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あとになって考えてみれば、あの瞳を見た時に気がつくべきだったのだ。
金と黒の瞳。あの瞳を持つ者が二人といるはずがない。
大国キリングシークの第二皇子。キリングシークが大国であるべくを担う双璧の一。
他国を制する巨大な軍を統べ、魔を討つ狩人を束ねる『漆黒の軍神』。
その人が光り輝く金の瞳と、深く沈む黒の瞳を持つことは周知の事実だ。
だが、まさかその神と呼ばれる存在に自分が関わることになるとは思いも寄らないことで。
だから、マヌケにも本人に名乗られるまで、気がつきもしなかった。
今でも、その『軍神』の妻になった実感はない。
だが、ここに連れてこられて早一週間、自分に何を求められているかは、分かり始めていた。
要するに剣の鞘なのだ。
サクラはここに、カイの傍らにおとなしく存在していればいい。
それ以外は、何も求められていない。
そう納得してみれば、置かれた状況は、それほど悪くない気がする。
凡庸な能力も、十人並みの容姿も、ここではそれ以上は必要ないのだから。
私は、ここで軍神が剣を召すのを待てばいい。
とは言っても、暮らしている以上、何かとあるもので。
目下のところの懸案は、マアサのありがたくも面倒な申し出だった。
「私、今のままで構いません」
マアサの提案にサクラはそう答える。
「ですが、今のお部屋は先々代の皇太后様がお使いだったお部屋で、若い奥方様向けではございません」
サクラのいる屋敷は、カイが平素暮らしている場所となるらしい。
先々代、つまりカイの曽祖父が別荘として使っていた屋敷で、規模は小さいものの、襲来にも備え堅固な造りを誇っている、らしい。
現皇帝がいる首都の城からは、馬で駆けて半時ほどの距離にある、らしい。
全てマアサから聞いたことだが、なるほど、調度品は新しくはないがどれも一級品だし、趣味も良い。
マアサは、サクラが使う部屋が、老婦人向けであったことを憂いて、模様替えを勧めていた。
落ち着いアイボリーの壁と濃い茶色のカーテン。その人の好みで誂えられたことの分かる数々の家具や調度品。
サクラの身には余る品物ばかりではあったが、だからといって取り替えるほどでもない。
まして、マアサはサクラ向けに調度品を誂えることを提案しているのだ。そんな恐れ多い・・・贅沢は身についていない。
「私、あの部屋を気に入っているので、模様替えはいりません」
マアサは、少しの間考えていたが、やがて納得してくれたようだ。
「分かりました。では、このお話はなかったことにいたしましょう」
「そうして下さい」
マアサは言って、サクラのためにお茶を淹れてくれた。
この屋敷には、二十人ほどの使用人がいるらしいが、サクラの世話をしてくれるのはこのマアサだった。
ここに連れてこられて一週間。
ほとんど部屋から出ないサクラにとって、マアサと・・・それからカイだけが、この屋敷で接する人間だった。
その二人にも、さほど心が開ける筈もなく。
悪くない環境だと思う一方で、少々辟易しているのも事実。
サクラは窓から外を眺めた。良い天気だ。家にいた頃は、こんな天気の日は、アシュをつれて散歩に行くのが日課だった。
「奥方様、お茶が入りました」
マアサに言われて、カップを手に取る。
「そういえば、奥方様。ドレスやアクセサリーですが、カイ様からは奥方様が望まれるだけご準備するようにと申し付けられておりますが・・・」
サクラはぎょっとして、マアサを遮った。
「いりません!」
クローゼットに並ぶドレスや装飾品は、一週間経った今に至っても身につけていないものの方が多い。
これ以上、必要とは思えない。
「ですが」
「私、ここから出ないんですよね?じゃあ、余分なものはいりません」
