28
今日は日が良いので髪を切りましょう、と最初に言い出したのはホタルだった。
絶対的な権限を持つ主が結うことを禁じた髪。
その指先で遊ばれることだけを使命として、常に解かれて揺れる髪は、切ることまでは一度として止められたことはないのに、何故かハサミが入れられないまま今に至っている。
「一番結いやすいのは、腰の辺りなんですけど…」
ホタルが言いながら、サクラの腰の辺りに手を添えた。
髪を結うということが当たり前の成人女性としては、ごくごく一般的な長さ。
マアサが「そうね…そのあたりが一番結いやすいわね」と頷くのに
「でも、サクラ様の場合、もう少し長めで、いつもこのくらいだったんです」
と、ホタルが今度、指示したのは腿のあたり。
今、サクラの髪は、ホタルの示した場所をはるかに超えて、膝のあたりで毛先が揺れている。
「…ホタル」
サクラは、肩越しに幼馴染の侍女を呼んだ。
髪を切るという作業自体はほぼ一年ぶりとは言え、サクラとホタルにとっては何度も何度も数えきれないほど繰り返してきたことだ。
今更、何を悩むというのか。
「ここまで長いと、なんだか惜しい気がして」
ハサミを握ったまま固まったホタルは、切りがたい、と言う。
切りましょうの一言から、一体どれほど時間が経ったことやら。
ホタル一人では決められないとマアサを呼んだは良いが、今度はマアサもどうしたものかと腕を組んで考え始めてしまった。
「…確かに…おきれいですものねえ…」
マアサはうっとりと呟いた。
その讃辞に心からの喜びを表したのは、サクラではなくホタルだ。
「はい」
侍女が手間を惜しまず手入れをしているそれは、確かに切るのがためらわれるほど美しいだろう。
「でも、この長さでは結うのが大変でしょう?」
そうなのだ。
ここ何度か結い上げる機会があったことで、ホタルもそれは痛感している筈。
座って整えてもらう側のサクラでさえ疲れてしまうのに、結い上げる側のホタルの苦労は見ていて申し訳ないくらいだ。
「それはそうなんですけど」
ホタルはそれでも迷っている。
結うのがホタルなら、切るのもホタル。
相当なジレンマを抱えているらしい侍女は、ハサミを片手に人生の岐路にでもいるかのように悩んでいる。
「…ねえ、切らないの?」
サクラは少し呆れながら促した。
それほど、悩むことだろうか。
別に、必要以上に切れと言っている訳でない。ただ、今の長さは一般的に言っても、尋常ではないから、適度な長さにしよう、と言っているだけなのに。
「…ホタル?」
正直、ただ立っているのにも飽きてきてしまった。
そろそろ、結論が出ても良いのではないだろうか。
「もう少し…悩ませて下さい」
しかし、深く眉間に皺を刻みながら、ホタルが言う。
「…いいけど…そんなに悩むようなことかしら…」
サクラは、再び前を向いて立った。
呟きながら、自らの髪をひと房手に取って眺めてみる。
「…悩みます…せっかくきれいなのに…でも、結いにくいのは確かだし…」
唸るホタルに、サクラは髪を離して肩を竦めた。
少しの間は、そのまま立って待ってみる。
だが、うんうんと悩めるホタルが、結論を出すのはまだまだ先だと感じ取ると、ひとまず休憩を自分に許してソファへと腰を下ろした。
マアサの目に映るそのサクラの動作は、なんとも無造作だ。だが、今、まさに髪を切るかどうしようかと悩む侍女の気持がよく分かった。サクラの動きに合わせて、揺れる髪はただ背中に流れている時よりも、なお美しいのだから。
「俺はこのままで一向に構わん」
座ったサクラの隣から手が伸びて、揺れるひと房を指に取る。
ずっと黙って見ていたカイが呟いた。
いつもなら、この一言で髪を切るという行為はなしにもなろう。しかし「それでは困るので、こうして悩んでいるんですよ…カイ様」
マアサは子供を叱るように腰に手を当て、妻の髪に指を絡めながら寛ぐカイを見下ろす。
「以前のように、お屋敷内に大事に隠しておかれるならば、それも結構でしょう」
マアサの言葉に、カイは小さな笑い声を零した。
「…そうだな…本当はそうしたいところだ」
マアサは眉を上げて、呆れたように続ける。
「その割には随分と外出が増えられましたね…こう頻繁では、結い上げる方の身になって頂かなければ」
マアサのお小言のような愚痴のような…それでいて状況を喜んでいるような言葉を、カイは一向に気にした風もなく、指に絡ませたサクラの髪に口付ける。
カイのその行為のためだけに、伸ばされているといっても良いサクラの髪。
その唯一の男から髪を取り返し、サクラはプイっと横を向いた。
「拗ねるな。仕方のないことだ」
「分かってます」
分かっている、ともう一度心で呟く。
マアサの言うとおり、ここのところ、公務と称されるカイの外出に連れ回されている。
髪を結い、ドレスを身につけて、宝石で着飾る。
多くの人がひしめく華やかな場に引っ張り出されるのだ。
あれが、キリングシークの皇子の妃だと、軍神の妻と囁かれる。好奇だったり、悪意だったり…様々な視線に晒される。
とても苦手な場所と雰囲気の中で過ごす、それは苦行にほど近い。
できれば、行きたくない。
でも、行かなくてはいけないことも分かっている。
カイを受け入れた以上、これは避けようのないことだから。
「…俺も…行きたい訳ではない」
カイは苦々しく呟いた。
