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第一話 不条理刑事の出動

    1

 長い熱帯夜が明けた。しかしその蒸し暑さは一向(いっこう)に衰えを見せない。ベンチで寝転んでいた(ひげ)まみれの男が、やり切れぬと言った表情を浮かべ立ち上がった。

 男のランニングシャツは寝汗で肌に張り付き、染みついた(あか)や埃の悪臭が汗とともに蒸気に変わった。


(くせ)えな」

男は独り言を言い、三メートル先の水飲み場で顔を洗った。まずはブランコのそばにある屑籠(くずかご)を確かめる。彼の朝食は大抵そこで済ませるのが常だった。

「ちぇ、しけてやがる」

ゴミ屑をかき分けながら男は吐き捨てた。


 男は(ひたい)の汗を手で(ぬぐ)い、のんびりとした足取りで歩いて行った。次は給食センター裏のポリバケツである。


「よかった、まだ回収前だ」

男は手探りでポリバケツの中を()き分けた。弾力のある感触が(てのひら)に伝わる。

「肉? やけにでかいな。仕込みに失敗したのか?」

男はしっかりと手の感触を確かめ、両手で持ち上げた。


「うへっ!」

取り出すや否や、肉塊(にくかい)(ほう)り投げた。両手にはゲル状に凝固した茶褐色の血がへばり付いていた。


「く、首だ、生首だー!」


 生首は長い髪を数回なびかせ、嫌な音を立てて転がった。切断面から流れ出た血液が赤黒い放物線を描きながら、男の五メートル先でようやく止まった。


    *

 それから二年の月日が流れた。この生首事件の解決は困難を極め、わかった事と言えば被害者の身元と犯行に使われたと思われる凶器の種類だけだった。


 生首の持ち主は発見現場付近のアパートに住む、小池恵子(こいけけいこ)、二十三歳。身内はすでに他界し、人付き合いも希薄だったので、目ぼしい容疑者は洗い出せなかった。また、凶器は首の切断面から(なた)の一種であると判断されるに(とど)まっていた。


「残念だ。残念でならない」

生首事件解決捜査本部長の横山晃一(よこやまこういち)(うな)った。

迷宮入り(オクラ)ですか?」

迷宮入り(オクラ)? それならまだ良いんだがな」

頭を(かか)えつつ、横山がため息を吐いた。


「どういう事ですか?」

困惑するような表情で三原刑事が問い返すと、苦々しい表情で横山が吐き捨てた。


「上のお(えら)いさん(がた)は、我々を無能と見なし切り捨てた。『不条理刑事(ふじょうりけいじ)』に捜査を依頼したんだよ!」


    2

 けたたましく電話のベルが鳴った。カップ焼きそばに入れたお湯を捨てようとしていた中村は、一瞬迷ったが、忌々(いまいま)しそうに受話器を取った。


「はい、中村ですが」

「中村か……」

受話器の向こうに(こも)った声が聞こえた。


「その声は……署長ですか?」

「いかにも。仕事の依頼だ。先ほど警視庁から要請があった」

「ちょっと待って下さい」

中村はひとまず受話器を置き、カップ焼きそばの湯を捨てた。

「ちっ、ノビてやがる」


 不条理刑事の存在を一般大衆は知らない。知っているのは、警視庁の一握りの人間だけである。事件解決に行き詰まり限界に達すると、上層部はしばしば彼らに助けを求めるのだが、それを口外する事は固く禁じられていた。述べるまでもない事だが、口外する事は警察の地位そのものが揺らぐ結果となるからである。


「お待たせしました」

中村はノビた焼きそばを不味(まず)そうに頬ばりながら、再び受話器をつかんだ。


「早速だがモスクワに飛んでくれ。用件はそこで話す」

電話の主は抑揚のない声で告げた。


「わかりました。すぐに向かいます」

中村はそう答えると、この暑さにもかかわらず厚手のコートを羽織(はお)り、机の引き出しから携帯電話を取り出した。

「十五分くらいか」

中村は独り言を言い、自宅を飛び出した。


    *

 プルルルルルル、と携帯電話が鳴った。

「はい、中村ですが」

「私だ。今どこにいる?」

「カラフト上空です。ようやく寒くなってきましたよ」

「十分足らずでか? ()()()()飛んで行くとはな。恐ろしい奴だな」

「……署長、それは言わない約束でしょ!」

コートの襟を立て直し、中村は答えた。


「モスクワホテルのロビーに森脇を待たせてある。用件は彼女に聞いてくれ」

署長は含み笑いをかみ殺したような声で言った。


「モ、モリワキィ?!」

中村は混乱した。森脇星子(もりわきせいこ)は過去に一度だけ仕事をともにした事がある、女性不条理刑事だ。丸底フラスコをさらに(ふく)らませたような顔、火鉢(ひばち)のような巨体、耳障りなダミ声を張り上げ、偏屈なフェミニズム論を押しつける、自意識過剰でヒステリック、かつナルシストな(やから)だ。つまりは虫酸(むしず)が走るような厄介者である。


