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少し強行軍になるだろう道程を思い、カイは用意された翼竜の首を励ますように撫でた。
馬では2日はかかる距離を、翼竜ならば半日で到着することができる筈だ。だが、それも無理をさせれば、だ。翼竜を駆り出すときは、常にそれを強いている。優美な翼が疲れて色褪せる姿に、心を痛ませながら、それでも、今回も力の限り飛ぶことを彼に望んでいた。
至る国々に放ってある狩人から、魔獣が現れたとの報告が入ったのはつい先ほどのこと。
報告にあった姿や大きさから考えると、サラが仕留め損ねた魔獣である可能性は高い。そうであることを、カイは望んでいた。サラの弔いの意味はもちろんだが、あの優秀な狩人を刻んだ魔獣が、いまだこの世に放たれていること・・・そして、かの魔獣が追手の存在に気が付いていて、どこかで身を潜めているのであろうことが、カイを苛立たせていた。
ただ、餓えに導かれて彷徨い出てくる獣ならば良いものを。
やつ等の保身の本能は、時に理性的だからタチが悪い。
「奥方とはうまくいってるみたいですね」
突如、カイの苛立ちを無視したシキの言葉が耳に届く。
これから狩りに赴こうという気概の一欠けらも感じさせない、のんびりとした口調だ。
昔馴染みの側近は、ちょくちょくこうして、カイの思考に水を差す。それは、わざとだったり、自然体だったりするのだが、いずれにしても、カイはそれに敢えて流されることが少なくなかった。
シキの無頓着な会話は、カイの気分転換には大いに役立つ。
「良かったですよ。私だって、しなくていい殺生はしたくないですからね」
この時も、それを遮らないことで会話を受け入れた。
苛立ちが姿を消し、翼竜を撫でる手のひらから力が抜ける。
「・・・今のところは、な」
答えると、シキは「今のところは、なんですか?」と、意外そうだった。
「成り行きで妃とした割には、随分と気に入っているようですけど?」
シキの言うとおり、妻にしたのは成り行きだ。剣が選んだから、側に置くのに・・・場合によっては、一生、捉え続けるのに、都合が良い妻という名の檻を与えたのだ。
皇子の正妃という檻は、贅沢の身に付いた、そして自己顕示欲の強い貴族の娘にとっては、さぞかし魅力的な檻に違いない。その檻の中で、適度な自由と、溢れんばかりの贅沢と、妃としてかしずかれる日々、そして、たまに夫としての情の一つも見せれば、どんな娘も満足するだろう。従順な剣の鞘として存在することを受け入れるだろう。そう高を括っていた。
それでも、あまりに目障りなら消してしまえばいいのだ。
そう思えば、どんな娘でも妃として迎えることに迷いはなかった。
気に入らなければ、消してしまえば良い。屋敷内でならば、どのようにもできる・・・シキが言ったことは、決して冗談ではなかった。
剣の鞘は、なくてもいいのだ。歴代の使い手には一生鞘を持たない者もいたし、剣を常に自らの元に置くために鞘を葬った者もいる。
だから、使い手の意に背く鞘ならば、消し去れば良い。
そう思っていた。
だが、サクラはあまりに違ったのだ。
カイが与えようとするものを拒否はしなくとも、喜びはしない。自らを妃と示すこともなく、ただ、そこにある。彼女の前では、権力も権威も財力も意味を成さない。カイに夫としての情を求めることもない。
それでは、カイの与えた檻は・・・贅沢を望まない、顕示欲もないサクラに与えた檻は、彼女を単純に縛り付けるだけのものだ。
なのに彼女は自らの意思でここに留まった。現実を真正面から受け入れて、そこに自らの存在を見出すことで、ここに留まっているのだ。
それは、時にカイを戸惑わせる。
何一つ望むものを与えられることはないのに、そこにいる娘。
厭わしく思ったことはない。側に置くことは、不快ではない。
触れることは、むしろ、カイを穏やかな空間へと導く。サクラは剣だけではなく、カイ自身をも一時安らぎの時へと誘うのだ。
サクラといる時、カイは与える側ではない。常に与えられる側だった。
それが、ひどくカイを落ち着かせない。もどかしく感じることもあった。
この上、サクラを抱くことなど考えられない。サクラに、情欲を覚えたことはない。抱こうと思えば抱けるだろうが、そうする気には到底なれない。周りがいくらそれが当然と思っていようと、実際に妻とした以上そうするべきであろうと、少なくとも、これ以上、彼女に求められていないものを、無理に与える気にはなれなかった。
だから、抱かずに、時が経っていく。
「気に入っては、いるんだろうな」
少し長い間の後に答える。
サクラを喜ばせるために、少々の面倒を経て幼馴染の侍女を呼び寄せる程には。自分がしたことに、自分らしくないと、またもどかしさを覚えても、サクラが今までになく嬉しそうな姿を見せたことに、カイは満足していた。
「少なくとも、今のところ、お前に命じることはなさそうだ」
シキは「それは何よりです」と答え、「まあ、見た目はともかく・・・抱き心地は悪くなさそうな方ですし」と、主の妃に対する言葉とは到底思えない言葉を発した。
あまり続けたくない方に話が進んでいたが、言葉自体を咎めることはない。何度も危ない橋を渡って、お互いがいなければ、既にこの世にいない身だ。今更、取り繕う仲でもない。
「私はもう少し豊満な体の方が好みですけどね」
戦に明け暮れる男達が女性に求めるのは、疲れた体と高揚する心を宥めてくれる柔らかで暖かい肢体なのだ。カイ自身もそう思っている。
そして、それはサクラに求めるものではない。
「じゃあ、さっさと狩りを済ませて、そんな女を抱きに行け」
カイがサクラを抱いてないと知ったら、この男はどんな顔をするか。
娘に、肉欲ではなく、ただ、穏やかさと温もりだけを求めて、抱きしめただけだと知ったら。
だが、それを尋ねることはしない。それの答えは聞きたくない気がした。
「行くぞ」
この話はここまでだと、静かな声で告げ、カイは翼竜に跨がった。
背に負った剣は、破魔ではないが名匠が作り上げた逸品だ。小物ならば、これで十分討てる。
「御意」
シキは短く答えて、翼竜に跨がった。
話の切り上げ時を心得ているのも、カイがシキとの会話を好む理由の一つだろう。
翼竜が空に舞い上がる。カイは、これから、しばしの間サクラを忘れる。
穏やかな時間は一時の中断を迎え、殺伐とした戦いの場に向かうのだ。