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「妻の一日は、夫より早く起きることから始まるのです」と、嫁入り前のサクラに説いたのは、母親だった。
となると、サクラの毎日は挫折から始まることになる。
サクラの夫となった男は、とにかく気配に聡い。サクラが目覚めて、身じろぎ一つしようものなら、すぐに目を覚ますのだ。
今朝も、目覚めて、リネン越しに回されている腕から出ようとする素振りさえしていないのに、夫は目覚めた。間近で、金と黒に見据えられて、朝から心臓に悪いことこの上ない。
「・・・おはようございます」
母曰く「寝乱れた夜着で化粧もしてない寝ぼけた顔を夫に見せるなど言語道断」だそうだが、もはや諦めの境地に限りなく近い。せめて、と笑顔…ひきつっているかもしれないが…で挨拶する毎日だ。
「ああ、おはよう」
きちんと返ってくる挨拶に下り気味だった気分を浮上させ、カイの腕から抜け出すように起き上がる。ベッドから降りて隣の自室の扉を開ければ、マアサがニッコリ笑って挨拶してくれた。
「今日も殿下は起きてしまいました」
挨拶と、既にカイが目覚めていることを報告し、どうだとばかりに居並ぶ衣装から、マアサが準備したものを身につける。サクラの意図を察してくれたマアサは、極端に華美なものを避けて比較的シンプルなドレスを揃えてくれていた。
髪を結わないことは、その是非はともかく楽ではある。軽く梳いた後、うっすらと化粧をしてもらえば、サクラの準備は完了だった。
カイの寝室に戻ると、カイはベッドから降りてシャツを羽織っているところだった。その脇には、正装が一式準備してある。
あっさりと着替えを終えたサクラと違い、今日のカイはそうはいかない。
今日は、皇帝のいる城へ上がる日なのだ。普段は、きっちりと服を身に着けないことが多いカイも、さすがに陛下の御前には正装して出ざるを得ないようだ。
サクラは一応妻なので、着替えを手伝うことが、その役目の一つとなっていた。
「嵐でも来ればいいものを」
窓から差し込む光を確認し、カイが苦々しげに呟いたのに、サクラは心で笑いを零した。
殿下はどうやら登城がお嫌いらしい、と気が付いたのは何度目の着替えの時だっただろうか。
正装に着替える時は、たいていご機嫌斜めなのだ。
そうは言っても着替えない訳にはいかない。サクラは、カイの衣類を手に取り、カイが自身で身に付けた黒ズボンと白いシャツの上に、膝丈の黒いローブを羽織らせた。
黒髪と黒づくめの衣装。これが、カイが「漆黒の軍神」たる由縁だ。
ボタンを嵌めていると、カイの長い指が髪に触れてくる。最初は、髪を伝うカイの動きに過敏になったものだが、慣れてしまえばどうということはない。
ボタンを嵌め終え、マアサの手を借りながら、肩に黒い上衣をかけ、肩から胸元にドレープを作っていく。
実は、この作業は、どちらかといえば得意だった。父親が、公の場に出るときも、よくこうして作業したことを思い出しながら、父が身につけていたものより数段上質な布地を折り込んでいく。質が良いだけにできあがっていくドレープは美しく、サクラをなおさら楽しくさせた。
ドレープを作り上げた後は、肩で留め金で留める。深紅の宝石をあしらった留め金が、黒の布地に鮮やかに映えた。
程なく完成した出来映えを確認していると、ツンと髪が引っ張られ、頭上から声がかかった。
「楽しそうだな」
サクラはカイを見上げた。カイの不機嫌は少しナリを潜めているように見えた。
「好きなんです。この作業」
答えながら、少し離れて最終チェック。気になる数箇所のシワを直して「できました」と、カイとマアサに伝えた。
「着せられている俺は、堅苦しくて嫌いだがな」
サクラはマアサと目を合わせて、少し笑った。
馬の準備ができたとの知らせに、サクラは膝を折り頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
カイは不機嫌を背負ったままでかけていった。
カイの妻という立場に落ち着いて、早二ヶ月になろうとしている。
カイの日々は実に多忙だった。登城は週に2日程度。それ以外は、この屋敷内の執務室でタキやシキと執務についている。次々と陳情や請願に訪れる者達と話し、伝令が届けばそれに指示を出したり、場合によっては自ら出かけたりする。
それでも、マアサが言うには一頃に比べれば、よほど落ち着いているのだそうだ。
一頃というのは、戦況が厳しかった頃のことだ。サクラのように比較的平和な領地内で暮らしていた者にとっては、あまり現実味のない世界。まして、ここ数年で世の中は、一気に平穏な時代を目指してまい進している。
