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デュアル・ワールド=ファンタジア  作者: 遠野夜空
第一章 愛欲に濡れたプレリュード
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第一章 Ⅺ 蛆虫の最盛期

           第一章  Ⅺ

           蛆虫の最盛期



 ———夢を見た。授業中に先生の話を聞くフリをして、隣の席に座る少女の横顔をチラッと見る夢を。


 ———偲ぶような夢を見た。好きだった少女に想いが届かず、懸命に自分を磨き、優しくなろうと踠き続ける夢を。


 ———優しい夢を見た。好きな人と初めてまともな会話ができて、夜にベッドで悶える夢を。


 ———幸せな夢を見た。隣を歩く大好きな人が、朗らかに微笑んで来る夢を。


 ———悲しい夢を見た。ずっと一緒にいたいと願った大切な人に、銃口を向ける夢を。


 ———見たくない夢を見た。愛してやまない人の体が、目の前で消滅する夢を。


 ———自分を心底憎んだ。こんな自分を愛してくれた人を殺し、なのに生き残った自分を。



「——ぃ。……い。あ…ぃ……へい。ぁおい……へい。葵二等兵」

「ッ……!! は、はい——!」


 反射的に立ち上がり、直ちに敬礼。

 すると、俺の眼前に立つ長身の御人は表情を崩し、楽にしてくれ、とジェスチャーし、俺の横に腰を下ろした。

 視線で座るように促すその人の名は……。

 あれ……誰だっけ——


「すまない。二等兵ではなく、元二等兵だったな。国家体系が崩壊したんだ。況んや軍隊をや、と言ったところだ。

 敬意を表してくれるのは素直に嬉しいが、敬礼をする必要まではない。楽に接してくれ」


 疲れ切った顔色と、そのせいか少しだけ退廃的な瞳を持つその人は上等兵、つまりは俺の上官に当たる人だ。


 その人の言葉の中にあった「国家体系の崩壊」とは決して比喩ではない。

 政府機関が文字通り消滅させられ、国のトップが根こそぎ彼岸へと送られたのだ。

 その中には当然、為政者だけでなく俺達軍人を統括及び指揮する総帥や元帥といった多くの将校も含まれており、俺達は対亜人種救世軍から単なる残党へと堕落した。

 これまで、運命共同体の域を超え、群体、いや一つの生命として血縁よりも強固な結束で結ばれていた人間は、長期の大戦に伴う疲弊と資源枯渇に喘ぎながらも頑として抗戦の姿勢を見せた。

 それを支え、鼓舞し続けてきた代表機関がたった一度の攻撃で消滅。

 俺達人間の戦意を支えていたのは、矜持でも尊厳でも国のトップでもない。単なる無知だったんだと思い知らされた。

 奴らの論点はそも戦略なんかじゃなかった。人道だ。人間種を根絶すべきか否か、作戦行動の範疇を超えた虐殺を是正すべきか否か。

 いや、もしかすれば誰が最高責任者に成るかで揉めていた可能性だってある。

 終戦後の世界を見据えて、今頃勢力争いに躍起になっていることだって十二分にあり得る。

 俺達がこうして決死の覚悟で戦場に赴く中、連中はピクニック感覚で戦場に遊びに来ているのだろう。


 真っ暗い空間の闇が、俺の心に溶け出てくる心地がする。自ずと思考も真っ黒く染まる。

 そんな俺の隣で、その人は胸から煙草を取り出した。

 「いるか?」という仕草に無言で首を振る。


 ふぅーー……煙を口から吐き出したその人は、口内に残った僅かな煙と一緒にぽつりと言葉を発した。


「……はじめから、勝ち目なんてなかった」

「ッ……!」


 残り少ない煙草の一本を指に挟みながら、「そう思うか?」とその人は言った。


「………はい」

「そうか——」

「……この大戦は、セカンドとは訳が違う。

 救世主が死んだ今でこそ慢心と慈悲が見え隠れしてますけど、開戦直後はそれが全く無かった。前回との違いは、たったそれだけですよ? 

