐いて良いからね」


 どこから持って来たのか、洗面器を差し出して来るのに小さく首を振る。

 その人への嫌悪感は未だに消えないが、今この瞬間だけは、背中をさすってくれるのがありがたかった。


 第二次使徒選定試験。第三次世界大戦中の地上を舞台としたそれのルールも一次試験と大枠は変わっていなかった筈だ。

 試験を通過した者のみが生き残れる。試験中に死亡した者、失格となった者、脱落した者は脳のマイクロチップを爆破されて死ぬ。現に俺は、一次試験終了直後に死体それを見た。

 けど俺は一度……いや二度、或いはそれ以上に死んだ筈だ。なのに、俺はこうして生きている。明莉との約束を、どうしてか果たせている。

 ただ一つ分かることは、涙より先に吐き気が込み上げて来る自分が、二次試験中に明莉のことを全く思い出せなかった自分が、心底から嫌いだということだけ。


「あなたは頑張ったよ。良く頑張った。良く耐えた。偉い。偉いよ。誰が君を否定しても、私だけはあなたの味方だからね」


 きっとその人は、俺の心境を察してくれて優しく接してくれているのだろう。こうして優しく頭を撫でてくれているのだろう。

 けど俺にはどうしても、その人の善意を受け取ることができなかった。明莉がいない今、誰かに優しくする理由が、される理由がないから。


「あなたに、何が分かるって言うんですか。こんな欠陥品に共感できる程、あなたも屑なんですか」

「ううん。あなたに共感なんてできない。だって私、あなた以上の屑だし欠陥品だもん。でも、だからこそあなたの知らないことだって知ってるの。例えば、今は第四次使徒選定試験の最中だってこととか」


 その人が指差す方向を無意識的に見ると、そこには2個奥の寝台に寝転び頭を機械で覆われた人の姿があった。その腕には、真新しいリストカットの痕がある。

 痛ましいその傷と自分の腕に付けた浅い傷痕を見比べていると、その人はこう続けた。


「あれから更に12日経過したの。第三次は純粋なバトルロワイヤル、そして第四次は魔法を使った一騎打ち。今は丁度3試合目の佳境に入ったところよ」


 今は丁度……その言葉に引っかかりその人の方を見やったが、その人形のように綺麗な顔がすぐ近くにあって、思わず言葉を飲み込んでしまった。

 そして満天の星を思わせる双眸に、自分の意思と関係なしに胸がどくん、と高鳴った。

 それが更に、俺の自己嫌悪を強く煽る。

 気色が悪い……自分に対して、心からそう思った。だから、その人から逃げるように部屋の出口に向かった。



 ———彼ニ、会イタクナイ?



「ぇ——?」


 自己の内奥に刻まれたその言葉に振り返ると、そこには誰もいなかった。ついでに言えば、寝台に居た筈のその人の姿もなかった。

 探す気力は勿論、考える気力も今はなくて、現実逃避の為に呼び出した都合の良い幻覚だ、とそう結論付け、俺は部屋を出た。


「私の名前はソフィア。どう? 綺麗な名前だと思わない?」

「——……」


 驚かない自分に、少しだけ驚いた。

 今はそんな気力も無いからか、それとも全部どうでも良くなったからなのか、或いはその人が実在することを期待してしまっていたのか。

 3つ目じゃないことを祈りながら、「そうですね……」と短く答えた。

 ソフィアと名乗るその人は、俺の反応に頬を膨らませ、腕を弱くつねって来た。


「私のこと、そんなに嫌い?」

「——嫌いなのは、あなたじゃありません……」

「そっか。良かったぁ。嫌われてなくて。それにね、私も同じ。あなたのこと大っ嫌いだけど、だ〜い好き」


 「だから行こ——?」と言い、その人は俺の袖を優しく引っ張った。

 何処に行くのか目で問うと、その人は朗らかに笑った。



 ———欠陥品ノ所。



 背筋を撫でた真っ黒い恐怖が俺に首肯を強いり、俺の足を強引に動かした。



     §



 《生命の樹》の中心を穿つエレベーターが1階に到着した直後、チャイムの代わりに寒々しい微かな風の音が聞こえた———


 ——数百にも積み上げられた階数が、人間の積み重ねて来た進歩を象徴している。人間の進歩、つまりは科学、その象徴にして集大成。天上天下に人間が存在を知らしめす、功過と正邪の具現。それこそが《知恵と生命の樹》だ——


