7
その日は、朝から届け物続きだった。まもなく訪れる夏に向けて、数々の衣装が次々と届けられ、夕刻を迎える頃には、サクラの部屋は色鮮やかな生地に埋め尽くされた。
数に唖然とするサクラをよそに、「失礼します」の声と共に現れたマアサは、伴ってきた数人の侍女にテキパキと指示を出しはじめた。重々しい冬のドレスが運び出され、軽やかな夏ドレスがクローゼットに運び込まれていくのを、部屋の隅で複雑な思いで眺める。
カイに言った通り、並ぶドレスに全く興味がない訳ではない。夏の暑さを凌ぐための涼しげな生地と色合いは、むしろサクラの好みだ。だが、やはりこれがサクラのために誂えられ、揃えられたと思うと「私ごときに」という申し訳なさばかりが先に立つ。
サクラが下向き加減で見つめる先で、素晴らしい連携と働きを見せた侍女達は、ものの三十分ほどで衣更えを完了させた。
侍女達が部屋を退出した後、マアサに呼ばれてクローゼットを覗く。その空間は、一足早く夏へと変貌を遂げていたが、サクラにはこれらを身につけるというプレッシャーが更に重く圧し掛かるだけだった。
「サイズは大丈夫だとは思いますが、念のため、後で合わせましょう」
「…はい」
あまり有り難くない提案に答えながら、幾つかのドレスに手を触れる。どれも、柔らかく手触りがよかった。それに少し救われる。
その時、今日何度目になるか分からないノック音が響いた。
「妃殿下、オードル家からの届け物をお届けにあがりました」
そう言って、顔をのぞかせたのは、カイの側近の一人であるシキだった。
また、届け物?とは思ったが、オードル家からと言うし、シキが部屋まで持参するのも、これまでとは違う。
サクラはマアサを見た。
マアサは意味ありげに、にっこりと笑っただけだ。
キキョウがここを訪れて以来、サクラはオードル家と、何度か手紙のやりとりをしている。
父親はアオイのお披露目の祝宴は散々だったと歎きながら、結果としてサクラが皇家に輿入れしたことをとても喜んでいた。母親は、突然連れ去れてしまった娘を案じながら、がんばるように励ましてくれた。だが、届け物には心当たりはない。
「さあ、どうぞ」
疑問符を浮かべるサクラには何も言わず、シキは扉の影に声をかけた。
促されて、部屋に入ってきた者にサクラは目を見開いた。
明るい赤毛と、薄い茶色の瞳。そして、サクラより少しだけ背の高い、だけど小さな体。二ヶ月前には、毎日顔を合わせていた・・・「ホタル!?」サクラは思わず、名前を呼んだ。
「サクラ様ぁ!」
幼馴染の世話係は、サクラを見るなり部屋へ駆け込んで抱きついてきた。
「本物ですよね?生きてますよね?良かったですぅ」
畳み掛けるように話し、サクラの顔をまじまじと眺め、ついにはぽろぽろと涙を零す。
相変わらずのホタル。
「…ホタルだ」
小さい頃から一緒にいる、使用人というよりは親友に近い存在の出現と、そのあまりに以前と変わらない様子。
マアサがびっくりしている。
シキが呆気に取られている。
でも、それらはサクラの頭から飛んでしまった。
ここに、ホタルがいる!
「ホタル!」
気がつけば、同じ強さで抱きついていた。
ホタルからは、オードル家の香りがした。そんなものがあるとは知らなかったけど、確かにホタルからは、ここにはない懐かしい香りがする。それは、ほん少し前のサクラの周りに溢れていたのに。
今は、ただ懐かしい。
「あれが、オードルから送られてきた侍女か?」
懐かしさは、突如、限りなく現実的な声に掻き消される。
サクラは、ホタルから少し離れ、扉へと顔を向けた。
「間違いなく、私がオードル家から受け取ってきた侍女ですよ」
シキが答え、一礼をしてから、体をずらして、部屋への入り口をカイへと開けた。
カイは、すぐには中に入らず、扉に寄り掛かるようにしながら、視線だけをサクラへと注いだ。
「お帰りなさいませ」
サクラは、ホタルから離れ一礼してカイを迎える。
続いて、マアサとホタルがカイに膝を折り頭を下げた。
ホタルのその姿は、先ほどの騒がしさとは打って変わって、上流の貴族に仕えなれた侍女の優雅さを備えていた。こんなところも以前のままで、サクラはこっそりと笑みを零した。
カイは部屋へと入り、新しい侍女を見下ろした。
「お前がホタルか?」
「はい。ホタル・ユリジアと申します」
ホタルは、さらに深く頭を垂れる。
カイは頷き、サクラへと視線を移した。
特にいつもと変わることのないカイの視線を受けながら、サクラは戸惑った。
何がなんだか分からない。これを、カイに尋ねてよいものなのかさえ、分からなかった。
「カイ様が、奥方様のお世話をするために侍女を一人召したいとおっしゃるので、でしたら奥方様と近い歳の者をと、お願いしましたの」
サクラの疑問に答えたのは、マアサだった。
そういえば、以前、一人で部屋にいたのを見咎められたことがあった。一人にならないようにとは言われたが、ここの使用人は皆忙しく、それがなかなかに難しいことだとサクラは、実感していた。
だから?