 連中が恐れていたのは人間の底力でも結束でも何でもなくて、単なる科学という思想兵器だったんだ。世界大戦の動機は元々それだったっていうじゃないですか。

 けど今や、連中は憎悪と復讐心で動いている。何とか勝利を収めたセカンドだって、核兵器や爆撃、虐殺や拷問、非人道の代名詞とも言えるそれらを尽くしても、結局は勝因のほんの一部にしかならなかった。

 勝てる勝てないの話じゃなかったんです。

 きっと、ずっとずっと昔、人間が科学を生み出した瞬間から、この結果は確定してたんだ——」

「結果、か。確かに君の言う通りだ。……いや、全く以てその通りだな。

 『確かに』の後には逆接を置くのがセオリーだが、そもそも異論がないのではどうしようもない」


 「学のない私に運命論は語れないが、確かに勝敗はとうの昔に決していたように思う」とその人は俺以上に厭世的な双眸で呟いた。


「……これは積まれた屍の山の中で聞いた、噂話にも劣る信憑性の話だが、曰く、政府は世界との心中を考えていたらしい」

「……ぇ——?」

「終末兵器という名を知っているか?」

「……名前、程度は——」

「終末兵器とは、文字通り世界に終末を齎らし、凡ゆる生命を死滅させる兵器の総称だ。

 総称、つまりは終末兵器という規格が存在することからも、それが一つでないことは確からしい。

 政府はその内一つを以て世界心中を図り、亜人同盟も終末兵器を以てそれを阻止した」

「……もしかして、半年前の首都消滅って——」

「今となっては確認のしようもない。だからあくまで確たる根拠のない風説だがな。

 だが確かに敗北を予見した上層部が、窮余の末に自棄になって世界と無理心中を図ろうとした可能性もあり得る。降伏したとしても、まず間違いなく彼等は死刑だっただろうからな。

 イタチの最後っ屁としては少しばかり高火力過ぎるとは思うが、葵元二等兵には共感のできる話か?」

「……理解はできますし、納得もできます。けど、共感も賛同もできません。俺は……絶対に死ねませんから———」


 胸の内にある、強迫観念に似て非なる激情が、俺を駆り立てるから。

 何があろうと絶対に、是が非でも生き抜かなければならない。何を犠牲にしても、たとえ隣に座るこの人の死肉を食らってでも———


「……成る程。私は妻も子も失った身だが、君にはまだ、そういった存在がいるんだな。羨ましくもあり、見ていると少し苦しくもある」

「いませんよ——……きっと。もう、どこにも———」

「……そうか。ならば君がこんな集団自殺に等しいふざけた作戦に参加し、こうして私と再会を果たしているのも、それが理由か? 私のように、死に場所を求めての従軍かね——?」

「……分かり、ません———」


 「そうか」とその人は小さく呟き、煙草を咥えて一気に吸い、呼気と一緒に排煙した。

 俯く俺の鼻腔を煙の匂いが刺す。初めて嗅いだような、そうじゃないような、奇妙な心地が俺の心の隅にひっそりと湧き、そのまま根を生やした。


「何で俺は、此処にいるんでしょうか———」


他人に諭されたところで、意義なんて見出せない。悲観にも聞こえるだろうが、これが真理だと思う。

 何を言うかが重要ではなく、誰が言うかが重要なのだ、とよく聞く台詞の裏にもこれが潜んでいる。

 だからその人は、「……そうか」と頷き、それ以上何も言わなかったんだろう。



 幾許か時間が経った後、予定の時間より早く招集がかかった。対亜人種救世軍残党としての最後の作戦、その決起集会である———



     §



 世界大戦と聞けば、世界規模の大戦争をイメージするだろう。

 しかし実際の所、最初こそ世界大戦の形式に収まっていたものの、序盤のある時期から世界は狩猟場と化した。

 2世紀に亘る人間種の絶対王政、その報復として亜人種は人間種を徹底的に惨殺し、蹂躙し、犯した。

 首都は壊滅せしめられ、前線は幾度となく崩壊に追い込まれ、領域は縮小に縮小を繰り返し、いよいよ人間種は元いた大陸ユーレイシアから未開の大陸エイフライカへと中枢機関並びに人民の多くを移した。

