第四話 不条理刑事の追跡
1
【私にはもう時間がありません。全てをあなたに託します。】
中村は目の前の人物と日本地図を見比べながら、手紙の言葉を想起していた。
「地図に何か秘密があるんですね?」
中村は人間の姿に復帰し、小池恵子の表情を窺った。彼女はゆっくりと頷いた。
カレンダー付きの日本地図は、二年分の日焼けを吸収していたが、損傷もなく至って何の変哲もなかった。部屋を荒らした輩も、地図には興味が無かったとみえる。
日本地図は四隅を押しピンで留めてあったが、左上の角がめくれ上がっていた。中村は一度剥がした痕跡だろうと考え、四つの押しピンを外した。壁は日本地図の部分だけ日焼けを逃れ、家の中では唯一被害を免れた場所だった。日本地図の裏を確認すると、細かい筆致で記された、横書きの手記が残されていた。
【一体どこから説明すればよいだろうか。私に残された時間は少ない。とにかく整理してまとめている時間は無さそう。なので、伝わりにくいかも知れないけど、思いついた事、伝えたい事から順番に書いていこうと思う。
このメモが敵に見つからない事を期待して。
まずはじめに、私の名前は小池恵子。今から記す事は信じられないかも知れないけど、本当の話。不条理刑事のあなたなら信じてくれるかな?
この世界は私の夢の中の世界。全てが全て思い通りにはならないけど、私が無意識に設定した法則に従って動いているみたい。
つまり本当の現実世界は私が目覚めている時、向こう側にいる世界の事なんだ。あなたにとってはこの世界が現実なんだから、おかしな話ではあるけど、私の世界では理屈に合わない事は、めったに起きないからね。
不条理刑事は、私が作り出した夢の中の設定なんだ。】
中村はそこまで息継ぎもせず、一気に読み進めていた。驚きよりも妙な納得感のほうが競り勝ち、忘れていた呼吸を一息入れた後、手記の続きを読み進めた。
【夢の中では、もちろん私が主人公で話は進むんだけど、途中で私は気づいた。この世界から、自分の意志では戻れない事に。
夢の中だとわかっているのに、目覚める事ができない。なぜだか理由がわからない。
私は考えた。現実世界の自分が何かの事故か病気で植物状態になっているのか? はたまた誰かの陰謀によって、睡眠状態に晒されているのか。
私はこの世界でできる事、現実世界に戻るために、何をするべきなのかを考える事にした。】
*
文面から目を移すと、小池恵子の姿は消えていた。それどころか周りの部屋が跡形もなく消え去り、閑散とした空き地にぽつんと中村だけが佇んでいた。ただ一つ、手に持った日本地図を残して。
2
「なるほど。小池恵子の手記が真実だとすると……彼女が目覚めると、この世界が消え去るかも知れない、と考えるだろうな」
中村は森脇星子と横山晃一の顔を思い浮かべながら思考を巡らせた。【特殊独房】の中では特にする事も無いので、モスクワに出張中の分身と、情報をすり合わせていたのだ。
「さて、手記にはもう少し続きがあったな」
中村は独り言を言い、出張中の分身に意識を移して、日本地図の裏に書かれた手記の続きを再び読み進めた。
【私は発想を転換して、内的要因に目を向ける事にした。外(現実世界)ではなく、内(夢の中)で私の覚醒を妨げている要因があるのではないかと。
様々なアンテナを張った結果、辿り着いたのが『不条理刑事』という存在だった。
この世界は夢の中なので、不条理な事が当たり前のように起こる。ここで生活している人達は、何の疑問もなく過ごしているんだけど、唯一例外として、不条理刑事は不条理を自覚して活動していたんだ。
不条理を自覚しているという事は、彼らの中に『この世界が夢の中である』という事を知っている者がいるかも知れない。その事に気づいた私は、把握している数少ない不条理刑事に目を向け、様子を見る事にした。
特に目を付けたのは、森脇星子というとんでもない女だった。ひょっとすると、私の暗黒面を象徴する人物なのかも知れない。
想像を絶する悪女だった。森脇の行動パターンは単純だ。自ら犯罪を起こし、犯人をでっち上げ、惨い手段で処刑してから都合の良い証拠を拵える。
刑事ではなく刑事の役職を与えられた猛獣と言ってもよかった。
捜査という名の傍若無人な振る舞いを、私に止める術は無かった。ただひたすら監視に徹して、何か知っている事はないかと追いかける日々が続いた。
違和感を感じたのは、監視を始めてから一ヶ月を過ぎた頃だった。森脇がキョロキョロと周囲を見回す行動が、目につくようになった。私は注意深く行動しているつもりだったけど、いずれ監視がバレるだろうと思った。
何の情報も得られないまま、私は一旦監視を諦めた。万が一のため、このメモを記録として残している。私が無事であるなら、このメモは無駄に終わるだろう。けど、もしもの事があったら、あなたに、私の願いを叶えてもらいたい。この世界で私が死んでも、この世界がある限り、現実世界の私はきっと生きているはず。
私はあなたに全てを託す。この世界の仕組みを解き明かして、私の願いを叶えてほしい。】
*