「それじゃあな。仲良くしろよ!」

中村が愚痴をこぼす間も与えずに電話は切れた。

「クソ!」

中村は舌打ちして森脇の顔を思い浮かべた。メラメラと殺意が沸いてくる。心の中で森脇の首を切り落とした後、向かい風を(さえぎ)りながら飛び続けた。


    3

 モスクワホテルは(かす)んだ影を落とし、湿った路面を趣深(おもむきぶか)く演出していた。ロビーに足を運んだ中村は、殺意の目を光らせ森脇星子を捜したが、彼女の姿は見当たらない。ただ、鷲鼻(わしばな)禿鷹(はげたか)のような老人と鏡餅のような体格の老婦人が、ソファーに座って談笑しているだけだった。


「ひょっとして、中村さんですか?」

フロントの無表情な男が、(なめ)らかなイスパニア語で尋ねた。

「いかにもそうだが」

中村はたどたどしい北京語で答えた。

フロントの男は(わず)かに表情を崩し、頭を下げて日本語で言った。


「森脇様から伝言を預かっております」

「……そうかい。教えてくれ」

フロントの男は引き出しからメモを取り出して読み上げた。


「あんたと仕事するのはゴメンだ。死んだ方がマシ。(いな)、死ぬのはやっぱりあんたの方ね……以上です」

フロントの男は無表情で押し黙っていた。見方を変えれば必死に笑いを(こら)えているようにも見えた。


「森脇め。探し出してぶっ殺してやる」

中村は一言(つぶや)き、モスクワホテルを(あと)にした。


    *

 静まりかえった夜の町で闇雲(やみくも)に森脇を捜した。署長からの電話を待ち続けたが、結局、一夜明けても連絡は無かった。不条理だな、と中村は自分を棚に上げて思った。心配性の署長から十四時間も連絡が無いのは、未だかつて無かった。極めて不可解な事だ。署長の身に何かあったのだろうか。思考を巡らせてみたが、彼にはそれを突き止める(すべ)がなかった。なぜなら中村にとって、署長は声だけの存在だったからだ。どこの誰でどんな人物なのか、皆目わからなかった。


 中村は頭を(かか)えつつ、昨晩手に入れたウォッカを瓶ごと噛み砕いていた。


    4

 ()生首事件解決捜査本部長の横山は、我が目を疑った。突然目の前に、一人の男が現れたのだ。

「き、君が噂に聞く不条理刑事か?」

横山はのけ反りながらも平常心を取り戻す。


「名刺が無くて申し訳ない。中村と申します」

「今日は一体何の用件かな? 私はもう、例の事件を(はず)されたんだがね」

「その事件、いわゆる生首事件について、わかった事を全てお話し頂きたいのですよ」

中村はやや疲れた顔をして言った。


「どういう事かな? 上層部(うえ)の連中が、全てのデータをあなた方に手渡したはずだが?」

横山はタバコに火をつけて、煙を歯の隙間から吐き出した。


「ちょっとした不都合がありましてね。データを受け取った連中が雲隠れしたんですよ。彼らの行方を突き止めるためにも御協力願いたい。先ほど警視庁の方にも(うかが)ったんですが、早く事件を解決しろの一点張りで取り合ってもらえませんでした。仕方なくこちらへ伺った次第です」

中村は話し終えると、大儀そうに溜め息をついた。


「わかりました、お話ししよう。ただし条件がある」

「何ですか?」

「私にも協力させて頂きたい。この生首事件は刑事生活で唯一解決できなかった事件だ。この屈辱を背負ったまま退職するのは、どうにもやりきれない」

横山は苦虫を噛み潰したような表情でタバコをもみ消した。


「退職なさると?」

「肩を叩かれたんでね」

横山はムスッとした表情で、再びタバコを手にした。


「わかりました。協力してもらいましょう。二人の方がこちらも心強い。ただしこちらからも条件がありますよ」

「何かな?」

「こちらのやり方にとやかく言わない事です。余計な詮索や勝手な行動は避けて下さい。それがあなたの身のためですよ」

中村は鋭い目線で横山を睨んだ。


「わかった……。君のやり方に口出ししないと約束しよう」

横山は狼狽(うろた)えながら、心を落ち着かせるように白い煙を吐き出した。

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