だが、ほんの数年前まで、カイは日々を戦の中に置いていたのだ。人と魔の両方を敵として。
帝国としての歴史を築いてきたキリングシークは、ここ数十年の間にその勢力を失いつつあった。
現皇帝は、慈悲深くはあったが、強くはない。内にあっては、家臣の堕落に歯止めをかけることはできず、対外的には、小国の反乱や同盟国の反旗を食い止めることができなかった。一時は、まさに傾国の危機を迎えていたと聞いている。
それを救い、大国を復活させたのが、現皇太子であるガイと第二皇子であるカイだということは、半ば伝説のように語られている。
まだ、少年と呼ばれる年齢だったにも関わらず、二人の皇子はキリングシーク復興を確信させる知性と理性と、そしてカリスマ性を備えていた。数は少なかったが良心的な家臣達によって守り立てられ、その能力を帝国内に示していった。
そして、カイが剣に選ばれたことにより時は訪れたのだ。
疲弊した軍は「伝説の剣」の復活に国の再建を確信し、決起し、列強の国々を制していった。「破魔の剣」の目覚めは、戦によって生じる瘴気と血肉に歓喜し横行していた魔に対して、怯えるしかなかった人々に希望を与え、庇護を求めた数多くの小国をひざまずかせた。
皇太子のガイは、現皇帝に劣らず慈悲深く、そして皇帝にはない強靭さと柔軟さを兼ね備えていた。
大国の次期君主は、軍神に跪いた人々を暖かく迎え入れ、育て、見守った。
キリングシークは、まずカイによって国々を力で制し、次にガイによって各国の安定と繁栄を約束し、他の国々を自ら平伏させていったのだ。
人の世界は、まだまだ平穏な時代を迎えたとは言えないかもしれないが、少なくとも戦乱と呼ばれる時代は過ぎたのだろう。
しかしながら、魔の方は、そうはいかない。人々の戦が育て上げた魔獣は、いまだ闇に棲み、人々に恐怖を与え続けいている。
一方、戦の中で日銭を稼ぐために魔を狩っていた荒くれ達の中には、訪れつつある平和な日々の中で己たちの使命を考える者が出てきた。ただ、漫然と小さな魔獣を狩っているだけでいいのか、と。
そして、そういう者達がカイの元に集い、カイが彼らを受け入れ、狩人の集団が出来上がった。それがいつの間にか一つの規律さえある一団となり、かつての荒くれ達は、今や確固たる地位を持つに至ったのだ。
とはいえ、キリングシークの軍神の「狩人」は、国に属しているのではない。カイと主従関係の誓いを立てた訳でもない。自らカイの元に集結し、自らの意志でカイに従っている、そういう集団だった。
今、集団となることによって様々な力を得た優秀な狩人達は、大方の魔獣なら軍神を担ぎ出すことなく、討伐することが可能だった。
だが、それは、カイが魔獣狩に出立するときは、そうせざるを得ない状況ということを示す。
狩人達では討伐することができない魔獣。破魔の剣を必要とするほどの魔。
カイが対峙する魔獣は、そういう存在なのだ。
幸いなことに、サクラがここに来てからは、その時はまだ一度も来ていない。剣は、今もサクラの中で、安穏と眠りについていた。
城から帰ったカイは、人を呼ぼうとする執事を止めて、一人で自室に向かった。
今朝、サクラが仕上げた上衣は、馬で往復したにも関わらず、まだきれいなひだを描いていたが、留め金を外して脱ぎ捨てる。堅苦しいローブのボタンを外して、一息つきながら寝室に入ると、奥に見えるサクラの部屋のドアは開けられていた。
意識した訳でなく、静かに近づき部屋の中を見遣れば、サクラはラグの上に座っていた。こちらに背を向けていて、表情は見えない。豊かな髪を、今は背中の中ほどでリボンでまとめている。一度、まとまった髪はラグにまで届いて広がっている。
垣間見えるサクラの周りには、マアサに請われて、カイが届けさせた幾つものアクセサリーが広げられていた。
サクラは、その一つ一つを手には取るものの、身につけるそぶりさえしないで、元に戻した。
ドレスやアクセサリーに、サクラがあまり興味を示さないことは、マアサから聞いている。
そも、ものを欲することがまずないという。
若い娘は、みな、自らを着飾ったり、周りを気に入ったもので埋めることに、情熱を傾けるのだと思っていた。
サクラはいったい何に興味を示すのだろうか。
少し、気になった。
カイは扉をノックした。サクラは振り返り、そこにカイが立っていることに気がついて、慌てて立ち上がる。
「お帰りなさいませ」
近づいて来ようとするのを手で留め、続いてそこに座れと手で示せば、察したサクラは素直に従い、元の場所に座った。その隣にカイが座ると、驚いたようだか何も言わなかった。
「マアサは?」
並ぶ宝石の一つを摘み取り、眺めながら尋ねる。
「夕食の支度に」
答えるサクラを見れば、カイの持つ小さな緑の宝石を眺めている。
「ここに一人か?」
