24
最初に異変に気づいたのは、やはりホタルだった。
嫌な…でも、つい最近聞いたことのあるような、それは唸り声と息遣い。
もはや程近い、確実にこちらへと近づいてくる足音。
誰に知らせるべきかを迷っている時間はなかった。
夜着にショールを羽織り、髪も結わずに部屋を飛び出す。
ホタルは無礼を承知で、カイの寝室の扉をノックした。
眠りが浅いという主は、すぐに姿を見せた。さすがに、寛いだ姿をしてはいたが、眠たげな様子もない。
「どうした?」
静かな空間に響く声は、ざわめくホタルの心にいくらかの落ち着きをもたらした。だが、焦る思いは止められず「嫌な音がするのです」
無礼を詫びることも忘れ、早口に告げる。
「…分かった」
カイは何をと問うことなく、一旦部屋へと姿を消した。すぐさま現れたカイの手には、剣が握られていた。
「どんな音だ?」
速足で歩きながら尋ねてくる。
その足は、迷わずサクラの部屋に向かっている。
「…唸り声…呼吸…足音…とてもたくさんです」
聞こえるものを口にしながら、ホタルは足が震えてきた。それでも必死にカイの後を追う。
「どのくらい近い?」
近いのだ。
それはとても近く、そして、いったいどれほどいるのか。
「かなり近いのです。申し訳ありません。魔獣は音を消すのが上手なので…」
歩みを止めることなく「詫びる必要はない。シキに知らせに行けるか?」
命令ではない問い掛け。
この怯えを、主は気が付いているのだとホタルは気づき、しっかりと答えた。
「はい」
カイが少し微笑む。
その笑みが、ホタルを力付けた。
「寝てるだろうが、たたき起こせ」
その物言いに、不謹慎とは思いながら笑いを浮かべ、ホタルはシキの部屋へと走り出す。
ホタルの言う嫌な音が、カイの肌を突き刺す気配に変わった。
カイもまた走り出す。
気配が色濃くなっていくのを感じて、気持が逸る。
サクラの部屋の前に辿り着き、ドアに手をかけた。
ドアを開けようとノブを捻ったまさにその瞬間、ガラスが割れる激しい音が、扉の向こうから聞こえた。
カイは剣を抜きながら、ドアを開けた。
「サクラ」
闇に近い暗がりの中、サクラはベッドの中で、身を起こしていた。
「カイ…様」
名を呼ぶ声が、震えている。
サクラの周りには小さな光が溢れていた。
だが、その光に救いはない。
無数にあるそれは瞳だった。様々な彩りが狂気を湛えながら、サクラを取り巻くように揺れている。
おぞましい光景だった。何にも代え難い娘が、大小様々な魔獣に取り囲まれている。
カイは、自分に言い聞かせた。
大丈夫だ。
サクラの中には、剣がある。
そして。
「随分と賢しいことをする」
傍らにある大きな影に呟いた。
それは巨大な魔獣だった。つい先ごろ見た魔獣でさえ、その大きさに慄いたのに。
なお、大きな姿はおぞましい。
いったい、この世にはどれほどの獣が存在するのか。
カイの背丈を遥かに越える体は、漆黒の軍神よりなお黒い。
小さな光が飛び回る中、一際大きく光るのは、瞳のないどす黒い紅。全く感情らしきものが見えない眼球が現れた男を見下ろしている。顎を超えて伸びる長い牙は、今にもカイの首筋に触れそうな程近い。
サクラは、体を巡る悪寒に震えた。
「カイ様」
呼びかけると、名の主ではなく、名もなき獣達が叫んで返す。
そのけたたましさに、サクラは耳を塞いだ。
これは、いったい何?
何が起きているの?
「サクラ」
カイが名を呼ぶ。
砕け散りそうな正気が持ちこたえる。
「大丈夫だ…お前にはどいつも近づけん」
その言葉に、サクラははっとする。
剣が私を護るから?
サクラは首を振った。
それでは、カイは?