 二度と会うことの叶わない親友が、今となっては決して戻れない過去によく繰り返していた謳い文句だ。ソフィアと名乗る少女も、それと似た言葉を口にした。

 そしてその人曰く、俺達が《知恵と生命の樹》と呼ぶ、天を穿たんとするその塔は正確には《生命の樹》というらしい。そしてそれと対を成す地下階層が《知恵の樹》と呼ばれる。つまり《知恵と生命の樹》とはそれらの総称なんだという。

 またそれらの境界に位置する《O》と呼ばれる階層こそが、つまりは目の前に広がるこの階段を降りた先が、その人と俺の目的地らしい。

 地上1階と地下1階、その境に存在する零階への経路は、この通路以外にないというが、そこから漂う禁忌の香りが鼻腔を介して脳に危険信号を出した。

 足元に埋め込まれた冬の夜空を思わせるフットライトが、壁に刻まれた人類史の群像を仄暗く照らしている。

 人類史の長大さに相応しく、その冷たい廊下は長く続いていた。


「——……」


 見やると、その人は艶笑を浮かべ、俺の袖を摘み優しく引っ張った。


「行こ——?」

「は、はい……」


 何となく察してはいたが、この人は俺達オルテスクとは決定的に違う存在らしい。

 電脳世界にて遍く人間の救済を謳い、俺達を地獄に投下したあの白衣の男と印象は似ているが、非なる存在であることは明確だ。

 もっと歪んだ、異常な何か。

 言い得た表現は見当たらないが、最も近しい言葉があるとすれば、それはきっと異物感だ。

 俺には持ち得ない権限と知り得ない知識を持っていると思しきその人は、素性を訊いてもはぐらかすばかりで、何も教えてはくれなかった。

 だが、前を歩くその人は不意に問うて来た。


「——私のこと、知りたい?」


 唐突に差し出されたその問いに、俺は答えることができなかった。

 他人への関心や興味、生きる意味や理由、寄る辺を喪った俺に残された行動原理はあの子との約束だけ。

 そして使命感、或いは強迫観念と呼ぶべきモノだけが、俺の心底にしんしんと降り積もっている。

 彼女との約束が、俺とこの世界を繋ぎ止める楔なんだ。そんな俺が彼女以外の誰かに、生者に感情を向けるのは、きっと間違っている。

 だからこの場の最適解は、首を横に振ること。だってのに俺は、首肯も否定もせず、沈黙を続けてしまっていた。


「私はね、あなたのこと知りたいよ。狂おしいほどに、おかしくなっちゃいそうなくらいに、あなたを知りたい」

「……何で俺なんかに、そんなに固執するんですか?」

「それはあなたの大好きだった人にも言えることだよ?」

「『だった』じゃないです。今も昔も、これから先も……ずっと好きです」

「そっか。あなたも一途なんだね。私には、それがどうしても理解できない」


 少しだけ声のトーンを下げて、その人は言った。その声音からは仄かな哀愁が感じられる。


「けど、だからこそ私はあなたに魅かれたの。

 世界の残酷さに打ちひしがられて、なのに生き続けなきゃいけない苦しみと葛藤、絶望を抱えたあなたの姿は、誰よりも人らしい。

 たった一人を想い続けるあなたの魂は、どんな宝石よりも綺麗だよ」


 「だから私は、そんなあなたが欲しい」とその人は続けた。

 けれど。告白とも取れるそれに、どうしてか俺の心はまるで揺れ動かなかった。

 だってそれは——、


「あなたの全てが欲しい。あなたに全てをあげたい。純潔なあなたと繋がれれば、汚れに汚れた私の体もきっと浄化できるから。あなたを犯したい。あなたを私のものにしたい。真っ白なあなたの心を私の色で染めれば、あなたはどれだけ私が汚くても、きっと比翼でいてくれるから」