いくら着飾ったところで、たかが知れてるのだ。
美しいドレス達だって、より似合う人に着て欲しい筈。
「奥方様、夫のために美しく着飾るのも妻としての勤めでございますよ」
カイはサクラにそんなことは望んでいないと思う。
マアサだって、気が付いている筈だ。
サクラが事実上のカイの妻ではないことを。
彼は、サクラを抱きしめて眠るけれど。それはそれだけでしかないことを。
それでも、奥方様と呼び、妻としての心得を説くのか。
「着飾るのは苦手なんです」
飾れば飾るだけ、空回りしている気がする。
今、このときだって。
マアサに着せられたドレスやアクセサリーが、到底似合っているとは思えない。
「お任せいただいてよろしいですか?」
マアサに言われて、諦めを含んで頷いた。
「奥方様は…」
マアサが何か言いかけたとき、ノックが響いた。
「はい」
マアサが答えると、扉が開き深々と頭を下げた執事が現れる。
「失礼いたします。奥方様、殿下がお召しです」
執事が前に立って歩き、後ろにはマアサがそっと着いてくる。
部屋から出たことがほとんどないサクラは、あっちへ曲がりこっちへ曲がりを繰り返しているうちに、自分が歩いている場所がどこなのか、まったく分からなくなっていた。
一人だったら、間違いなく迷子だ。
やはり、あの部屋からはむやみに出ない方が賢明に違いない。
そんな思いにたどり着いた頃に、ようやく、執事は一つの一際大きな扉の前で足を止めた。
「失礼致します。奥方様をお連れしました」
部屋の扉を開けて、真っ先にサクラの目に入ってきたのは。
姉であるキキョウの姿だった。
背筋をピンと伸ばした凛と美しい姿で、キッと見据えている。
目の前に立つ長身の男を。
「姉様?」
呼びかけると、男から目を離し、サクラを見つめ、ホッとしたように笑みを浮かべた。
その笑みも、また、美しいから。
サクラはそっと笑みを返しながら、息苦しさを覚える。
カイの目には、美しい姉はどう映るのだろう。
「ご覧のとおり、サクラは生きている。納得したらさっさと帰れ」
カイは静かな口調でそう告げた。
キキョウは再び鋭い視線を投げかけた。怯むことなく、まっすぐに尊大な皇子を射抜く。
「殿下。もう一度お願い申し上げます。妹をお返し下さい」
まるで、絵画のようだ。
戦いの女神のように、猛々しく気高く。
「もう一度言おう」
男もまた軍神。
女神の激しさを飲み込むような静けさで答える。
「サクラは俺のものだ」
一枚の絵画を見るように。舞台の一部を観るように。
他人事のような、絵空事のように、サクラはそれを眺めていた。
男から語られる「サクラ」は自分ではなかった。
この男の言うサクラは、剣のことだ。
「キキョウ様。そちらには、使者を遣わして話は通した筈です。第二皇子とはいえ、皇族への縁組はご両親もお喜びでしたが」
側に控えていたカイの側近のタキが、そっと耳打ちするように語りかける。
そんなこともしていたのか。
サクラの知らないところで、いろいろと事は進んでいるらしい。
「式もなく、誓いもなく、さらうように連れていき、屋敷に閉じ込めて、何が喜ばしいものですか」
苦々しいものを吐き出すように。
とても辛そうな顔をする姉に、サクラが近づこうとするのを、カイの視線が止める。
「式など何の意味がある?いったい何を誓う?剣がサクラの中にある。それだけで十分だ」
そう、それだけ。
カイにとっては、それだけだ。
そして、サクラは。
「私の妹は意思も感情もあるのです」
姉は引かない。
「剣がサクラを選んだことは、いまさら何を言っても仕方の無いこと。ですが、それを理由にサクラを手元に置くのは、殿下の勝手ではありませんか。サクラの意思がどこにあるというのですか」
キキョウは強い。
「剣は必要な時は殿下のお手元に戻ると聞いております。サクラは、ここに留まる必要はない筈です。お返し下さい」