 そこで態勢を立て直さんとしたがしかし、亜人種の猛攻は尚も続いた。ユーレイシアには疎らに戦場が残るのみである。

 そして此処はその最前線の後方。

 俺達は今、海より来たる旧時代の遺物を迎えようとしている。

 人類史上最大の火力を誇るとされた水素爆弾が、2世紀の時を経て蘇ったのだ。

 爆撃機及び戦闘機の機動力は飛行魔法に大きく劣っていたため、それらは投下ではなく特攻による爆破が主体であったとされている。

 そして核兵器は亜人種の肉体をも蝕んだ。つまり人間にとっての核兵器とは、それそのものの威力ではなく人体に及ぼす害を目的に導入された破壊兵器である。

 叡智と暴力の結晶体ではなく、叡智と害意の結晶体と形容し直した方が適当なのかもしれない。非人道兵器の異名は決して誇張表現ではないのだろう。

 とまれこうまれ、そんな旧時代の遺物が此処に召喚された。俺達はそれを以て亜人種に一矢報いるべく特攻作戦を仕掛ける。

 プラズマ砲やレールガンを失い、時代錯誤甚だしい拳銃を装備し、大陸間弾道ミサイルでもなく、単体最強の破壊兵器を作戦の要とし、片道切符をボロボロの手に握りしめ、こうして決起している。


「此度の第三次世界大戦、その最序盤にて、奴等は数世紀に亘る人間の進歩、科学の歩みを嘲笑うかの如く刹那の内に無へと帰した。

 赤子の手を捻るよりも容易く、道端に生えた雑草を踏むが如く、我々人間の積み上げて来た文明を、技術を、矜持を尊厳を努力を血と汗を、造作もなく一蹴した。

 前線の度重なる崩壊と指導者の消失、何より救世主の喪失が、我々の武装をこうして第二次世界大戦期にまで退化せしめた。

 確かに、我々人間が先の大戦にて辛勝を収めたのは事実だ。しかし周知の通りその素因は亜人種の驕りと分裂によるもの。人間は勝利にまるで作用していない」


 そうだ。だから笑えるくらいに無謀なんだ。

 神の加護もない。科学は衰退し後退した。二世紀前の成果物なんてガラクタに等しい。

 対して敵は神の庇護下にある。勝利の女神は微笑むばかりか全面的に向こう側につき、最前線にて旗手を務め亜人種を先導している。

 どう頑張っても、俺達人間に奇蹟は掴めないんだ。此処が残っているのだって、単に重要じゃないからだ。俺達の功績だの努力だのの成果じゃ微塵もない。

 今更時代錯誤の銃を手に取ったって死を先延ばしにすることもできない。もう、詰んでるんだ。

 なのに——


「なればこそ、己が何の為に生を受け、何の為に死にゆくのか、これは重要命題たり得よう。

 して同志諸君。君達はこの命題について考えたことはあるかね? 私はあるとも。これまで幾度となく考えて来たとも。人は一体何の意味で生まれ、何の為に生きるのか」


 何で皆んな、そんなに顔を上げられるんだ。愛する人も喪って、身体の一部も喪って、希望なんて欠片も残っていないのに、何でそんなに、前を向けるんだ。

 何でこんな無意味な作戦に、あんな万年一等兵の無名の男に、命を投資できるんだ。

 何でこんな死の隊列に、俺は並んでいるんだ——


「果たして我々の生に、意味はあるのか。我々の行動に、果たして価値はあるのか。諸君も疑問に思っていることだろう。故に、私が此処に答えを明示しよう。

 我々の生に意味などない。この作戦に価値などない。私に諸君らの命を預かる器量などない。救世主亡き今、光など一条も残されていない。

 故に我々の行動に成果などあり得ない。先の大戦期に発案された叡智と暴力の結晶体なる熱核兵器。本作戦の要たるこれに戦況は覆す能力はない。これと比較すれば、本作戦の成功率も相対的に見て高いと言えてしまう程だ。

 断言しよう。本作戦に期待される成果は皆無だ。故に君達の死が勝利に貢献する希望はゼロだ」


 俺達の指導者は段々と声音を変えて続けた。


「我々の生に意味などない。それは死もまた同様だ。虫けらに等しい我々が全身全霊を以て拳を振るったところで、運命は揺るぎもしない。これは自明の理だ。

 是。我々は弱者だ。然り。我々は敗者だ。

 虐げられ、侮られ、蔑まれ、嘲られ、踏み躙られるだけの、取るに足らない雑兵だ。力の差は骨の髄まで、筋肉の繊維まで、全身の細胞まで、遺伝子の塩基に至るまで刻まれている。