手記を読み終えた中村は、大きく息を吐いた。二年前に発見された生首は、やはり小池恵子だったのだろう。整形手術の痕やアパートに残っていた森脇の写真など不可解な部分はあるが、何せここは夢の中だ。署長や森脇が手心を加える事で、事実はいかようにも捻じ曲げられる。
「夢の中の主人公、小池恵子の代役は俺か……」
3
「モスクワの調査は終わった。辛くも邪魔が入る前に済んだようだな」
中村は、縛り付けた横山晃一を睨みつけて言った。
「これから……一体どうするつもりだ?」
横山は観念した表情で尋ねた。
「あんたに森脇のような特殊能力は無いようだな。森脇を踏み台にしただけか? それくらいは、こちらから聞いてもいいだろう?」
中村は横山の問いには答えず、逆に問い返した。
「森脇は危険だ。近づくと火傷では済まん。私は警視庁からの要請を伝え、森脇の揃えた疎明資料を利用しただけだ。実際に顔を合わすのだけは御免蒙りたい」
横山はぶるりと体を震わせ、絞り出すような声で言った。
「これからは自由にさせてもらいますよ」
中村は用意した辞表を懐から取り出し、横山の胸元に投げ捨てた。
*
この世界における法則。朧気につかんでいる事は、不条理を行使できる者と、そうでない者がいるという事。その特殊能力は当事者の倫理観に任されている。もちろん不条理とは言え、できる事とできない事があるが。
森脇星子のようなアブノーマルな怪物でさえ、多少の無茶はできるが、この世界を支配するような事はできていない。彼女もまた、夢の中の登場人物の一人に過ぎないのだ。
中村は自分の生い立ちを振り返ってみた。しかし何も思い浮かばなかった。小池恵子の人物設定に、中村の生い立ちは想定されていなかったのだろう。
この世界の謎を解くには、遡って原点に立ち返る必要がある。それが一番合理的な方法だと中村は考えた。
「く、首だ、生首だー!」
中村は二年前に遡り、小池恵子の生首が発見された給食センター裏に来ていた。
転がった生首を前にして、髭まみれの男が腰を抜かして狼狽えていた。
「うまくいった。やってみるもんだな」
中村は呟きつつ、まるで逆再生の動画を見るように、目の前に起こる出来事を追跡していく。
「無駄なところは短縮してみるか」
リモコンの早戻しのように、視界はスピードを上げ、次々と遡行していった。やがて場面は、最初の山場に差し掛かる。
中村は遡行を止め、気配を消し、物陰に身を隠した。場所は件の給食センターから程近い、小池恵子が住む二階建てのアパート。部屋の中には二人の人物がいた。
「よ、よくここがわかったわね」
小池恵子が部屋の壁際にもたれ、森脇と対峙していた。
森脇は無言でニヤリと顔を歪める。手元には刃渡り三十センチほどの、への字型の鉈が握られていた。
4
「邪魔者は消す」
森脇星子は小池恵子を睨みつけて、静かに言った。
「私が何をしたって言うの? 尾行しただけで、あなたに迷惑なんてかけていない」
小池は森脇の顔と鉈を交互に見ながら言った。同時に脱出の手立てが何かないか、必死に考えていた。
「ニセモノはいらない。私の夢は私のモノ」
森脇の表情から笑みが消え、両目が見開いた。水平に振り切った鉈が小池の頭上をかすめ、数本の毛髪が舞い散る。小池はしゃがんだ態勢から森脇の股の間を抜け、振り向いた森脇と再び対峙した。
「あなたは私だったんだ……」
小池は全身の力が抜け、諦めの表情を浮かべてしゃがみ込んだ。
中村は事件の結末を確認する必要もなかったので、少し離れた場所へ移動した。
*
先程の二人の会話から、中村は次のような仮説を立てた。現実世界では小池と森脇は同一人物、つまり一人の人間なのだ。
一方こちらの世界では、二つの人格が小池恵子と森脇星子という別の人間として、分かれて存在していたのである。小池は覚醒を願い、森脇は夢の世界を望んだ。
森脇は、この世界の仕組みをどこまで理解しているのだろうか。その疑問に口が裂けても答えないだろう、と中村は思った。
危険ではあるが、追跡のターゲットを森脇星子に定めるほか選択の余地は無い。時間を遡っているとはいえ、森脇とは面識があり、追跡がバレないよう細心の注意をはらう必要がある。
中村は神出鬼没な森脇の動向を見逃さないように、小さな蜘蛛に姿を変え、アパートから出てきた彼女に張り付いた。同時に時間を早戻しで遡行し、森脇を通してこの世界の原点に迫るべく、追跡を開始した。
森脇星子の生活を文字通り密着調査をするうち、いくつかの行動パターンが見えてきた。
恐らく彼女は、夢の中でコンプレックスの解消を繰り返してきたのだ。まとめると次の三つの点に集約される。
①女性の地位向上と男性への侮辱。
②ルッキズムの破壊と美人への虐待。
③自分の意に反するもの、邪魔者の排除。
森脇は不条理刑事の捜査の有無に関わらず、可能な限り、欲望の赴くままに行動していた。
平たく言えば、この世界を欲望の捌け口に利用していたのである。悪弊を重ねるたびに、内容はエスカレートしていった。
中村は、森脇の倫理の箍が次第に緩んでいる事を実感していた。