 告白と取れたそれは、やはり純粋なる愛の言葉ではなかった。私欲と私情に汚染された、物欲に近しい情欲だ。

 この人のことは何も分からないが、きっとこの人は俺を消費すれば、その瞬間に遊び飽きたおもちゃのように躊躇いなく捨ててしまうんだということだけは、何となく察した。

 つまりこの人にとって俺は代替が利く消耗品。言ってみればモノだ。この人へ抱く嫌悪感の正体も、それに起因するのかもしれない。

 その人は別に、俺のリアクションを求めているんじゃない。私があなたを使い尽くしたその時は、あなたのこと普通に捨てるからね? という確認みたいなものだ。

 けど俺はこの人のモノになったつもりもなければ、この人に消費されるつもりもない。

 だから正解は沈黙だ。この場に限って言えば、首肯でも否定でもなく、沈黙こそが適解だ。


 その結果として生まれた静寂。

 コツ……コツ……とその人の律動的なヒールの靴音ばかりが響く。

 その静寂を利用して、俺は今一番知りたいことを問うた。


「……俺は、どうなるんですか」


 俺はきっと二次試験を通過できなかった。四次試験の最中だというのに、こうして明らかに禁域であろう空間を知り合ったばかりの少女と歩いている、この状況こそが一番の証拠だ。


「知りたい?」

「……はい」

「私のこととあなたの今後、どっちの方が知りたい?」

「決まってますよ……」


 相手に解釈を委ねる、小狡い台詞だ。対してその人は「君、意外と狡いんだね」と笑い、俺の質問に答えてくれた。


「あなたは電脳世界で命を落とした。けど彼が言っていた通り、電脳世界の肉体が現実のそれに作用することはない。ただ人為的に直結させられているだけ。

 つまり『=』じゃなく、あくまで『→』だからそれを断ってしまえばあなたは死なない。

 でも、あなたが二次試験の通過条件を満たせなかったのも事実。あなたは記録上だと確かに死んでいるの」


 だが実際の所、俺は生きている。でも、此処が現世という確たる証拠があるのか、と問われれば言葉に詰まるし、正直この状況を鑑みれば、死んだと考えた方がまだ筋が通る気もする。この迷宮じみた通路の果てがあの世である可能性も0じゃない。

 これに対する反証があるとすれば、これから彼女の紡ぐ言葉くらいだろう。


「けどあなたは、こうして私と一緒に歩いてくれてる。あなたは確かに、彼女との約束通りちゃんと生きてる。それは私が保証する」


 カツン……カツン……と螺旋階段を降りながら。


 螺旋の階段に張り巡らされた極太の電線管達は、奈落の底へと這っている。

 そして階段の手摺りには人類史、つまり戦争の歴史が彫られていた。第三次世界大戦の解像を、床に埋め込まれた赤いライトが照らし、戦火を演出している。

 その中でも特に異彩を放っていたのが、10本の角と7つの頭を有した異形の獣だ。

 既視感のあるその獣は神の光に討たれ、その度に蘇っては戦場を蹂躙し、しかしまた墜とされ、を何度も何度も繰り返したが、ある時を境に人類史から姿を消している。

 獣が人類史から消滅して幾許か、人間は人類史より追放された。それに伴い螺旋階段も終局を迎えた。

 静寂と暗黒に支配されたその領域は奈落の底を彷彿とさせる。

 そこで彼女は「そして、」と言葉を区切りそっと壁に手を触れた。

 触れた箇所を起点に“ノイズ”が壁を侵蝕する。


「あなたの質問には、彼が答えてくれる」


 彼女の微笑みに促され、ゆっくりとドアノブを握り、前へと押す——



 視界に飛び込んで来たものは、厭世漂う薄暗い部屋だった。

 そして扉を開くや否や、俺の鼓膜を震わせたのは、退廃的な声音だった。


「——君か」


 乱れた漆黒の髪に、厭世と虚無が降り積もる真っ黒い双眸、それ以外は至って健康的な長身の男。肉体が健康的なのは恐らく不老不死手術の賜物。しかしそれでも隠し切れない心の闇。