 相対的でなく絶対的な厚く高い壁を打ち砕く術など、この世のどこを探し回ろうとも見つかるまい。

 よしんば実在したとて、我々にそれを掴む術など一つもありはしないのだから、結果は、未来は、結末は……! 」


 「何も変わりはしないのだ」と嘲るように、その雑兵は言った。

 更に、雑兵は言葉を並べる。


「我々には何も掴めない。我々には何も変えられない。我々は所詮、特別には成れない。

 輝かしい英雄譚に登場する一騎当千の英雄達に憧れることすら、数世紀も前に馬鹿馬鹿しいと止めてしまった、前進も望めない愚昧、それが我々である。

 希望は我々の身を焼くだけの暴力だ。絵空事は我々の心を抉るだけの凶器だ。

 そうして我々はいつしか、夢を語ることさえ放棄した。思考を唾棄し、希望に唾を吐き掛け、それを語る者を袋叩きにし、皆んな仲良く手を繋いで、なけなしの笑顔を寄せ集め、秒読みに耳を塞ぎ、それが虚栄だと、欺瞞であると理解していながら、輪を作って謳うのだ。

 仕方がないと、自虐的で空虚な笑みを浮かべて、そう言うのだ」


 幾許かの間を置いて、死の特攻隊の指導者は「——いいや」とかぶりを振った。


「そんな筈はない。仕方がないだと……? その根拠は何だ。その根底にあるものは何だ。

 その諦観を、言うなればそのエゴを、我々は次の世代にも押し付けるのか?

 我々も諦めたから、お前達も諦めろと、世界は無情だからと、そう強要するのか?

 ふざけるな……!! 敵から強要されたものを、他ならぬ我々が、愛する者達にも奴等と同様に強要するのか!? そんなことが許されていい筈がない!

 矜持など無い。尊厳などとうの昔に踏み躙られ変形し腐敗した。

 しかし! 我々には唯だ一つだけ、決して奴等にも奪えぬ、そして我々にも放棄できぬものが残されている!

 訊こう。その炉心とは何たるや」

「「責任なり——!!」」


 地面を震わせる程の喊声が灯火を揺らした。


「然り。我々大人には果たすべき責任がある。

 一つ。次の世代を担う子らが為に、人間の尊厳を、誇りを示す。

 一つ。命を擲ち戦い抜いた英霊達が為に、人間の意地を、覚悟を示す。

 足踏みしか出来ぬのなら軍靴を鳴らせ。群れるしか能がないのならそれを極め抜き鬨の声を上げろ。自虐が好きなら戦場で敵を巻き込んで死ね。自己を嫌悪するのなら自爆しろ。心中をしたいのなら死地には戦場を選べ。自殺をするのなら戦場で死ね。

 先人達より継承したか細き聖火を次の世代へと繋ぐ。

 前人達より受け取った一縷の光を未来の子らへと紡ぐ。

 それが我々の為すべき、最低限の責任である!

 それが救世主より与えられた、血みどろの使命である!」

「「是なり——!!」」

「我々軍人はこの狂った世界に抗うが為に存在する! これこそが我らの絶対にして唯一の存在意義である! 我々は己が命の灯火を以て、世界に叛逆の狼煙を上げる! 陽炎の如く儚き聖火に絶やすことなく肉体を焚べ、世界に闘志を知らしめす!」


 残兵を死地に導く雑兵は、無量の感情を籠めて握り拳を作り、全霊を以て俺達を鼓舞する。

 心が戦慄するように揺り動かされた。

 抑揚や声音、仕草や表情、間の取り方や演説力が、その男の圧倒的カリスマを支えている。正道を歩んだならば、決して発露することのなかった、天賦の才を。

 男の伝えたいことを端的にまとめれば「無意味に死んでくれ」である。

 男はそれを伝える為だけに、更に言葉を募ろうとしている。


「神に依らず自立する我々こそ、真の人類である! 今こそ人類を僭称する奴らに、人類の真意を知らしめようではないか! 奴等に神の天罰が下らぬというのなら、我々が正義の鉄槌を下すのだ!

