5
その気配に、カイの眠りは妨げられた。
少しの間、瞳を伏せたまま探り、やがて、静かに瞳を開ける。
傍らには温もり。地位と権力をカサに手に入れた名目上の妻は、カイの胸元で、何かから身を守るように丸くなり眠っている。
目覚めさせぬように、静かに体を起こし、ベッドから降りる。バルコニーに足を進め、僅かに軋ませながら扉を開いた。
深夜に相応しい、冷たさの増した風が吹いている。カイはそれが部屋に入り込むのを嫌い、扉を閉める。
「お前か」
今夜は、満月。
白い魔獣が、光を背に、立っていた。
「タオ」
亡き主の定めた名を呼ぶと、白い魔獣は牙を剥いた。
その名を呼ぶな、と。
主以外には許さぬ、と言うように。
サラ・・・カイが最も信頼していた狩人の一人・・・の魔獣は、名と存在は知っていたが、姿を見たことはなかった。
破魔の剣の使い手は、常に剣を晒していたから。
魔獣とあいまみえることなどなかった。
「美しいな」
率直な感想を述べる。
その魔獣は、カイが対峙し、そして絶ってきた、どの獣よりも美しかった。
「何しにきた?」
今、主を失ったこの獣は、何を求めてここへと現れたのか。
紺碧の瞳に、理と智さえ湛えて佇む獣にカイは問うた。
白い魔獣は、その澄んだ瞳を、カイを通り越した向こうへと向けているようだ。
「サクラ…か」
カイは、眠る娘の名を口にする。
ピクリ、と白い耳が反応した。
主を失った魔獣が、闇に堕ちるのは珍しいことではない。一方、新たな主を求めることは、ほとんどない。
本来、魔獣は闇の部族であり、孤高の輩だから。
だが、どうやら主を失ったこの魔獣は、サクラの気配を求めてここまで来たのだ。
「諦めろ。あれは…俺のものだ」
そして、身のうちに破魔の剣を抱く者。魔は近づけない。
白い獣は、焦点をカイへと戻した。敵意はない。しかし、カイには絶対に服従しないという意思が見えていた。
カイは獣に腕を差し出した。
「俺に忠義を誓えとは言わん」
獣は再び、部屋の奥へと、視線を投げた。見えるはずのない娘の気配を探すように、じっと。
「タオ、俺の血を受けるがいい。そして、お前が護るべきものを護れ」
タオは、男の口から出た己の名に、今度は牙を剥かなかった。
牙を男の腕に寄せ、すっと滑らせれば、瞬く間に鮮血が滴る。
それを、ペロリとひとなめし、一時、カイを見つめた。
「使い手の血だ。味わえ」
再び、舌が差し出され、あとは憑かれたように零れる深紅を嘗め尽くす。
「行け。血が必要ならば、いつでも応える」
魔獣は、カイの言葉を、言葉にしない思いすべて分かっているかのように。
やがて、フワリと浮く軽やかさで闇へと姿を消した。
部屋へ戻り、冷えた体をベッドに横たえる。
「ん…?」
サクラが身じろいだ。
カイが何も言わず、ただ引き寄せれば、少し身を引くように動いたが、再び穏やかな眠りに就く。
この娘は。
自ら、ここにいることを選んだ娘は。
いったいどんな娘なのだろう。
それは、初めての思い。
小さな使い魔を操っていたという。散歩が好きなのだと言っていたのは、あの姉だったか。
そういえば、オードルを訪れたあの時。樹の上に感じた魔に足を止めた、あの時、この娘は魔獣と共いたのだ。あの樹の上に。軽く聞き流していたが、考えてみると、上位の貴族子女の行動ではない。
カイには見せない笑顔で使用人と語り、タキに魅力的だと言わせた娘。
そして、この娘の何が、あの魔獣を引き付けたのか。
使い手がいるこの場に、気高い魔獣を、導いた娘…サクラ。
「サクラ…か」
カイは、初めてサクラという存在に興味を持った。
これは剣の鞘。
だが、人で、意思を持ち、話し、そして、暖かく柔らかな。
サクラ、なのだ。