第二話 不条理刑事の捜索
1
「なかなかの美形ですね。しかし整い過ぎのようにも見える……」
中村は横山が手渡した生首の写真を見て、言葉を漏らした。血痕が残ったコンクリートの上に、仰向けに転がった女の首があった。長い黒髪は乱れていて、どこか憂いのある表情を浮かべていた。
「鋭いな。被害者の首筋やアパートに残っていた胴体に、美容整形の痕が残っていた」
「整形前の写真はありますか?」
中村が尋ねると、横山は眉を上げ、鞄の中から勿体ぶったように一枚の写真を差し出した。
「被害者の部屋にあった写真だ。手術を受けた者は大抵、過去の痕跡を消し去りたいものだが、彼女は例外だったようだな」
写真に写った人物を見た中村は、驚愕の表情を浮かべた。そこには、丸底フラスコをさらに膨らませたような顔、火鉢のような巨体をした女が、身も凍るようなウインクをこちらに向け、薄笑いを浮かべていた。まさしく因縁の女、森脇星子に間違いなかった。
「これは一体? どういう事なんだ?」
中村は持った写真を破らんばかりに震わせて呟いた。
「ひょっとして……お知り合い?」
横山は中村の顔を鋭い表情で睨んだ。
「この女は一昨日、モスクワで会う予定だった女に酷似しています。森脇星子という不条理刑事に間違いありません」
中村の唇はヒクヒクと痙攣し、目線は上の空だった。
*
中村と横山は、真夜中の繁華街を走り抜けていた。いつもの見慣れた町並みではあったが、横山の目には車窓から見える風景が、なぜか現実離れした、安っぽい動画のように見えていた。
「君といるからかな? 妙な気分だよ」
「ふっ、それは正直な感想ですよ」
中村はそれだけ言うと、自慢のハンドルさばきで幾つもの角をスムーズに走行し、目的地へと向かった。中村の自宅に到着した二人は呆然と立ちつくしていた。
「……ここが、君の自宅かい? 何も見当たらないが」
横山は、殺風景な空き地をじっと見つめる中村に尋ねた。
その問いには答えず、中村はしばらく目の前に広がる草原に目を向けたまま、彫刻のように固まっていた。
「家が消滅した? 跡形もなく消えている」
中村の狼狽えぶりが滑稽で、思わず吹き出しそうになり、横山は慌てて両手で口を押さえた。時折情けない笑いを漏らしながら感想を呟く。
「不条理な現象ですな。ククク、まさに不条理だ。ククククク」
ようやく笑気が治まり、横山は再び中村に注目した。顎に手をやり、瞼を閉じて何やら思考を巡らせていた。
「横山さん、こいつは厄介な事件になりそうですよ……」
視線を空き地に向けたまま中村は言った。狼狽の表情は消え、小振りで童顔のマスクが横山がよく目にする刑事の目をしていた。
「別の場所へ案内します」
中村と横山は漆黒のシボレーに乗り込んだ。過剰装飾されたパチンコ屋の裏通りを抜け、打ち水で反射したアスファルトの路地を横切り、やや狭いビルの谷間を進むと、突き当たりに薄汚れたポリバケツが見えた。
「袋小路じゃないか!」
横山は苛立ちを露わにして言った。乗車してから、すでに一時間は走行し続けていた。
中村はニヤリと笑い、車から降りてポリバケツを動かした。下にはマンホールがあった。
「ここへ案内した人間は、横山さんが初めてですよ」
2
二人はマンホールの中へ入った。約二十メートルほどの梯子を降り、ようやく底に着くと、中村は手元のスイッチを押した。電灯が灯り、あまりの眩しさに横山は目を瞑り、壁際に退いた。
「ここは一体どうなっているんだね? ただのマンホールではないようだが」
ここは中村の秘密事務所だった。三畳ほどの部屋が三つあり、思ったほど狭さは感じない。壁の内部にガス管や水道管が間近に通っているのか、時折ブオーっといった雑音が聞こえてくる。ライフラインが全て揃っているというのも、この環境なら納得がいく。
「驚いたな。窓が無いのを除けば、そこらのマンションより数段イケてる」
横山はじろじろと周囲を眺めた。
中村は横山にインスタントコーヒーを差し出し、重い笑顔を浮かべて言った。
「家は跡形もなく消滅しました。横山さん、これがどういう事かわかりますか?」
「全く、わかりませんな……」
バツの悪そうな表情で横山は答えた。
「これは警告ですよ。生首事件にこれ以上首を突っ込むな、という脅しです」
「生首事件の犯人が君の家を消したというのか?」
横山がギョロリと眼球を動かし、中村を凝視した。
「犯人は勝ち誇ったつもりだが、自ら墓穴を掘りましたよ」
「つまりは?」
「しつこく捜査を邪魔するヤツ。家を瞬時に跡形もなく消す事ができるヤツ。そんな事ができるのは、この世の中にそう沢山いません」
中村はチビチビと啜っていたコーヒーカップをバリバリと噛み砕いていた。
*
「この事件はもはや横山さんの許容範囲を超えています。残念ですが身を引いて頂きたいですね」
中村は深刻な面持ちで横山を見た。
「ちっ、どこにも私の居場所は無いわけか」
ため息を吐き、鋭い視線を中村に向けた横山は、憤然とした表情でそそくさと梯子を上って行った。
3
二年前に発生した生首事件。警視庁の管轄を離れ、不条理刑事に託されたこの事件は、今になって現実世界とは異質の、理屈では割り切れない世界で生きる人間たちの、謀略による犯罪である事が露呈してきた。