 我らの故郷を踏み躙り、我らが同胞を惨殺し、愛する人を凌辱した奴等に、目に物見せてくれる! 科学の底力を、我々の執念を思い知らせてやる!」


 ——曰く、俺達死の特攻隊が目指すは敵本陣でも戦略拠点でもなく亜人種の密集区域。

 まず地上部隊と空中部隊に分かれる。後者は爆撃機と戦闘機に乗り、空から陽動並びに特攻を仕掛け、前者は水素爆弾を持ち電撃的に北上する。

 自棄と言ってしまえばそれまでだ。自己満足と言われればその通りだ。

 しかしそれでも、死の特攻隊は作戦を遂行する。天上にも届く程の狼煙を上げるが為に。


「所属する国家を、帰る場所を喪った残兵たる我々に残された、ただ一つの寄る辺! それが戦場だ! 故に我々軍人は戦場で生き、戦場で死ぬ!

 奴等が殺戮を続行すると言うのなら、我々も応酬を断行する! 人道を歩まぬ奴等に人情など不要だ!

 我々の勇姿を! 我々の在り方を! 我々の叫びを! 奴等の腐った脳裏に焼き付けてやろうではないか!

 神など所詮は貴様らの偶像であるということを痛感させてやるのだ!

 我々こそが真の人類の担い手であることを、人類史の語り手であることを、人類の守護者であることを、此処に証明してやれ!!」

「「ハッ!!」」

「戦友達よ! 人間の未来を繋ぐべく、今此処に立ち上がれ!

 英雄達よ! 命の灯火が尽きる、その瞬間まで戦い続けろ!

 同志達よ!!人間が奇蹟を掴む、その時が為に屍の丘を築け!