 「問おう——」と奈落の管理者は口を開いた。


「死にたいか?」


 殺意や敵意は一切籠められていない、純粋なる問い。だからこそ、言葉の重みは比較にならなかった。首肯すれば、絶対に死ねる確信があった。

 なら、答えは決まっている——


「……死にたいです。死ねるのなら、今すぐにでも死にたいです。でも、死ねない。放棄するわけにはいかないんです。生きると約束したから。生きて欲しいと願われたから……」

「大切な人との約束。それが君の楔か。成る程。君が代替に選ばれるのも納得だ」


 どこか憐れむようにその人は言った。だがそれ以上に、その声音には嫌悪が籠められている。


「生への異常なまでの執着。これは獣たる必要条件であって十分条件でない。たった一人の少女への狂気に等しい執着、これが君を、俺を獣たらしめる。

 惨めで愚かで哀れで臆病で、見窄らしくて脆くて弱くて醜くて、人らしき矛盾を抱えた者こそ、獣の数字を烙印され得る。

 前進したいならば、想い人への愛執を捨てると良い」


 否定しようとすると、それよりも先に「尤も、俺にはどうしてもできなかったがね」と付け加えられて、開きかけた口を閉じた。


「——さて。枕はこれまでとしよう。今回の主題は君にある。あの邪神……女狐に導かれて此処に来たのだろう?」

「……はい——」

「そうか」


 その人は悟ったように言い、暫く間を置いた後に「少しだけ昔話をしよう」と呟いた。


「第三次世界大戦が開戦してすぐの頃、首都全域が亜人による襲撃を受けて焼け野原と化した。

 開戦したことさえ知らなかった当時の俺は、一瞬にして全てを喪った。俺にとっては世界そのものだった施設も、焼け野原を装飾する瓦礫と化した。目の前にいた大切な人も、俺を庇って死んだ。

 ただ一人俺だけが資格なしに、無意味に生き延びた」


 既視感というか、既知感のあるストーリー。その光景が、まるで自分も体験したかのように鮮明に浮かび上がって来る。

 その人は肉塊らしき何かを浸らせる液体が入った試験管に煙草の燃え滓をトントンと入れ、また昔話を紡いだ。


「あの子の物語は結末を迎えた。故に、そこから先は全てエピローグだ。それを汚す連中は悉く殺す。そして、あの子が生きた世界、あの子が愛した世界はきっと美しいことを証明すると、俺はあの夜に誓った。

 この汚物で塗れ腐った世界を、叛逆の光で照らすと、そう決めた」


 「だが、」と言葉を区切り、その人は諦観と自虐に染まった笑みを浮かべた。


「獣にできることは、精々が殺戮止まりだった。亜人の死体で屍の丘を築き、そこから展望した景色は、地平線の果てまで広がる戦場だった。天に輝きし神の光は、丘に立つ俺を滅尽せんと焼き続けた。

 しかしそれでも尚殺し、抗い、殺され、抗い、奪い、抗い、奪われ、抗い、全身を赤黒く染め、血で血を洗い、血で血を染め、血を啜り血肉を喰らい、精神を磨耗させ、その末に漸く至った血濡れの果ては、獣に用意された終着点は、廃棄物処理場だった。

 一体何故、人類史から獣が消失したと思う? 一体何故、人間は救世主を喪失したと思う?