あまり好ましくない状況を確認すると、それを察したサクラは急いで答える。
「先程まで、カノンがいました」
カイの主義で、使用人は最低限しかいない。それでなくても、マアサはこの家の多くを取り仕切っていて多忙なのだから、ずっとサクラの側にいる訳にはいかないのだろう。カノンだとて、自分の仕事がある。とは言え、いくら屋敷の中でもサクラを一人にするのは、避けたい状況だ。
皇子の正妃であり、剣の抱き手なのだ。
カイは少し考えてから「なるべく一人にはなるな」と、言うに留めた。さらにサクラが不安そうな様子を見せるので、何を不安に思っているのかを思い、付け加える。
「マアサやカノンに落ち度はないのは承知している」
ほっとしたようにサクラは頷いた。
「気に入ったものはあったか?」
サクラの不安が不要だと諭すように話題を変え、カイが尋ねると、サクラは今度は目を丸くした。
カイ自身も、自ら会話を、しかも重要とも思えない話題で続けようとしていることに、驚きを感じていた。だが、もう少し、サクラと話をしてみたかった。
「どれもとてもきれいです」
サクラは、無難な答えを返してきた。確かにマアサの言うとおり、この宝石達はあまりサクラの関心を引くことはできないらしい。
「宝石やドレスには興味がないらしいが、どんなものなら喜ぶんだ?」
純粋な疑問。だが、サクラには、カイが買い与えたものに興味を示さないことに気分を害しているように感じたのかもしれない。
焦ったように、カイへと身を乗り出したくる。
「興味が、まったくない訳ではないのですが、その…これは私のものでない気がすると言いますか…」
本当に、何に興味があるのかを聞きたいだけだったのだが。
しかし、サクラの答えには引っかかるものがあった。
「これらは、お前のものだ」
サクラは考えるように口を閉ざし、カイから離れて座り直した。膝に置いた手をじっと見つめている。やがて言葉は紡がれた。
「私以上にこれらを付けるに相応しい方はいくらでもいるのに?ただ、私の元に来たという、それだけで、これらを私ごときが身に付けるのが相応しいとは思えません」
己を卑下する言葉が発せられたことを、カイは意外に思った。
この娘は、こんな風に己を蔑んでいるのか。
カイは、タキが言っていたことを思い出した。「オードル家の次女のひどい噂も聞いていた」と言うそれは、容姿の凡庸さについて語られるのはまだマシな方で、あることないこと、かなり尾ひれの付いたものまで出回っていたようだ。
確かに、サクラの姉妹は美しい。己を見据えた姉の美貌。祝宴で見かけた美少女は、まさに天使だった。あの二人に挟まれたサクラは、さぞかし貧相な娘に見えたのだろう。
事実や偽りの入り混じった噂に、サクラがひどく傷ついたことは想像に難くない。
カイが言葉をかけようとしたその時。
「・・・今の忘れてください」
突然、サクラが言った。そして、顔を上げる。
「ちょっと後ろ向き過ぎました。反省します」
カイへと向いて二コリと笑う。こんな風に、カイに笑いかけたのは初めてかもしれない。
「本当は、宝石もドレスもとてもうれしいです…ありがとうございます」
再び、カイへと身を乗り出し「でも」と言い募る。
「でも、こんなには必要ないと思いませんか?何度マアサに言っても、どんどん増えるんです」
それには、先ほどの俯いて己を貶めるようなことを言った娘の昏さはなかった。
接近する娘から零れ落ちた一房の髪を手に取り、カイは「無理に着飾る必要はない」と、告げた。
先ほど、言い損ねた言葉を続ける。
「このままのお前で、俺は構わん」
サクラが、この言葉をどう取ったのかは、分からない。関心がない、とも取れる言葉だった。
だが、少しして小さな声で「ありがとうございます」と答えがあった。サクラはきちんとカイの意図を読み取ったようだ。
どうして、この娘が己を卑下する必要があるのだろうか。
確かに、姉妹に比べれば容姿は劣るかもしれない。何か特別な能力がある訳でもない。
しかし、突然ここに連れてこられたにも関わらず、ここで、一生懸命自分にできることをしようと尽くしている。カイの意図を察する聡さや、使用人に対する思いやりも、数え切れないほど目にしてきた。
サクラは、とても、良い娘であることをカイは、もう十分に知っていた。
「殿下?」
黙ったカイをサクラが首を傾げながら声をかける。
カイは手を伸ばし、サクラの背中のリボンを解いた。フワリと広がる髪。
サクラの背中でその髪に触れながら、このまま少し腕に力を込めれば、サクラを抱き寄せることは難しくないと気がついた。
それをしなかったのは、求めてないからなのか、それとも自室に人の気配を感じたからなのか。
カイはサクラの髪を離し、立ち上がった。