そもそもこの事件は猟奇的な事件ではあるが、一般大衆の関心がさほど大きいものでもなかった。さらに捜査の進展も芳しくない上に、その後同様の連続殺人も行われなかった事から、二年目に差し掛かる頃には、捜査の手はあからさまに緩みきっていた。
生首事件解決捜査本部の解散が囁かれはじめた矢先、物好きなジャーナリストが事件を取り上げ、警視庁の無能な捜査を叩き始めた。
二年の歳月を経て、眠りに落ちる赤子を叩き起こすように、生首事件は世間の関心をかき立てる結果となった。
警視庁上層部は、この由々しき事態に早期決着をつけるべく、不条理刑事に捜査を依頼したのである。
*
中村は森脇星子の足取りをつかむため、再びモスクワへ飛んだ。モスクワホテルのフロントの男は、森脇のメッセージを受け取っている。たとえそれが森脇に渡されたものでなくても、手渡した人物を探し出す事が、捜索の糸口になるはずだ。
深夜のモスクワ市街は閑散としていると思いきや、人混みに溢れていた。目の前を通りがかった初老の男に尋ねると、野次馬を忌々しそうに眺めて答えた。
「あんたも野次馬かい? 騒々しくて、こちとら眠れないんだよ。しかしまったく妙な事が起こったもんだ。そこにあったモスクワホテルが突然消えちまったんだってよ!」
中村は人混みをかき分け、記憶を辿りながらロビーの方向へ足を進めた。
視界が開けると、応急的に張った進入禁止のロープ内に、だだっ広い更地が広がっていた。
上空の二機のヘリが、鑑識班の無線に従ってサーチライトを照らしている。中村はロープをくぐって、鑑識官の一人に声をかけた。
「中の従業員はどうなったんだい?」
「見ての通りだよ。何もありゃしねぇ」
鑑識官は地面にはいつくばりながら、残留品を捜索していた。
「見事に何も無いな。いつ消えたんだい?」
中村が尋ねると、鑑識官は彼を一瞥し、迷惑そうな顔をして舌打ちした。
「どこの新聞社だ? 人にモノを聞く時は、支払うものがあるだろ?」
中村は懐からウォッカの小瓶を差し出した。
「ちゃっかりしてるな。これで勘弁してくれ」
鑑識官は素早く奪い取り、早速ぐい飲みした。
「げふっ、こいつは効くな。目撃者の情報によると、五分ほど前の事だ。中にいた人間丸ごとフッと消えたらしいぜ」
4
中村は激昂した。手段を選ばぬ証拠隠滅。犯人は血も涙もない冷血漢だ。中村の一挙一動に睨みを利かせ、捜査を妨害する爬虫類のようなヤツだ。
中村の脳裏に一人の女の姿が浮かんだ。世の中には数え切れないほど極悪非道な人間たちがいるが、こんな理不尽な手段を使うヤツは森脇星子の他に存在しなかった。
「しかし……」
中村は顎に手を当てて、首を捻った。生首事件の被害者小池恵子の整形前の写真は、明らかに森脇星子だった。この事実は一体、何を意味するのか。
森脇がすでに殺害されていたとすると、中村の自宅やモスクワホテルを消した犯人は、一体誰なのか?
*
中村は目にとまった寂れたバーに飛び込み、カウンターに座った。彼に尾行者がいるとすれば、その人物が犯人かも知れない。ただの情報屋に過ぎない可能性もある。どちらにしろ一挙一動に睨みを利かせるには、同様の奇っ怪な能力が必要なのだ。中村はウォッカをぐい飲みし、周囲に神経を張り巡らせた。
「お客さん、ひょっとしてナカムラって言う人かい?」
声を潜めて店のマスターが問いかけた。
中村は一瞬ビクリとして、マスターを見上げた。これといって特徴のない老人だった。
「いかにも中村だが?」
「手紙を預かっているんだ。相手は名前を名乗らなかったんで、教えられねえが」
マスターは屈託の無い笑顔を見せ、手紙を差し出した。
【私にはもう時間がありません。全てをあなたに託します。下記の住所に来て下さい。できる限り、他の不条理刑事には気づかれないように!
ルサリ六丁目Dブロック227 小池恵子】
小池恵子。生首で見つかった女。整形前の顔が森脇星子と思しき女だ。文面の文字は切迫した状況で記したのか、筆跡がわからないほど大きく歪み、文末に近づくにつれ歪みは激しく乱れていた。果たしてこの住所に何があるのか。何を託そうとしたのか。
「この手紙はいつ受け取った?」
中村が問いかけると、マスターは胡麻塩頭を掻きながら答えた。
「……そうだな、もうかれこれ二年になるかなぁ。スラリとした東洋人の女が、夜中に駆け込んで来たんだ。今思えば誰かに追われてるようだったな。あんたの写真と一緒にその手紙を託されたんだよ」
「よく引き受けたね。こいつはヤバイ事件が絡んでるかも知れないよ」
中村は鋭い眼差しをマスターに向けた。
「老い先短い老人は人助けをしたいもんだ。若いお嬢さんとなると余計にな。しかし二年も経って、まさかあんたがやって来るとはな。顔を見てびっくりしたよ。今まで何度も手紙を読む誘惑に駆られたが、そこは長年生きてきた老人の勘だな。何かヤバイ臭いを感じて、やめておいた」
マスターは神妙な面持ちで中村を覗き込みながら、グラスにウォッカを注ぎ足した。
「……知りたいかい?」
中村はウォッカを氷ごと飲み込んだ。
「いや……やめとくよ」
マスターは戸惑った表情で、カウンターの奥へ引っ込んで行った。