 玩具のように捨てられたからだ。消費し尽くされたからだ。結果、残された最後の希望を喪った人間の前線は悉く瓦解し、忽ち数を減らして行った」


 煙草の吸い殻を試験管の中に落とし、昔話の幕を下ろした。

 それから暫く試験管の中の肉塊は悶え苦しむように捩れていたが、遂に活動を停止させた。


「これは命令でも忠告でも要望でも懇願でもない。獣に身を堕とした者としての助言だ。愛する人を想うのなら、今此処で死ね」

「ッ……!」

「あの邪神に見出されたんだ。凡そ俺と似た境遇だろう。喪ったのではなく殺した。だから忘れられない。だから想い続ける。

 だが、気付いているか? 彼女の存在、或いは彼女との約束が、今まさにこの瞬間も桎梏へと性質を変化させていることに」


 滔々と並べられた言葉には、僅かな慈悲と確かな嫌悪が籠められていた。最早疑いようもない。その嫌悪の、いや憎悪の正体は他ならぬ近親憎悪だ。

 だからだろう。その言葉は俺の心に重くのしかかった。あの子の残した笑顔を思い出させた。

 また、吐き気が込み上げて来る。自己嫌悪が俺の心を蝕んで来る。

 俺の心底に降り積もっていた強迫観念が嫌悪に冒され、水を吸ったように重くなり、更には黒く染まって行く。


「君は想い人と約束を交わし、生きて欲しいと願われた。だから生きなければならないという衝迫に駆られている。それを桎梏と呼ばずして何と呼ぶ。君のそれは病魔と何も変わりはしない。約束の中に想い人を見出し、依存しているに過ぎない。

 獣に堕ちれば精神は摩耗し、いつしか源泉は枯れる。繰り返す。想い人への愛執を捨てられないのならば此処で死ね。哀惜しながらも前へと進むというのならば生きろ」


 俺を真っ直ぐに見据え二者択一を迫る瞳に、思わず気圧される。


「俺は———……」

「実理として語られる、時が経てば解決するという文言もその実、心の問題にしか適用されない心理だ。そしてこれを引き合いに出す場合は、その殆どが選択を先延ばしにする為の口実だ。

 二者択一、それがこの腐った世界の真理だ。獣にこれを改変する権能はない。だから選択しろ。辛くても苦しくても、愛し人を想うのなら選択を為せ」

「俺、は——」


 頭が真っ白になって、呂律も回らない。

 いいや。頭がまともに機能していても、きっと答えは出せなかっただろう。明莉を喪ってからずっと、俺の心が一体何を願っているのかが分からないから。あの時、明莉を撃ったあの瞬間からずっと、心を直視できていないから。


 その人は何も言わずに、俺の選択を待っていた。急かすことも、苛立つこともなく、ただ無感動に。

 だが、それが俺の焦燥感を一層掻き立てた。思考停止から思考放棄へとシフトしようとする心を懸命に引き止めるも、その炉心が自己嫌悪であることに気付き、引っ張る手が脱力して行くのを感じる。


「……ぉ、れは———」


 不意に、背中を温もりと悪寒が包んだ。

 そして淫欲と物欲で満ちた声音が俺の耳に触れた。


「あんまり私の彼を虐めないでくれる?」


 背後から優しく抱擁して来たその人は、口元に艶笑を作りつつ、声音はそのままで口調だけを牽制するようなそれに変えて言った。


「やはりお前か。発情期の雌犬が」


 俺の目の前に立つその人は声音を黒く染め、顔を嫌悪感に歪めた。


「中身のない甘言を耳元で囁き、人を堕落させるお前に比べれば幾分マシな部類だと思うが?」


 敵愾心と嫌悪感を隠そうともしないその様は、心の底から相手を厭悪しているようだった。


「ううん。あなたのそれは強迫と何も変わらないわ。対して私のこれは、救済とまでは烏滸がましくて言えないけど、延命治療のようなものよ。この子が自暴自棄になったり自殺願望を抱いたりしないよう、いつかまた立ち直れるように」

「人はそれを依存と呼ぶ。延命治療だと? 驕り甚だしいな。お前のそれは単なる遅効性の毒だ。甘い囁きで希釈しただけの猛毒だ」

「毒を以て毒を制するとも言うでしょう? 毒が全て有害になるとは限らないわ。あなたの方こそ浅慮と言わざるを得ないわよ?」

「流石だな。口実に正当性を持たせることだけは達者らしい。だが所詮はそれもお為ごかしだ。使い潰すか遊び飽きるかすれば、悪びれもせず平気でモノのように捨てるのだろう?」

