29
夏の暑さが嘘のようだ。
冷たい空気の鋭さに身を竦めて、サクラは毛皮のマントをかき寄せた。
「寒いか?」
隣に座っていたカイが抱き寄せてくれる。漆黒のマントの中に包み込まれた。
「大丈夫。暑いよりは、よっぽどいいもの」
言いながらも、温もりを求め、そして自らも与えるために身を寄せた。
今年の夏は散々だったから。来年は体調を崩さずに、過ごすことができれば良い。
当たり前に、ここで次の夏を迎えることを考えているのに、微笑みが浮かぶ。
「ここは、寒さも厳しい。暮らしにくい場所だ」
あえて、その場所にカイは屋敷を構えているのだ。
カイは戦いを終えて戻る場所として、便利な喧騒よりも、静かで穏やかな場所を選んだのだろう。
「私、ここが好き…夏はバテてしまったけど、慣れると思うわ」
正直な思いを口にすれば、カイは頷きながら笑みを浮かべた。
「寒いのは、得意か?」
「どちらかと言えば…それに、今は寒くないもの」
こうして、寄せ合う体があるから。
「今日は、どちらに行くの?」
馬車は静かに走り続けている。
カイが行き先を言わないのはいつものこと。言われたところで、サクラを待っているのは楽しいことではないから尋ねもしないのが常だ。
「気になるか?珍しいな」
気になるのはカイの態度のせいだ。
カイはいつもよりも、少しだけ緊張しているように見えた。
「まだ、少しかかる」
それだけ言ったカイに、それ以上は問わなかった。
カイがいれば、どこでも良いのだから。
華やかな場所も、騒がしい人々にも、慣れはしないまま。相変わらず、そこは好きな場所ではないが、それでも時間が経つにつれ、サクラの存在は人々の好奇心を煽る存在ではなくなっていた。
軍神の隣にある寵妃の存在を人々が受け入れてしまえば、人々の興味は他に移っていくのだ。
「着いたぞ」
カイの声で、サクラは目を開けた。
どうやら馬車の揺れと、抱き合う温かさの心地良さにウトウトしていたらしい。
「…行こう」
カイが少し硬い声でサクラを促した。
やはり、今日のカイは少しいつもと違う。
馬車を降り立って、サクラはその理由を知った。
「…カイ様…」
カイに手を借りて降り立った場所に、驚いて目を見開いた。
「今日は姉君の婚約披露だそうだ」
カイはサクラの手を、自身の肘へと乗せる。
導かれ一歩踏み出すサクラの前に建つのは、オードルの館だった。
かつてのサクラの住家。懐かしい「我が家」だった場所。
ほんの1年前までは、ここを立ち去ることなどまだまだ先の話だと思っていた。
「いらっしゃいませ」
迎え入れられる言葉。
幼い頃から仕えている執事。毎日のように顔を合わせていた使用人達が、深々と頭を下げてくる。
それが、ここがサクラの場所ではないことを告げていた。
サクラは、招かれた者。
既にこの家を出て…キリングシークという大国の皇子妃となった者として、ここを訪れているのだ。
俯きそうになる自分に言い聞かせる。
背筋を伸ばして、胸を張って。すべきことは、堂々としていること。
執事の案内で屋敷内へと入っていく。見慣れた屋敷が、どこかよそよそしくサクラを迎え入れた。
そして。
「ようこそおいで下さいました」
今日の主催者となるオードルの両親。主役である姉と、隣には婚約者だというサクラも知る幼馴染の従兄。それから天使の異名を持つ妹。
かつての家族が膝を折り、頭を深々と下げて、カイと傍らに立つサクラに最上級の礼を尽くす。
皇子とその妃に。
サクラはそれを受け入れながら、カイの様子がおかしかった本当の理由を知った。
思い知らされたから。
既に、サクラの地位は、オードルの家をはるかに超えてしまったのだ。
両親にとって娘は、庇護すべき存在ではない。公にあっては、姉妹にとって、サクラは無邪気に戯れ合うことも許されない存在なのだ。
サクラは、カイの肘に添えた手に一瞬だけ力が入るのを止めることはできなかった。
気がついて、すぐに力を抜き、カイを見上げる。
無表情に見える中、瞳が心配げに見下ろしてくるのに微笑んで見せた。
分かっている。
変わってしまったのだから。私自身は何も変わっていないつもりでも。
カイの妃になるとはこういうこと。
でも、大丈夫。
サクラは…かつての家族に、静かに礼を返した。
心は痛まなかった。
一瞬走ったのは、無邪気だった時代に決別した寂しさだったかもしれない。
でも、もう覚悟は決めて久しいから。
だから、大丈夫だった。
婚約披露が始まって、サクラはカイの許しを得て、そっとバルコニーに出てみた。
そこは、以前はサクラの逃げ場所だった。
常に姉や妹と比べれられて、それに耐えられなくて、ここに幾度となく逃げ込んだ。
あの冬の日もそうだった。ここにサクラは逃げ込んで、白い獣が現れて、そして、剣に選ばれた。
「サクラ」
背後からかかる懐かしささえ覚える声に、サクラは微笑んで答えた。
「姉様」
今日の主役である姉は、いまだかつてなく美しい。女神の凛々しさをそこかしこに散らばめながら、嫁ぐ娘の初々しさをまとっている。
「泣いてるかと思ったわ」
サクラは頷いた。
ここは泣き場所でもあったのだ。
「大丈夫。分かってるから。自分で選んだの…だから、大丈夫」
サクラは、姉をまっすぐに見つめて告げる。
これが本心なのだから。
この姉のように美しくはなくても。強くはなくても。
もう迷いはない。己で選んだ現在を、誇って胸を張る。