「だが、俺にはお前という妃がいるということを知らしめねばならん」
以前アカネを送り込んできたときに皇帝にはしっかり釘を刺した。今や皇帝を凌ぐ力を誇る皇太子である兄は、元よりカイの意思を尊重している。
だが、それだけでは足りないのだ。
突如として現れて皇子妃に納まったサクラを認めないと騒ぐ一部の宰相や重臣。
キリングシークの第2皇子が正妃を迎えたことさえ知らない貴族や国の王族達。
そういう輩は、ことあるごとに、キリングシークのために他国の姫君や有力な貴族の娘を娶れと騒ぐ。
カイが首を縦に振らなければ、それまでとは言えうるさいことこの上ない。
そんな雑音はいらない。
だから、知らしめる。
キリングシークの第2皇子には、何にも代えがたい妻がいる。
剣の選んだ娘は、軍神の寵愛を一身に受ける正妃だと。
「俺はお前だけで良い…それを、知らしめる」
頭に浮かぶのは、今までの人生で一度として思ったことのない「自業自得」という言葉だ。
こればかりはそうであると認めざるを得ない。
攫って来て、どこにも出さずに屋敷に留めておいた結果だ。
「こんなことなら盛大に式を挙げておくんだったな」
そうしておけば、少なくともサクラがカイの妃であることを広く知らしめることだけはできた筈だ。
カイが言うと、マアサが顔を輝かせた。
「あら、今からでも良いのではありません?」
一方のサクラはぎょっとした。
「いやです!」
即答する。
ここへきて、もう一年が経とうというのに、今さらだ。
しかも、これ以上、見世物になるのはごめんだった。
マアサが残念そうに肩を落とす。
「では、我慢して俺に連れまわされるしかないな…そのうち…周りも静かになる。お前の姉が取り戻そうなどと思わないくらいになれば、上出来だ」
思いがけない人物がカイの口から出てきて、サクラは目を瞬かせた。
「…姉様?」
カイが一瞬動きを止めた。
「口が滑ったな」
苦笑いを零す夫を、サクラはなお見つめた。
「何度か俺は会ってる。公的な場では否応なしに顔を合わすことがあるからな」
後ろめたさを感じているように。
「まだ、お前を取り戻したいようだ」
サクラは眉を寄せた。
取り戻す?
ここから?
そんなことは…サクラは唇を開きかけた。
だが、そこにホタルの声が割って入る。
「決めました!」
何を決めたのか。
忘れかけていた現状を思い越す。
そう、髪を切ろうとしていたのだった。
「…どうするの?」
サクラはカイから目を逸らしてソファから立ち上がった。
「切りません!」
ホタルはそう言った。
「…切るんでしょ?」
サクラが眉を寄せるのに、ホタルは首を振るう。
どんな決意なのだ?
「切りません。長いままにしておきます」
まあ、ホタルが良いというなら、それで良い。
そして、結局のところ、ホタルの一存により、髪はほとんど切られることなく、先をそろえる程度に留められたのだった。
何かが妻の機嫌を損ねたらしい。
珍しく不機嫌を身にまとったままのサクラに、さて、何がいけなかったのかとカイは考えてみる。
髪を切らないという結果はカイが招いたものではない。だいたい、さほどサクラは長いままの髪を疎ましく思っているようでもない。
だとすれば、やはり姉に会ったことを黙っていたことだろうか。それとも、何か他に理由があるだろうか。
「サクラ」
侍女たちが下がった部屋には、二人しかいない。
あえてそうと意識した訳でもないのに、自然と声に柔らかさと甘さが交る。サクラは、ラグの上に座って、カイに背を向けたままだ。
ホタルのおかげで長いままの髪が、カイの方に向かって流れている。
それを手に取って、軽く引っ張った。
「…機嫌を直せ」
サクラはちらりと肩越しにカイを見た。
「私、ここにいるもの」
呟くような、だが、はっきりとした言葉だった。
「…姉様が何を言っても…ここにいるの」
愛しい妻は、「ここ」がどこであるかを示すように、軽やかにカイの胸元に滑り込んでくる。
柔らかな体を抱きしめながら、つい笑みが浮かぶのを止められない。
「…カイ様はひどい…」
責める言葉さえも、カイには甘えの囁きにしか聞こえない。
何一つ告げられずに、ただ苦しめた時を思えば、どんな言葉でも愛しい。
「…私、ここにいると決めているのに」
サクラが更に身を寄せてくるのを、カイは強い力で抱きとめる。
そうか。
この娘は攫われてきて、ここに閉じ込められているのではないのだ。
カイを愛し求め、自らここに存在している。
「サクラ」
唇を寄せる。
だが、まだ機嫌の治らないサクラは、プイっとそれを避けた。
「…いや…しません」
こんな意思表示まではっきりするようになった。
カイは笑いながら、だが、サクラの顎を掴んで強引に唇を合わせた。
サクラが拒むように腕を突っぱねたのは一瞬だけだった。すぐに、手のひらはカイの背中へと回されて、指先が優しく労わるように滑った。
つい、口付けが深くなっていく。
幾度も幾度も繰り返して、ようやく慣れてきたサクラが、カイの望むように返してくるから。
止まらなくなる。
カイは立ちあがると、サクラを抱きあげた。
今夜の外出の予定は何だったか。
ホタルを呼んで、サクラを着飾らせるか。
浮かんだ考えは、すぐに頭の隅に追いやられる。
既に体は高ぶり、抑えようもない。腕の中にいるサクラは、ただ、大人しくカイのするに任せている。
外出の予定を早々に放棄して、カイは寝室へと足を進めた。