「まさか、オードル家から侍女を譲り受けるとは思いませんでしたわ」
マアサの言葉は、それがカイの判断に寄るものだと仄めかしていた。
サクラの侍女とするために、わざわざオードル家から、ホタルを呼び寄せてくれたというのか。
「こんな騒がしいのが来るとは思わなかったがな」
言葉に言うほど、カイがホタルを厭ってないことは分かる。
本当に、カイがホタルを呼んでくれたのだ。
「大丈夫です。ホタルは猫を被るのがうまいので、殿下の前では完璧な侍女になれます」
あまりに嬉しかったので、思わず、言っていた。言ってから、しまったと思ったが遅い。
「是非、そうして欲しいものだな」
カイが思いがけず、そう返してきた。
プッとシキが吹き出す。マアサがくすくすと笑っている。
ホタルは一瞬しかめ面をしたが、すぐにすまし顔になり、再度、惚れ惚れするような流麗さで、カイに礼をしてみせた。
カイは、少し表情を和らげてマアサに見やり、彼女が頷くのを確認する。その上で「ホタルはお前の侍女だ」とだけ、サクラに告げた。
そして、すぐに自身の寝室へと向かい、部屋を出て行ってしまう。それに合わせて、シキが部屋を辞する。「では、ホタル、少し仕事の説明をしましょう」とマアサが言うのを背後で聞いていた。
サクラは急いで、カイを追った。
ホタルともゆっくり話しがしたかったが、まずは、カイにお礼が言いたい。
とても・・・本当に、とても嬉しかったので。
「殿下!」
これが、親しい家族だったら、抱きついてキスの一つもしたいぐらいに。
カイは既に、続きの自室にの扉を開けていたが、歩みを止めて振り返った。
「ありがとうございます」
もちろんキスなどできる筈もないから。
言葉だけで心苦しいが、精一杯気持ちを伝える。
「ホタルをお呼び下さってありがとうございます・・・心から感謝申し上げます」
カイは小さく頷いた。
「あの届け物は、気に入ったようだな」
「・・・とても」
答えながら、それが先日の会話を暗に含んでいることに気が付いた。
ドレスも宝石もうれしいです、ともう一度告げることは、空々しい気がした。どう繕ってみたところで、あの時サクラが零した本音をカイは聞いているのだ。
だから、どうしようかと一瞬迷い「夏のドレスもありがとうございます…殿下」と、付け加えるように言うことしかできなかった。
サクラの言葉を聞いていたカイは少し考えるような素振りをし「慣れれば、というものでもないのか」と意味不明なことを呟いた。
サクラが、首を傾げる。
「俺の名は知っているか?」
カイの問いかけは唐突だった。
もちろん、知っている。本人に名乗られる前から。その名を知らない者が、この国にいよう筈がない。
「知っています」
答えれば、カイは間髪入れずに続けた。
「いつまで『殿下』なのだ?」
言われた意味が分からない。皇子は「殿下」だ。
そう教育されてきた。間違ってはいないと思う。
「名で呼べと言っている。お前は俺の妻だ。もう少し打ち解けろ」
少し呆れたような声音が交じっていた。
そうは言われても、妻といってもそれは形式に過ぎない。
所詮は、剣の鞘、カイの所有物の付随に過ぎないという立場から言えば、せいぜい主従関係こそが相応しい。ここは一線引いておくのが無難ではないだろうか。
だが、「だいたい、俺はそう呼ばれるのは好きではない」と、好き嫌いで言われてしまえば、呼ぶしかない気がしてくる。確かに、この屋敷内でカイを「殿下」と呼ぶのは、執事とサクラぐらいだ。残りの使用人は庭師に至るまで、カイを名で呼んでいる。
それが、この屋敷内でのルールだと言われれば従わざるを得ない。
「…分かりました」
答えたものの、呼べるかは自信がなかった。
「努力します」
正直に答えて、立ち去ろうとするより僅かに早くカイの指が長い髪を取った。
カイは習慣のように、それが癖であるかのように、サクラの髪に触れる。
それが数少ない…ベッドで寝ている時は抱きしめられることもあったが、それ以外では…カイとサクラが触れ合う機会だった。
黙っていると、カイが軽く髪を引っ張る。
顔を上げて、色の違う瞳と視線を交わす。
「努力するんだろう?」
呼びかける必要もないのに、呼べません。
サクラが困るのを楽しむように、カイが見下ろす。
触れているのは、髪だけだ。束縛されている訳ではないから、少し身を引けば、礼をして立ち去ることができるだろう。だが、過去一度としてサクラが自らカイの指を離したことはない。いつも、カイが満足するまで、飽きるまで、サクラはカイのするに任せてきた。
