26
カイが何かを告げたのか。
それとも、長く仕える者は何かを感じ取ったのか。
この日、マアサはサクラの湯浴みに、ことのほか手をかけた。
自分のことは自分で、というサクラに譲歩してくれていたマアサが、頑として譲らず。
湯には、いつもより大目の花びらが浮かんでいたし、髪も念入りに洗われた。
あまりに、あからさま過ぎはしないか。
「何もご心配することはございませんよ」
マアサが髪を梳きながら諭すように言う。これを言うために、ここにいるのはホタルではないのだろう。
「全てカイ様の思し召しどおりになさいませ」
マアサの顔を見ることなく頷くと、組んだ指に震えを見つけた。
乾いた髪を背中で一つのみつあみにまとめる。
まるで、輿入れしたばかりのように純白の夜着を身に付けたサクラは、カイの寝室へと送り出された。
だが、カイはいなかった。
主のない部屋に、ぽつんと一人立ち…ほっと息をつきながらも、どうしたものかと部屋を見回す。
寝室だから、当然のようにベッド。
眠り慣れたベッドだ。
でも、今夜はそこに自ら上がる気には到底なれない。
よくカイが寛いでいる大きなソファに腰掛けて、膝を抱えた。
このまま寝てしまったら…見逃してくれるだろうか。
そんな風に考える往生際の悪さに、ちょっと呆れる。
でも、しょうがない。
あの時だったら。アルクリシュにいたあの時だったら、想いが通じた熱に浮かされたまま、すんなりと受け入れたかもしれない。
でも、ここに戻って、カイのいない時間を過ごして、サクラはちょっと冷静になってしまった。
何の取り柄もない普通の娘。
そんな自分を、思い出して。
カイがキリングシークの皇子であり、軍神であるということも。
今更、思い知る。
カイを受け入れることは…逃れる言い訳をなくすこと。
アイリが、怖かったという場所。
本来なら、大国の姫君こそが、相応しい地位。
何も持たないサクラが、過去には考えもしなかったそれが、今、目の前に現れている。
そんな場所に、どうして、易々と行けるだろうか。
オードル家の次女は、強くない。美しくもない。毅然ともしてないし、可憐でもない。
極めて、凡庸な娘なのだから。
サクラは自らの腕で、自らを抱きしめた。
どうしよう。
どうすれば良い?
ほら、怖がっている。
逃げたがっている。
所詮、私などこの程度の者だ。
背後で扉の開く音がする。
近づいてくる人を見る勇気はない。
俯いて、膝に顔を埋める。
「サクラ?」
カイの手が、髪に触れたのが感じられた。
「自分でベッドに行くか…それとも、俺に抱かれていくか?」
どちらも嫌。
だって。
きっと、サクラが思い出したように、カイも気がついてしまう。
カイの望むような娘ではない。
何の取り柄もない凡庸な娘だと。
「怖じけづいたか」
見透かす呟き。
「そんな思いをさせるなら…無理にでも抱いておくんだったな」
情けない思いが、なおさら強まり、サクラは体をますます縮めた。
「サクラ…俺も余裕がない」
そう聞こえたと思った途端、強引に顔を上げられた。
目の前にサクラと同じ布地で作られた夜着を、いつものように前を開けて羽織っているカイがいた。
覗く胸元には、包帯を外した傷痕。
もちろん血は止まっている。だが、完全に癒えているとは言えない、まだ痛みを覚えそうな生々しい傷痕だ。
サクラの鼓動が大きく跳ねた。
背筋が慄く。
この人は…帰ってきたのだ。
あの殺伐とした場所から。
魔獣たちが牙を剥き、爪を立てる。
剣が振るわれ…血肉が飛び散るあのおぞましい場所から。
なのに、何を考えているだろう。
この人は、言ってくれたではないか。
サクラが、穏やかな時間に導くと。
サクラだけだと。
それだけで。
「ごめんなさい」
縮めていた体を緩めてカイに腕を伸ばす。
「サクラ?」
屈む男の首を抱く。
響く声。温かい体。刻む鼓動。
今は、カイが戻ってきたことだけで。
その言葉を信じるだけで良い。
「すべて…貴方のお望みのとおりに」
なんとか、それだけを呟いた。
カイの腕が強くサクラを抱き寄せて、ソファから抱き上げる。
ベッドに降ろされ、重なってくるカイに見下ろされた。
怖いと何度と感じた瞳が、いつもよりも色を濃くして、サクラを見つめる。
「煽るな」
苦笑いと呟きで、自分が言った言葉がどんな意味を男に伝えたのかに気づく。
「…もう…何も言いません」
目を閉じた。カイを抱く手に、ほんの少し力を込めた。
「言いたくても…無理だ」
カイの唇が最初に触れたのは、サクラの唇。
確かに覚えていられたのは、それだけだった。
瞬く間に、サクラのすべてをカイは暴いていく。
狂人のように魔獣をなぎ倒す日々では思い出さなかった…あえて、思い出さないようにしていた肌の温もりを全身で感じ取ろうと、自分自身でさえ驚く貪欲さで求める。
サクラは従順だった。
強張る体。震える肌。
だが、その唇は一度として否とは零さなかったし、その手が一瞬でもカイを拒むことはなかった。
それでも。
未知の訪れに、華奢な体は怯えて逃げる。
それを易々と抑え。
「逃げるな」
命じた。
刃向かいようのない力で身を進めながら。
己の行為が、サクラに与える意味を、重く受け止めていた。
サクラの怯えを。
サクラの迷いを。
分かっていながら。
取り除くことなどできない。
「サクラ」
名を呼ぶと、細い腕が縋る。
深い繋がりの、さらなる奥を求め。
「俺を受け入れろ」
なお、命じるのか。
受け入れるのは、カイ自身。
そして。
「誓う…お前が俺を受け入れることで、背負うもの縛るもの…全てから護ろう」
かつての誓いは鞘の娘に。
この誓いは、誰より愛しいただ一人の女に。
「だから」
口から零れたのは。
「逃げないでくれ」
初めての願い。
護る。
この命に変えても。
だから、逃げないで欲しい。
娘を愛する男が皇子であり、軍神であるが故の宿命に。
共に向かって欲しい。
「…カイ…」
サクラの腕がカイを抱き寄せる。
「俺を受け入れてくれ」
願う。
サクラは頷いた。
「…サクラ…」
手放せないから。
譲れないから。
だから、もはや、願うしかないのだ。
「…愛してる…」
サクラはカイを抱いた。そして、頷く。
幾度も。幾度も。
カイが命じる数。
願う数だけ。
確かに頷いた。