「えぇそうよ。でも、当分は離さない。あなたの時だってそうだったでしょう?」

「邪欲と肉欲に穢れた淫魔が」


 吐き捨てるように、その人は言った。

 対するこの人は、飄々とした声音と口調のまま、妖艶な微笑みに目を細めていた。


「麗しの女神様に向かって淫魔だなんて、酷いこと言うのね。あなたのお陰で、あの時から変わらず、この体は一応処女なんだけど」

「実用性のない無益な情報更新をありがとう。尤も、それにリソースを割くつもりは毛頭ないが」

「あなたが生き残れたのは何故? 全てを喪ったあなたが立ち直れたのは何故? 何も特別じゃないあなたが救世主と謳われたのは何故? あなたがこうして、生きて私と再会できているのは何故? 私が側であなたを支え続けたからでしょ? 毎晩孤独に泣くあなたを私が抱きしめてあげたからでしょ?」

「弱みにつけ込んだの間違いじゃないか? ものは言いようとは聞くが、お前の場合は単なる思い上がりだ」

「けど、心地の良い共依存だったでしょう?」

「だからこその汚点だ」


 禅問答のようなやり取りを、俺はただ傍観していた。

 この場の当事者でありながら、その話題の部外者たる俺にできることは、胸の『高鳴り』を必死に押し殺すことだけ。


「……それで? 用件は何だ? 凡そ見当は付いている。これ以上の不快な前置きは必要ない」


 埒があかない……と言わんばかりに溜め息を吐いたその人は、唐突に切り込んだ。

 しかしこの人に動揺の色はまるで見られず、冷たさを含有する細めた瞳でその人を射抜き返した。


「そう。私としては、前置きというより久々の再開が嬉しくて昔話に花を咲かせていたつもりだったんだけど、あなたの認識はそうじゃなかったのね」

「精神性にまるで成長がないな。容姿と声音、表情と仕草を繕えば相手の方から勝手に歩み寄ってくれると、未だに勘違いしているらしい。

 何年生きているのかは知らんが、良い加減に悲劇のヒロインは卒業したらどうだ? お前にそのキャラクターは向いていない」

「嫌よ。群像劇が演じられるこの世界全体を私の独壇場にすることはできないけど、少し狭くても別のステージを用意して、たった一人にスポットライトを当てれば、私は唯一人のヒロインになれる。

 それに勘違いじゃない。現にあなたは歩み寄ってくれたじゃない。最終的には拒絶されちゃったけど」

「思いの外、根に持っているらしいな」

「えぇ。私があなたを捨てた、とあなたは私を悪く言うけど、元々の原因はあなたにあるもの」

「生憎だが、過ぎた話に、それも痴話になど興じるつもりはない。用件を話せ」


 端的にだ、と語気を強めてその人は言った。


「そ。ならあなたも理由は訊いて来ないでね?」

「相手の知りたいことでなく、相手に聞いて欲しいことでもなく、自分の話したいことしか話さない。それがお前だろう。だから前置きは必要ない、そう言ったんだ」

「じゃあ単刀直入に言うわよ? 人工の神様から神格を剥奪してくれるかしら」


 どこか不機嫌げに、この人は言った。口調や表情に変化はないが、その声音には仄かな怒りが込められている。

 対するその人は瞼を微動させ、思案するように腕を組み沈黙した。

 この人に催促する様子はない。その返事を待つ艶やかな笑みは、まるで未来を知っているかのようだった。


「……首を振った場合はどうする?」


 暫しの間を置いて瞼を開いたその人は、試験管の中身を脇にある排水口に流した。


「相変わらずね。この子のは愛らしくて好きだけど、あなたのそれは偏に小汚いわ」

「では問い直そう。首を横に振った場合は——?」


 声音を豹変させて、その人は問うた。

 投げられた一瞥を、この人はどこ吹く風で受け流す。


「天罰が下る、なんてことはないわ。特にこれといったペナルティもない。ただ、あなたのことが嫌いになっちゃうかも。それだけは嫌でしょ? 指導者に格落ちした元救世主様?」