このときも、カイの指から髪を逃がすことはできなかった。
だが、どうやらカイはサクラが名を口にするまで離す気はないらしい。
仕方なく、名を口にしかけたその時。
ドンドンと、激しく扉を叩く音。
サクラは、幾分ほっとして口を閉じた。カイは、少し面白くなさげに髪を手放した。
「ここで、待ってろ」
これを機に部屋に戻る気だったサクラに釘を刺しながら、カイは自室へと入っていった。
まだ、諦めていないのか。
サクラは頷きながら、一方で名を呼ぶことにこんなに躊躇う自分にも呆れていた。
名を呼べない・・・呼びたくない理由は分かっている。でも、その理由も本当は知らない振りをしたかった。
「サクラ」
呼ばれてカイの部屋へと入る。
自室と廊下を結ぶ扉にはシキが立っていた。シキの顔つきから、話の内容が楽しいものでないとサクラは察する。シキは「では、後ほど」とカイへ告げ、サクラにも一礼して扉を閉めた。
「少しの間、留守にする」
扉が閉まるなり、カイはサクラに言った。
サクラは、カイを見上げた。しばらく、という曖昧な表現での外出は、今までなかった。
「サラが仕留められなかった魔獣が見つかったようだ」
白い魔獣の主を返り討ちにした獣か。
サクラは、カイから視線を外して俯いた。どんな顔をして送り出せば良いのか分からない。
あの白い魔獣。並外れて美しく、大きな力を感じた魔獣の主を死に至らしめた獣。
それを討ちにカイは発つのだ。
「剣が必要になりますか」
尋ねれば、「なるだろう」と短い返事。
剣は、本当に私の中にいるだろうか。ちゃんとカイの求めに応じるだろうか。
「大丈夫だ。何も心配はいらない…剣は俺の元に来る」
サクラの声に出さない不安に答えが来る。使い手の断言に頷いた。
だが、心配なのはそれだけじゃない。
私のように力のない者が、貴方の心配をすることを許してくれますか。
サクラは顔を上げられない。きっと、とても情けない顔をしているから。
カイは強いのだろう。誰よりも。だけど、それでも、心配で不安で送り出すことに躊躇わずにはいられない。
「サクラ」
カイの手が伸びる。髪に触れるのかと思ったそれは、更に伸び、サクラの頭を包む。そして引き寄せられた。目の前にある胸へと頭を導かれて、もう片方の腕が柔らかく背に回されれば、サクラの周りはカイだけになる。
「…お前はここで剣が俺の元から、戻るのを待てばいい」
優しく労るような抱擁だった。背中を何度も撫でられる。カイの香り。先ほどホタルから感じた懐かしさとはまったく違う、もう慣れて久しい今のサクラの日々の香りだった。
サクラの中の不安が、少しずつ引いていく。
大丈夫、カイは必ず帰って来る。
「殿下」
呼びかけると、咎めて髪を軽く引っ張られる。サクラは、小さく緊張した。
「剣と…カイ様のお戻りをお待ちしております…お気をつけていってらっしゃいませ」
離れようとすると、カイの腕がそれを留めた。
「カイ様?」
不安の薄れた心が騒ぎ出す。カイの胸に置いた手を、戸惑いがちに動かすと、それを咎めるように、サクラを抱く力が増す。
体が強張る。離して、と言葉が口をつきそうになる。
そこに、再びノック。
そして、返事を待たずに開けられる扉。
「……お出かけのご挨拶はお済みですか」
微妙な間を開けて、シキが声を出した。
カイの腕の力がいくらか弱まった。それでも、サクラが抜け出せるほどの解放は与えられなかった。
「準備はできたのか?」
まるで、何事もないかのような問いかけ。
サクラは、ただ、小さな体をさらに縮めて、抱かれているしかない。
「あとは貴方だけですよ」
「すぐ行く」
扉が閉まるのを待って、サクラの耳元でカイが囁いた。
「行ってくる」
カイが離れて部屋を出ていく。
扉が閉まる音がスイッチを切ったように、サクラはその場にへたりこんだ。
心臓が、バクバクと音を立てて踊る。顔が、体中が熱くて、どうにかなってしまいそうだった。
カイにとっては、なんということのないことでも、サクラには免疫のなさ過ぎる行為だった。
名前なんて呼びたくない。抱きしめたりしないで。
私は剣の鞘だと、貴方が言ったのだ。ただ、ここに、貴方の傍らにいれば良いと、そう言ったのだ。
だから。だったら。これ以上、私に歩み寄らないで下さい。
それは切実な願いだった。