強くて、正しい。
そして、カイは。
その冷たい金と黒は、なんの感傷もなく、キキョウを見下ろすばかりだ。
キキョウは、まるで動かないカイの感情に焦れたように声を荒げた。
「私の妹は、殿下の剣に選ばれただけの、普通の娘なのです!」
カイの心を動かそうというように。
募る言葉は、だが、サクラをえぐった。
姉の言葉に悪意がないことは分かっている。だが、世の中には、同じ言葉が悪意を含んで囁かれている。
誰もが思っている。
剣がたまたま選んだだけの、何の取り柄もない普通の娘。
それが、それだけの理由で、妃殿下という地位を手に入れた、と。
「領地の散歩が好きで、小さな使い魔と戯れることが好きな普通の娘なのです。時が来ればしかるべき方に嫁ぎ、幸せな家庭を築くこともできるでしょう。それを、殿下は全て奪って・・・正妃という立場はそれに変わるほどのものでしょうか・・・サクラは・・・」
必死に言葉を綴るキキョウの言葉をサクラは心で呼びかけた。
でも、姉様。
でも、私は。
「帰れ。もちろん、サクラは置いて、一人で、だ」
キキョウの視線がサクラへ動く。サクラとよく似た緑の瞳には、諦めが浮かんでいた。
サクラは一歩足を進めた。
カイの不興を買うことを承知で、ここへ来てくれたことに感謝している。
サクラのことを、本気で心配してくれたことにも。
それを伝えたくて、キキョウを抱きしめたかった。
だが、それはかなわなかった。
カイの腕がサクラの腰を抱き、片手で軽々と抱き上げたから。
「あ」
カイがキキョウに背を向けて部屋を出ようとする。
キキョウと向き合うことができたサクラは、唇をかみ締める姉に向かって告げた。
「姉様。私、ここにいます」
カイの足が止まった。
「・・・降ろして下さいますか?」
小さく呟くとカイは、あっさりとサクラを降ろした。
カイに一言礼を言い、姉に近づいていく。
「サクラ」
姉の前に立って、まっすぐに視線を合わせる。
「姉様・・・私、大丈夫。ここにいます」
私はこの人のように美しくもなければ強くない。
だけど、少なくともここにいることは、あの男に望まれているのだ。
それが剣に対しての執着だとしても。
でも、望まれているなら、それに応えたい。
何もできない凡庸な私だけど、それでも良いならば。
キキョウの首に手を回し、抱きしめる。
「姉様。ここに来てくれて、ありがとう」
それだけ告げて、カイの元へ戻った。
キキョウは眉を潜め、やがて、複雑な笑みを浮かべる。
そして、優雅に一礼をして、部屋を立ち去った。
キキョウを見送り、自室へ下がろうとしたサクラをカイが呼び止める。
その上で、部屋にいた全ての者を下がらせる。
「お前は式が挙げたいか?誓いの言葉が欲しいか?」
カイに尋ねられて、サクラは意外に思う。
サクラが望めば、カイはそれを叶えるのだろうか。
サクラは首を振った。
そんな形式ばかりのものがなんになるだろう。
「剣がここにあることが全てだと、貴方がおっしゃった」
己の胸に手の平を当てた。
「だから、それでいいのです」
取り繕うだけの結婚式や、紛い事の誓いはいらない。
剣がサクラの内にあり、カイがそれを求めている。
それだけが真実だから。
「ならば、俺の言葉で誓おう」
カイがサクラの胸元に手を置く。
「お前は俺のものだ。だが、約束しよう。お前が俺の傍らにある限り、お前のことは俺が護る。魔であろうと、人であろうと・・・お前を決して傷つけさせない」
呆然と見上げるサクラの額に、カイはそっと口付けを落とした。
「マアサ。サクラを部屋へ」
呼ばれたマアサが現れると、サクラは一礼をして部屋を退出した。
部屋を出てしばらくすると、心臓がドキドキと踊り、顔が赤くなってくる。
マアサがそれに気が付かないことを祈りながら、部屋までの道を急いだ。