「貴方は…もう大丈夫なのね」
俯いたのは姉の方だった。
口元には笑みが浮かんではいたが、それはどこか寂しげだった。
「姉様?」
サクラはキキョウに近付いて、その手を取った。
「…寂しいわ…いずれ、アオイも嫁いで…ここは私だけになってしまう」
姉のそんな思いを初めて聞いた。
確かに、サクラが去り、アオイもそう遠くないうちに、どこかへ嫁ぐ。
姉は、ここに残される者なのかもしれない。
「でも、ラオ様がいるでしょう」
優しい年上の従兄は、この姉の拠り所になれる筈だ。
そして、そこから始まる。
「いずれ、子供ができるわ。ここは、私たちが小さかった頃みたいに騒がしくなるの」
小さな子が走り回る。高い明るい声が響く。きっとそうなるから。
サクラは「ね?」と姉に微笑んだ。
キキョウは頷いた。
「サクラ…貴方は」
言いかけたキキョウの口が閉じられる。
「サクラ」
呼ばれてサクラは振り返った。
キキョウが眉を寄せながらも、膝を折って近付いてくるカイを迎えた。
「…もう少し、姉妹水入らずでお話させて下さっても良いのではありませんか?」
剣呑な瞳で見上げる娘に、カイは小さくため息をついた。
「そのままどこかに隠されてしまいそうだな」
極々自然にサクラに近付き、傍らに立つ軍神。
それを、困ったような笑みを浮かべて迎える妻。
キキョウの目にも、それは当り前のような光景だった。
「それもようございますね。私、貴方様がサクラにした仕打ちは忘れてませんもの」
なんだか少しだけ悔しい気がして、キキョウはそんな憎まれ口を口にした。
皇子は少し考えるような素振りをしてみせる。
「…式も挙げず、誓いの言葉も告げず、攫って閉じ込めた・・・だったか?」
覚えていたのか。
それらは、確かにキキョウの言った言葉だ。大事な妹を攫ってしまった傍若無人な皇子は、あの時、その言葉に僅かも揺さ振れはしなかった。
象徴とも言えるその色の違う双眸で、冷たくキキョウを見下ろしただけだった。
だが、今、同じ男は隣に立つ妻を温かい視線で見下ろしながら、キキョウに返した。
「式ならば、挙げてもいい…しかし、サクラが嫌がる。説得してもらえるのか?」
キキョウはきょとんとする。
「…カイ様」
サクラがばつの悪そうな顔で、カイを睨む。
「誓いは、サクラには何度と立てているが…必要ならば、そちらの望みの言葉で誓ってやろう」
サクラの頬がさっと染まる。
その様が艶っぽく、愛らしく…キキョウの知らない女性のようだった。
「どんな誓いを立てられているのやら」
思わず零した呟きに、サクラは更に顔を赤らめて俯いてしまった。
カイが宥めるようにその染まった頬に手のひらを添えると、顔をそむけてその手を避ける。
その妹の様子は昔ながらの拗ねたサクラで、キキョウはプッと噴き出した。
この妹は。
私の大事な妹は、なんて、鮮やかな女性になったのだろう。
「…どうやら噂は本当のようですね」
この一年、様々な噂がキキョウの元へ届けられた。
皇子の正妃を嘲笑するもの。皇子の素行をまことしやかに囁くもの。
どれが本当で、どれが偽りなのか。
確かめる術もないまま、ただ妹の身を案じていた。機会さえあれば、間違いなく取り戻していた。
だが、ここしばらくで噂は変わったのだ。
剣の選んだ妃は、軍神の寵愛を一身に受けている、と。
どこに連れていても、その愛でぶりはまぶしいばかりで、もはや、何人も入り込む隙はない。
そんな噂も、今日まで真偽を確かめることはできなかった。
軍神は、あちらこちらにサクラを連れ立ちながら、実に巧妙にオードル家を避けていたようだ。
それが、サクラの心中と皇子の心配の結果だとすれば、これもまたキキョウの笑いを誘うではないか。
キキョウはくすくすと笑い続け、「姉様…笑い過ぎ」サクラが拗ねて、カイの胸元に顔を隠してしまっても、それは止まらなかった。
なんとか笑いを抑えようとしながら、キキョウはそのサクラの様子に一抹の寂しさと共にほっとする。
妹の逃げ場所は…寒いバルコニーではない。
夫の腕の中なのだ。
「他には、何が必要だ?」
軍神は胸元に隠れた妻を、見下ろしながらキキョウに尋ねてきた。
キキョウは、サクラを見たまま呟くように言う。
「式も誓いもサクラが望まないなら、本当は必要ないのです」
そして、カイを見つめた。
カイがサクラを愛しいと思っているならば、望むことは一つだ。
「どうか、いかような戦にご出陣なさろうと、ご無事でサクラの元にお戻り下さい」
妹が泣かないですむように。
サクラがカイの胸元から顔を上げた。
キキョウをまっすぐに見つめてくる視線が、すべて承知しているのだと語っていた。
「貴方様に望むのはそれだけです。あとは野暮でしょう。私の耳にも入ってきてます。軍神殿の新妻への執着振りは」
サクラは再び恥ずかしげに俯いた。
妹はきれいになった。
凛として、胸を張る姿。
そして、しなやかなに夫へと寄り添う姿。
そこにはもやはキキョウの陰で俯いていた少女の姿はない。
「…俺が戻るのはサクラの元だけだ」
この男がサクラを変えたのだ。
本当に…妹は大丈夫なのだ。
取り戻すも何もない。サクラは、もう、キキョウの助けを必要とはしていない。一人の女性として、きちんと己が行くべき道を選択したのだ。
キキョウは微笑んだ。心からの笑みだった。
そして、漆黒の軍神と、その花嫁に深々と頭を下げた。