 征くぞ!! 勇者達よ——————!!」


 励声が地を震わせんとする、その刹那だった。


 足元を「何か」の影が覆った———


 見下ろせば、地には巨大な闇が広がっていた。しかし見上げれば、天には超巨大な蓋があった。

 翻天覆地。まるで天と地がひっくり返ったかのようだった。

 東雲の淡色に染まった空を覆う真っ黒いそれは、さながら天空に大陸が生まれたかのようだ。

 核兵器を叡智と害意の結晶体とするならばそれは、神秘と憎悪の結晶体である。

 最早、戦慄も恐怖も覚えない。きっと、出来ることが何もないからだ。

 結果、嫌でも悟らされる。


 ———あぁ。無理だ。


 俺達死の特攻隊に許されたことは、ただ言葉を失い、立ち尽くしたままその終末兵器を見上げるのみである。

 確かに、死の特攻隊は死を覚悟していた。寧ろそれこそが本望であった。

 けどそれには「人間の為に、未来を担う子どもの為に戦い抜いた名誉ある死であること」という前提がある。つまり死の特攻隊の望みとは戦死である。

 だが、俺達が悟ったものはそんな大層なものじゃなかった。消滅という表現が一番近い。

 格の違いを見せつけられた。神の存在を知らしめされた。望みなど一縷も存在しないことを思い知らされた。彼らが人類の頂に立つことを証明された。


「——何だよ、何なんだよ、これ………」


 一人が、俺達の総意を代弁した。


 鳩をモチーフにしたと思しき超巨大空中戦艦が空を覆っている。それは科学では決して到達し得ない神秘の具現だった。言うなれば、神話の体現だ。

 突如現れた終末兵器は俺達の遥か上空で滞空している。規格外の大きさなせいか、距離感が掴めないし、そんなことを考える余裕なんてなかった。

 直感するのは、これが人間の中枢を消滅させたということ。そしてやろうと思えば、きっと第三次世界大戦は一日も跨ぐことなく終結していただろうということ。


 「何で此処に——?」

 そんな疑問を口にする人間は一人もいなかった。

 代わりに、皆んな予見した。もうじき訪れる世界大戦の終結を。人間種の絶滅か無惨な大敗で幕を閉じることを。


 俺達が呆然と立ち尽くす中しかし、ただ一人尚も戦意を喪っていない兵がいた。言わずもがな、俺達死の特攻隊を先導する名も知らない雑兵である。


 その人は我に返った瞬間にバッと振り向き、起爆装置を取り出した。

 首都の有り様を見て来たと言うその人は、この場にいる誰よりもあの超巨大空中戦艦の脅威を理解しているようだった。

 全てが無に帰されるというのならせめて——! と考えたらしきその人は躊躇うことなく起爆装置に指を伸ばした。


 ——だが。どうしてか、走馬灯を見なかった。

 代わりに、その人の手中にあった起爆装置が道化師に変わるのを目撃した。いいや、「変わる」ではなく「代わる」と言うべきなんだろうか。


 突如として現れた道化に腕を押し潰されたその人は、未だその隻眼に闘志を宿していた。片手に持った拳銃を水素爆弾の格納された巨大倉庫へと向ける。


「ッッ——……!!」

「こいつは凄いな。トても人間トは思えねえ。だが英雄さんよ。こッちも仕事なんだ。悪いが死んでクれ」


 口角を吊り上げた道化は頭に被った鍔の広い三角帽を脱ぎ、その人の顔へと落とした。

 歯を食いしばり引き金に伸ばした指に全身全霊を籠めるその人は、帽子が被さった途端に脱力した。


 脳の処理が終わるより早く、展開が流動する。

 死の特攻隊総員が、水素爆弾を起爆させようと決起した瞬間に、道化の帽子から血臭混じりの煙幕が勢い良く噴き出た。


「ッ……!!」


 無意識的に口を覆うと、眼前に歪んだ笑みが出現した。それよりも先か前か、腹に衝撃が入り、視界が超加速した。

 意識と体が分裂したとさえ思った。鉄砲から放たれた鉛玉のように弾け飛び、忽ち稲妻の如く激痛が全身を駆ける。

 逆流した血が気管に入り発狂を許さない。明滅する意識が、死を予告しているようだった。

 明滅の間隔がどんどん短くなっていき、脳裏に走馬灯と思しき何かが……誰かのシルエットが浮かんで来る。



 ———生きろ。殺せ。掴め。奪え。拓け。焚べろ。その手を血肉で朱に染め、屍の丘を作れ。その足で肉塊を踏み、丘の頂に登れ———



 ———違う。お前じゃない。



 ———生キテ。殺シテ。愛シテ。憎ンデ。貰ッテ。奪ッテ。ソノ純真ナ心ヲ血肉デ汚シテ、私色ニ染メルノ。ソノ純潔ナ体ヲ真紅ニ染メテ、私ノ毒デ犯スノ———



 ———違う。お前でもない。



 ———葵。きっと生きて、幸せになってね———



 ———そうだ。君だ。……君が、俺の炉心だ。



「——オェ……ゔ、ェ、ッ……ァ、ゥ、ぐ………」


 水手から無理矢理に六文銭を取り返し、渡し舟から飛び降り、此岸へと帰還する。

 けど、駄目だ。どの道長くない。多分、骨だけじゃなく臓器もやられてる。口から溢れる血反吐が致命傷を負ったことを物語っていた。


「ッ……ゔ、ァ、……ッオ、ェ………」


 痛覚のせいで、聴覚までやられたのか。じゃないと説明がつかない。あまりにも静か過ぎる。

 聞こえるのは内から響く心音だけ。外から聞こえる音がそれに掻き消されている可能性だってあるにはあるが、大き過ぎる違和感がそれを信じさせない。

 そしてそのゾッとする程に低い声が、その可能性を完全に否定した——


「——おはよう。よく眠れタか? つッても、十数秒程度だが」


 背筋を伝った正体不明の拒絶反応が血管を経由し全身へと伝播した。

 恐怖を優に上回った嫌悪感が喉に詰まる。


「早速だが青年。お前に選択肢を提示しよう。俺に殺されるか、あれに殺されるか、はタまタ第三の選択肢か、好きに選んでクれタまえよ」


 あれ、とは言うまでもなく空を覆うあれのことだろう。

 第三なんて言うが、結局は殺されるか自害するかの二択じゃないか。

 それとも俺が自然に死ぬのを待ってでもくれるのか?

