最終話 不条理刑事の行方
1
中村は森脇星子に張り付き、様々な場面を巡り通過しながら、この世界の、始まりの起点に近づいていた。
舞台はモスクワ州ルサリ六丁目Dブロック227。小池恵子の別邸に行き着く。以前(正確に言えば未来だが)訪れた時のような風化の跡は無く、眩しいほどに白い外壁と真っ赤な屋根の色が、殺風景な周囲に対比して、けばけばしい印象を与えていた。
逆再生のように森脇星子がベットに潜り込んだ途端に、遡行は終わりを告げた。
中村は素早く森脇のもとを離れ、屋外へ出る。蜘蛛から野良犬に姿を変え、茂みに身を隠した。ここからの森脇の一挙一動は、すでに把握済みである。何らかの対処をして、これから彼女が起こす暴虐の数々を、一時的に止める事はできるだろうが、根本的な問題を解決した事にはならない。
不意打ちを食らわせて、流れを断ち切ってみるか? 夢の主と思しき相手が消滅した場合、結果はどちらに転ぶのか。そんな不確かな冒険はすべきではないだろう。
中村は鼻を濡らし、長い舌を顎の下まで垂らしながら、思考を整理していた。
*
森脇星子が目を覚ますと、小ぢんまりとした部屋の壁際のベッドにいた。周囲に目を移すと、右手には木製の小さな机があり、壁には日本地図が貼ってあった。地図の下には小さな数字で一年分のカレンダーが記載されている。
「またこの夢か……」
森脇は過去に何度も目にした、お馴染みの風景にいささかウンザリしていた。ここは幼い頃、親の都合で住んでいた家の、記憶の中の部屋だ。
夢の続きは大体決まっている。小さい頃、理不尽にイジメた酷い奴らに、じっくりと復讐をするストーリーだ。一人一人に、様々に、残虐な方法で。
今回は誰から、どんな倍返しをしようか。思考をまとめ、防寒着を羽織る。外は激しく吹雪いていた。夢とはいえ、全てが全て自分の思い通りにならない事を学習していた。
森脇は、最初のターゲットを小学校の担任教師に定め、M249軽機関銃を用意した。
ドラム型の弾倉を装着すると、一度に百発の弾丸を放つ事ができ、標的を瞬く間に蜂の巣にする。まもなく目にする理想的な情景を思い浮かべ、森脇はニヤリと笑った。
防寒着の両ポケットに予備の弾倉を入れ、家の前に停めた銀のプリウスに乗り込む。銃はいつでも使えるように、助手席に放り投げた。
自宅から南東にカーブを描きながら、すれ違う車も無い閑散とした道路を進んだ。
六分もすると、森が開け立派な小学校が姿を現す。記憶が曖昧なのか、建物は所どころ断片的で、輪郭は霞むようにボヤけていた。
2
中村は、地元の小学校に先回りしていた。まもなくマシンガンを手にした森脇が、銀のプリウスに乗って襲来する。彼女が自分の姿を見た時、どういう反応を示すのか。あらゆる可能性を想定し、白く雪が積もり始めた校門の先をじっと見据えた。
*
校門をくぐり抜け、フロントガラスに積もった綿雪をワイパーで掻き出すと、目の前に黒髪の女が立ちはだかっているのが見えた。
エンジンを切り、機関銃の安全装置を外した森脇は、乱暴に運転席のドアを開けた。
視界を遮る吹雪を左手で払いながら、森脇は黒髪の女に近づいて行った。
「こんにちは」
向かい合った黒髪の女は不敵に笑って言った。
「…………」
森脇は無言で立ちすくんだ。今まで見てきた夢とは明らかに流れが違う。これはどういう事? 目の前の状況が予想外で、思考が混乱していた。
森脇は何度も同じ夢を見るうち、この夢の中でなら、自分の思い通りに事が運ぶようになっていた。それなのに……。
「お前は一体誰? どうしてその姿をしているんだ?」
動揺を悟られないように、深呼吸をしながらゆっくりと質問した。
目の前にいる女は、森脇が現実の世界で何年もかけて出費と苦痛をともない仕上げてきた、整形した自分自身の姿だった。
あらゆる事が思い通りになる夢の中で、叶えられない事があった。それは理想の自分になれない事。自我のプライドがそうさせているのか、夢の中で本来の自分の姿を変える事は、何度試みてもできなかった。
「とにかく、その物騒なものを仕舞ってもらえませんか? 雪も酷くなってきましたし」
女は、何もかも知っているといった表情で言った。手袋をした両手を掲げ、表面上は敵意の無い態度を示した。
「何者か知らないけど、ひとまず従う。妙な事をしたら、一瞬で消す」
森脇は女を運転席に押し込み、銃を構えて後部座席に座った。話は聞くが、武器を仕舞うほど御人好しではない。女は狼狽える事も無く、プリウスのエンジンをかけた。
「森脇星子さんの御自宅でよろしいですか?」
女はルームミラーに映る森脇に向かって、探るような眼差しを向けた。フルネームを名指しされ、住居を把握されている事に、空恐ろしさを感じながら、森脇は頷くのが精一杯だった。
3
中村は小池恵子の願いを叶える事が、自分の使命だと確信していた。森脇星子は本来、この世界に留まっていい存在ではない。
このイレギュラーを正常に戻すため、現実世界にいる小池(あるいは森脇?)の潜在意識が覚醒を促した。その使命を受けた刺客ともいうべき存在が、即ち、小池と中村だったのではないか?