「白々しいな。だが成る程。やはり持ち主は物の内面など見ていないか。

 小汚い害悪の権化よ。お前の誤りを一つ正そう。

 俺は一度たりとも、自分が救世主だと思ったことはない。でなければこんな薄汚れた部屋に独りでいるものか」

「そ。それで返答は?」

「首肯以外の選択肢があるなら是非聞かせて欲しいものだ」

「そう。ありがとう。やっぱりあなた、私のこと大好きなのね。私もあなたのこと、だ〜い好きだったわよ」

「だが、肯んじる前に一つ条件がある」

「何かしら。可能な限り要望は聞くけど?」

「——消えろ。愛欲に穢れた獣」


 その人が言い捨てると、この人はわざとらしく目を白黒させ、間を置いた後柔かに笑った。


「了解よ。私とあなたの間に交わされた契約に、二言は許されないから。今度こそ、ちゃんと約束守ってね」


 言って、漆黒のミニドレスを着たその人は俺の手に絡めていた指をそっと離した。


「私はずっとあなたの側にいる。だから何かあったらきっと頼ってね?」


 正面に一瞥を投げ、まるで当てつけのように俺の頬にキスをして来たその人は、「ばいばい」と言い残しステップを踏むような足取りでドアに向かって行った。

 意思とは関係なしに高鳴る胸が、どうしても収まろうとしない。そんな自分が本当に気色悪かった。恋なんかじゃない。それは言い切れる。俺が好きなのは明莉だけだから。

 けど、あの人に植え付けられた何かが、心底で発芽した気がする。そしてその栄養に明莉への想いが使われた感じがして、ぽろぽろと「それ」を覆うメッキの剥がれる音が聞こえた。

 その炯眼は、そんな俺を見透かしているようだった。咎めることも説くこともせず、その人はくるりと背を向けた。


「ぁ、……ぉ、俺は——」

「無理に口を開く必要はない。まだ答えは出てないのだろう? その様子を見れば、俺でなくとも分かる」


 そうだ。その人の言う通り、質問に対する答えはまだ見つかってない。

 けど、今言葉にしなければ、今言葉にしておかないと、壊れてしまう。「それ」を直視してしまう。

 今ならまだ間に合うんだ。代わりのものを用意して言語化すれば、「それ」を覆い隠せる。

 だからどうか、言わせてくれ——


「ぁ、あの——」

「開式前には通知するから君は部屋で待機していろ……と言いたいところだが、11試合目も佳境に差し掛かっている。君が部屋に戻った頃には丁度契約の儀が開かれる時間となっているだろう」


 「あの阿婆擦れめ、時機を見計らって来たな」とその人はまた吐き捨てるように言った。


「…………はい———」


 手を握り締めるばかりで、結局何も言えてない。歯を噛み締めるだけで、その実何も考えてない。

 蕾に覆われていた「それ」は遂に真っ黒い花を咲かせた。そして俺は……それを直視してしまった。

 丁度その時だった。ドアの方に向き直った俺の背中に、その人はまるで全てを見透かしたかの如く語りかけて来た。


「言葉の表面をなぞっただけの解釈をするな。君の想い人、彼女が遺した言葉の意味を取り違えるな。彼女がその言葉にこめた想いを、決して忘れるな」


 「はい」と答えることができなくて、糸が通る程度に開いた口から模糊とした母音だけを零し、俺はその部屋を後にした。



 ドアを出た瞬間に、口と胸を押さえ、全力で階段を駆け上がった。


 そして最寄りのトイレに駆け込んだ。


「オ、ェ……ッッハァ、ッゔ、ハッ、ハァッ、オェッ……ハァ、ハァッ、ゔッ、エェ……ァ、ぅ……ッッ——————」


 鏡に映る顔は、最悪の一言に尽きる。でも、仕方がなかった。見てしまったから。知ってしまったから。言葉にしてしまったから。


 気付けば俺は、


「……ッお、れは——————」


 ……明莉の顔を思い出すことを、拒絶してしまっていた——————


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