 だとしても死ぬか殺されるかの二択。結果を見れば死ぬの一択だ。


「……な、にも変、らな………か——」

「何も変わらないから。それが選択をしなクて良い理由になるト? 朝食に何を食うか。会議をバックれるか否か。今日は真面目に働クか否か。今日は何の手品を練習するか。人生はそんな選択の連続だ。

 人生の基本単位は刹那だが、それを決定スるのが選択である時点でどんな選択でも軽視スるのはナンセンスだ。生を受けタ者全てに対スる冒涜だ。

 俺はお前に選択肢を提示スるこトを選択しタ。だから次はお前だ。妥協で満ちタ生を送る奴に人を名乗る資格はない」


 思わず、目に湛えていた涙が頬に落ちた。

 男の言葉に感動したからなんかじゃ欠片もなくて、自分の無力さと愚かさと惨めさを改めて痛感させられたから。

 他の人達が動く中、俺だけはずっと突っ立ったままで、結果的に最後の一人になって、どう死にたいかの選択肢を迫られて、挙句今にも死にそうな状況で説教垂れられて、本当にどうしようもない。

 自分の惨めさに殺意さえ覚えた。嫌悪感では収まらない衝動を。

 けどそれらじゃ遠く及ばない激情が、俺の心を支配していた。

 俺を突き動かすたった一つの原動力。行動原理は不明なままだが、それだけは明確に残っている。

 誰かが遺してくれた、何よりも大切なそれを、言語化する———


「………ない」


 砕けた肋骨と弾けた内臓……自分でも何で動けているのか、何で生きているのか分からない。

 だが、そんなことはどうでも良い。こいつが何者かなんて関係ない。


「……死ねない」


 死ねない理由も、死にたくない理由もない。きっと、全部かなぐり捨てて死んでしまった方がずっと楽だ。

 けど——


「死ねな、んだ……。お、れは……俺、は……何を差し置いてでも、何を擲ってでも!! 絶対に生きなきゃいけねえんだよ———!!!」


 気付けば腕に嵌められていたモノクロのリングに指を伸ばし、出力を開始する。

 そして左手に顕現した拳銃のブレる銃口を道化に向け、引き金を引き絞る。


 だが、撃ち放った銃弾がその歪曲しイカれた笑い顔に届くことはなかった。

 銃弾は淡い青緑のスクエアに造作もなく弾かれ、既存の擬音では表現できない音が道化と俺の間に落ちた。


 そして道化はハットの鍔を摘み上げ、片目を覗かせた。真っ暗い紫の瞳の中を、輪廻を思わせる二十強の黄金の円環が三次元的に回転している。


「厭世ト絶望、意思力ト強迫観念を内包スるその眼。人の弱さト脆さ、愚かしさト情けなさを象徴スるその姿勢。お前は確かに人間だ」


 「俺は好きだぜ」と言い、道化は俺に背を向けた。


「人間は神に依らず奇蹟を掴むんだろう? ならその手で掴み取ッてみせろ。その足で奇蹟に至ッてみせろ」


 健闘を祈る、とそう言い残した道化は現れた時と同じく唐突に消えた。

 予備動作も兆候も何も無しに消滅した男のいた場所には、水素爆弾の起爆装置がポツンと置かれている。

 その起爆装置に目のピントを合わせると、その影が俺の方に向けてぐいんと伸びた。

 水平線の彼方より差す夜明けの光……じゃないことは考えるまでもなかった。

 水平線に背を向ける俺の正面、遥か上空から降り注ぐその光は紫に輝いている。


 凝縮する光は、さながら神の御光のようだった。神話を体現したかのようなその光景は、世界の終末を彷彿とさせた。

 俺に許されたことは、絶望に膝を折ること。俺に与えられた結末は、この世からの完全消滅。

 避けられない死を悟り、無意識のうちに口を動かしていた———


「———ざけるな……」


 ———約束したんだ。


「大切な誰かと……」


 ———必ず生きて、幸せになると。


「そう、誓ったんだ……」


 ———だから。


「死ねない。俺は……!! 死ねないんだよ————!!!」


 雄叫びというよりも発狂だ。発狂というよりも断末魔だ。叫んだって何も変わらない。走ったって何も変えられない。


「あぁぁぁぁあああああああああああああッぁああぁぁあぁぁああぁあああああああッッああああぁぁあぁぁッぁああああああぁあ—————————————————————!!」


 ——だがそれでも、こうせずにはいられなかった。


 ゴォォン———!! と鐘声に似た音と共に、万物万象を消滅せしめる光の柱が放たれた。


 視界が光に包まれ、恐怖や憎悪、痛みや苦しみもなく、俺の肉体は、俺という存在は、世界から完全に———


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