小池は早々と退場し、あとを託された中村は、孤独な戦いを強いられる事となった。
全ては仮説の域を出ないが、森脇と直接対峙し、何らかの方法で決着をつける必要がある。
中村は覚悟を決めた。誘いをかけるため、森脇がニセモノと称した小池恵子の姿に変え、彼女の前に立ちはだかったのである。
*
森脇は自宅のダイニングテーブルを挟んで、小池恵子と名乗るニセモノと向かい合っていた。
この女はどういう訳か、現実の世界で手間と苦痛と大金を叩いて手に入れた美貌を、そっくりそのまま奪い取っていた。
「聞きたい事が山ほどあるけど、とにかくお前を全く信用できない。まず、なぜその姿をしているんだ?」
森脇は椅子に縛りつけた女を、鼻先まで顔を近づけて睨んだ。
「おっしゃる意味がわかりません。私は生まれつきこの姿です」
黒髪の女は惚けた表情をして答えた。
「よほど死にたいようだな。嘘をつくのも大概にしろ。首筋に二か所、脇の下に二か所、横腹に二か所、その他数か所に手術と脂肪吸引の痕がある。お前の知らない部分の傷も知っているんだ!」
森脇は立ち上がって女の髪の毛を鷲づかみにし、顔を上下に揺さぶった。
「お前の中身は誰だ? 何の目的で現れた?」
森脇は立て続けに問い質した。もはやこの女の容姿はどうでもよかった。なぜかこの女のせいで、今まで築き上げてきたものが壊されていくような、漠然とした不安が頭を過った。
この夢の中の世界で、森脇が心の弱みを見せたのは初めての事だった。森脇は同じ夢を何度も見るうちに、この世界の重大な法則に気づいていた。この世界には不条理を行使できる者と、そうでない者がいるという事。そして、意志の強さが、この世界の道理や事象を意のままに変えられる。森脇は復讐心や劣等感を怒りのエネルギーに変え、永遠にこの世界に留まれるように、特殊能力を際限無く行使していた。
夢が唐突に場面転換するように、目の前が暗転し、部屋の内装が変わった。周りは鋼鉄製の冷たい壁に囲まれた息苦しい密室だった。
髪の毛を鷲づかみにしていたニセモノの女は、見知らぬ男に代っていた。
「ここは【特殊独房】と言いましてね。あなたの思い通りにはならない場所ですよ」
男は、してやったりといった表情でニヤリと笑った。
4
モスクワ郊外のけばけばしい家の中。椅子に縛られ森脇の尋問を受けていた、小池恵子姿の中村は、思い描いていたシナリオを実行した。森脇の特殊能力を封じ込めるには、【特殊独房】の中へ放り込む以外に考えられなかった。しかし問題はその手段だった。
中村はこれまでの状況から、不条理刑事同士が直接特殊能力をぶつけ合う事ができない事を理解していた。森脇は以前に何度も中村の行く先々で建物を丸ごと消し去り、証拠隠滅を図ったが、中村本人を直接消し去るような事はできなかった。手に持っていたカレンダー付きの日本地図が消えなかった事も、それを裏付けていた。
中村は、森脇と対峙しているという状況をそのままにして、場面設定を丸ごと切り替えるという暴挙を試みた。この世界が夢の中なら、強ち不自然な事ではないと。
【特殊独房】に拘留されていた中村は、モスクワの分身と情報をすり合わせていた。突然現れた森脇を見ても動じなかった。対する森脇は、突然の場面転換に戸惑っている様子だった。
「ここは【特殊独房】と言いましてね。あなたの思い通りにはならない場所ですよ」
中村は、してやったりといった表情でニヤリと笑った。
「殺してやる!」
特殊能力が使えない事を悟った森脇は、その巨体を感じさせないほど素早い動作で、中村の首をつかみ実力行使に出た。中村は出足払いをかけ、森脇を倒す。
巨体が仰向けにバウンドし、背中と頭を床に打ち付けた森脇は、顔を顰めて立ち上がれずにいた。
「観念するんだな。ここを脱出する手立ては、一つしか無い」
中村が告げると、森脇は血走った眼を閉じて、怒りを鎮めるように大きく息を吐き、仰向けになったまま動かなくなった。
*
「変な夢……」
森脇星子は目を覚ました。スマートフォンのアラームを消し眼鏡をかける。トイレに向かい便座に座った。落ち着いたところで、先ほどまで見ていた夢の反芻をする。
夢の主役であるはずの星子(夢の中の名前は小池恵子)は、整形前の自分(そういう設定?)に殺害され、幽霊となって不条理刑事に覚醒の願いを託すという展開だった。
途中から視界は俯瞰モードに変わり、登場人物を見守るようなイメージで結末を迎えた。
眼鏡をはずし、顔を洗う。フェイスタオルで顔と手を拭き、おもむろに鏡を見た。自分で言うのも何だが、好感の持てる顔だ。
ふと気になって、首筋に目を向けた。
「えっ?!」
星子は我が目を疑った。左右の首筋に縫合したような痕が付いていた。夢の記憶を思い起こして、両脇と横腹を確認した。
星子の背中に震えるような冷たい汗が流れた。
5
白い板壁のけばけばしい家を出た中村は、銀のプリウスのエンジンをかけた。
外はまだ吹雪いていて、一向に止む気配はなかった。エンジンはまだ温まっておらず、エアコンは効かない。たばこの煙を吹かすように、ゆっくりと白い息を吐いた。
「さて、そろそろ行くか」
中村はシフトをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。二本の轍が一直線に続いていく。
全てを白くかき消すような吹雪が、一面に舞っていた。