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アルクリシュの館は、酷い有様だった。

窓という窓は打ち破られ、廊下には敷き詰めたようにガラスの破片が散らばっていた。

数えきれないほどの魔獣の死骸。幾人かの使用人たちの、無残に食い千切られた遺体。

そして、壁には爪痕、血痕、体液。

屋敷中に吐き気をもよおす血の匂いが充満していた。

憔悴しきった者達に、それを片づけることを強いることはあまりにも残酷な要求だった。

結局、魔獣を追って留守となったカイやシキより一足先に、サクラ達はキリングシークに戻るようにタキに指示されて、それに従ったのだった。

サクラを待っていたのは、マアサの涙交じりの笑顔と使用人たちの安堵の表情。

それらが、サクラをほっとさせた。涙が零れるのを止められなくて、初めてサクラの涙を見たマアサとカノンがうろたえながらも優しく抱きしめてくれた。

アルクリシュは居心地の良い場所だった。

だけど、もう、既にサクラの日常は、このキリングシークの館なのだ。

ここに戻ってきて、サクラはそれが良く分かった。

でも、まだ、日常は完全には戻らない。

ここには、まだ、カイがいない。カイが戻って来ない限り、日常は帰って来ない。

「また?」

空虚な心と、日増しに強くなる不安を隠して、サクラは毎日を過ごしている。

「また、です」

すっかり、様変わりしているクローゼットを目の前に、普段は気をつけているため息を思い切り吐き出す。

「夏のドレスだって全部着れなかったのに」

呟きながら、暑い夏と寒い冬の間の、一瞬だけを彩るドレス達に触れてみる。

夏の生地よりも、指に存在感を主張するそれら。いくらも経たないうちに、これを身につける季節はやってくる。

そして、冬が来れば…ここで、すべての季節を迎えたことになるのだ。

「マアサさんのお子様は、男5人兄弟だそうですよ」

ホタルが苦笑いを浮かべつつ、教えてくれる。

「サクラ様のものを選ぶのが、楽しくて仕方ないみたいです」

そんなこと言われたら、もう、いらないなんて言えないかも。

サクラは微笑んで、クローゼットから離れた。

「あ、サクラ様…中庭に行きましょう」

突然、ホタルが言う。

「…なぜ?」

理由をうっすらと察しながら、尋ねてみる。

ホタルは答えずに、サクラの手を引いて部屋を出た。

すると、向こうからタキが速足で歩いてくるのとかち合う。

「ちょうど良かった」

微笑む側近の続く言葉は、サクラの心に歓喜をもたらしたが同時に…日々大きくなりつつあった不安を一気に膨らませた。

「カイ様がお戻りになりますよ」

それを告げに来たらしいタキは、すぐに来た廊下を戻り始める。

俯き、ホタルに手を引かれるようにして、サクラはそれに続いた。

「お帰りには、もう少し時間がかかると思っておりましたが…まったく無茶をなさる」

タキの呆れたようなそれは独り言だろうか。

「サクラ様」

いつの間にか名を呼ぶようになった側近に顔を上げれば、心底同情したような視線がサクラを見下ろしていた。

「お覚悟なさいませ…しばらく離しては頂けませんよ」

この双子の兄弟は、物腰と口調は違うが、言うことは似ている。

サクラは再び視線を落とした。

本当に…カイはサクラを妻にするのだろうか。

サクラは…それを受け入れるのだろうか。



中庭に2頭の翼竜が降り立つ。

一頭にはシキ。

そして、もう一頭には、もちろんカイ。

ざわめく心を抑えて、サクラは型通りの礼で帰還した軍神を迎えた。

それに倣うように、使用人達も深々と頭を下げて受け入れる。

夫を見るのは、2週間ぶりだ。

アルクリシュに惨状を招いた黒い獣。あれの何が、他の魔獣達を引き寄せたのか。

いまもって、謎は多く、名の知れた魔獣使いや老師が喧々ごうごうと議論を交わしているらしい。

だが、例え議論がそれらしい答えを出そうとも、結果、解き明かすことができなかったとしても。

黒い獣に導かれて集まった魔獣達は、統率された軍隊のように力を誇示したのだ。そしてそれを失ったと同時に、ただの個々の無法者に戻ったというのが現実。

黒い獣がいなくなったことで、集められた魔獣たちは一斉に解き放たれた。

それは、アルクリシュの館に集まっていたものだけではなかったようだ。

黒い魔獣に魅入られたものたちは、そこかしこの闇に潜んでいた。

森に、町に、村に…ありとあらゆる闇に。

機を窺っていたのか。

何の機を?

それは、分からない。

黒い獣が失われた後、解き放たれた魔獣たちは、それぞれの飢えのままに暴れ始めた。

それが、彼らの本来の姿だ。

ただ、抑圧されていた反動が大きかっただけ。

カイはその始末を着けるために、多くの狩人を連れて駆けずり回る羽目になったという訳だ。

そして、ようやく剣がサクラの元に戻ったのは、つい、昨日のこと。

今までと同じように突風と共に戻った剣。それと入れ替わるように、ずっと側にいたタオは姿を消していた。

優しい白い獣がいなくなったことに、不思議と寂しさはない。まだ、近くにいるような、そんな気さえしている。

「お帰りなさいませ」

漆黒の軍神は、サクラの記憶の中にあるよりも大きく感じられた。

なのに、いくらか痩せたようにも見える。

「お体は大丈夫なのですか?」

つい尋ねると、カイは頷いた。

「大丈夫だ」

会話はそれだけだった。

館へと歩き出すカイの後を付いて行こうと一歩踏み出すと、カイは不意にサクラへ向き直った。

何も考えず、カイの顔を見上げると、まるで当たり前のように口付けを一つ。

一瞬の出来事。

カイは何事もなかったかのように、歩き出した。

家人達の時間は一瞬止まった。しかし、こちらも何事もなかったように各々動き始め、仕事に戻っていく。

「…サクラ様…大丈夫ですか?」

タキが尋ねてくる。優しいものの、決して心から心配しているのではないと知れる声で。

「意外におとなしいな」

カイの後ろにずっと控えていたシキがぼそりと呟く。

「てっきりこのまま寝室に直行かと…」

続く言葉を、止めたのはホタル。

「シキ様…やめてあげて下さい」

シキは肩を竦めて歩き出した。

「…お先に失礼いたします」

タキが丁寧な礼をくれてから、シキの後を着いて行く。

サクラだけが、呆然と動きを止めたまま。

「サクラ様、部屋に帰りません?」

ホタルに、そう声をかけられるまで動くことができなかった。


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― 新着の感想 ―
[一言] サクラが楽に息が出来る様になったのかな(>ᴗ<)ウレシイ
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