軍神は、また、剣を鞘へ封じるのか。
「カイ様…剣を…」
抜いて下さい。
サクラの言葉を遮るように、黒い魔獣が吠える。
それに呼応して、何頭かの獣がサクラへと飛び掛かる。
弱きものは霧散し、多少の力を持つものは弾かれて、悲鳴を上げる。
これは、脅しのなのか。
剣がサクラから放たれたその瞬間にも、柔らかな体は食いちぎられると言わんばかりに。
黒き獣が、笑ったように見えた。
この魔物は知っているのか。
鞘の娘を護るために、使い手が剣を持たないことを。
故に、ここに来たのか。
「カイ様」
カイは、魔獣を見据えていた。
悠然ともいえる姿で。
「お願い、カイ」
いやだった。
こんな護られ方はいや。
確かに何もできない。
無力だ。
だけど、こんなのは。
こんなことになるなら。
鞘である私が、どうして貴方を追いつめるのか。
「カイ!」
サクラはベッドから降りた。
小悪魔達が騒ぎ立てる。
どうしたら良いかなんて、分からない。
だけど、おとなしくなんてしていられない。
カイへと駆け寄ろうとするサクラに、獣は一瞬たじろいだ。
が、すぐに雄叫びを上げ、カイへと牙を振り上げる。
サクラがカイに辿りつく。カイが駆け込んだサクラを胸元へと抱きこみ。
破魔の気は、カイに向けられていた牙を、かろうじて弾き飛ばした。
「…こんな時は大人しくしていてもらって構わんのだがな」
サクラを抱きよせながら、カイは呆れたように呟いた。
だって。
サクラの言葉は声にならなかった。
獣は、破魔の剣の気に圧され、一時は退いたようにも見えたが、再び、カイへと飛びかかる間を計り始めた。
カイは剣を構えはしたが、破魔の剣でなければ、目の前の魔は討てないことを確信していた。
これは、強い。いくら、研ぎ澄まされた剣でも、討つことはできないだろう。
魔獣が、大きく口を開けてカイへと牙を剥く。
カイはサクラを背に庇いながら、剣を魔獣の口の中へと突き立てた。
獣は、耳障りな悲鳴を上げたが、牙を納めることなくカイへとふりかざす。
その刹那。
白い風が、部屋を走った。
何か。
疾風を視線が追う。
白い影となったそれは、カイに向かう黒い塊に当たり、弾けた。
黒い魔獣はよろめき、白い影は…獣の姿で、カイの前にすっと立った。
その姿を、サクラは知っている。
一度だけ血を与えた主のない美しい使い魔。
白い獣は、カイと体勢を立て直した魔獣の合間に立つ。
カイを護るように。
しかし、服従しているようではない。
黒い魔に牙をむくも、カイにもまた、威嚇するように瞳をぎらつかせる。
「…見かねたか?」
カイが呟き。
「サクラはお前に預ける」
そして、まるで剣を持っているかのごとく、腕を構えた。
サクラの周りを覚えのある風が渦巻く。
そして、静まった空間に剣が煌めく。
カイが剣を手にするのと同時に、白い獣はサクラへと駆け寄った。
立ちすくむサクラの傍らに立ち、剣の庇護を無くした獲物に飛びつこうとする悪童を恫喝する。
魔に囲まれている。
白い魔獣に護られている。
サクラには、何も分からなかった。
視界にあるのは、ただ、カイのみ。
破魔の剣を初めて見る。その使い手を見るのも、また初めてだ。
軍神だと。
荒ぶる神だと。
その意味を知る。
カイは、剣を獣に向けた。
剣は自ら光を放つ。
目覚めさせられた刃にあるのは、歓喜か憤怒か。
獣は、破魔の気に圧されたように後ずさった。
「やはり…賢しいな」
ただ、向かってくる輩ではないのだ。怯えを知っている。
カイは自ら近づき獣を追い詰める。
後ずさった獣は、やがて退路を立たれ、前脚を高々と上げて、カイへと飛び掛かった。
大きく開かれた口には牙と、カイが突き立てた剣がある。
破魔の光に映し出されたそれらが、消える。
光が闇に飲まれる。
カイの姿が獣に隠される。
魔獣の激しい叫びが響き渡った。
そして、闇の中から光が生まれる。
二つ身に倒れる魔獣の向こうに、カイと剣がいた。
黒い獣がビクビクとひきつり…やがて、動かなくなる。
まったく聞こえなかった小さな獣たちの耳障りな声が、一気に部屋を埋め尽くした。
いったい、どれほどいるのか。
カイは、さらに剣を構えた。
しかし、小さな魔獣らは、一斉に四方へと散り始める。
破られた窓から、一目散に次々と姿を消していく。
やがて、静かな夜が訪れた。
「サクラ」
呼ばれる。
サクラは迷わずカイの胸元へと、身を滑り込ませた。
「汚れる」
首を振る。
魔獣の血がなんだというのだ。
それが、カイを抱きしめない理由になろう筈がない。
「カイ様!」
ホタルを伴って、シキが現れる。
シキの手に握られた剣は、魔獣の血で塗れていた。
「遅い。もう終わった…ひとまず、だがな」
カイは、サクラを抱きしめた。
シキは倒れている巨大な骸に目をやりつつ、ホタルの腕を掴んだままカイに近づいた。
「無茶言わないで下さい。そこら中、魔獣だらけだったんですから。屋敷中、めちゃくちゃですよ」
ホタルは魔獣を見て、そして、カイに抱かれているサクラを見た。
サクラはカイの腕の中で、大丈夫だと頷いた。
「カイ様、屋敷内には魔獣は残っていないようです」
シキの背後から、タキが姿を見せる。
日頃の清廉とした姿とはかけ離れた、血塗れの戦にあるべき姿だった。
「…例の魔獣でしょうか。サラの…」
「…分からん…見知った者に確認させろ」そう告げると、タキはすぐに踵を返し、部屋を出て行った。続けて、シキに「このあたりの狩人に伝えろ」命じる。
「ここから去って行った奴らが、しばらくは暴れるだろう…根こそぎ討ち払え」
「了解です。俺も、このまま着替えて出ますよ…奥方様、準備にホタルをお借りしても?」
この状況では、どれだけ動ける侍女がいるかも分からないだろう。
サクラは頷き、ホタルを見た。
ホタルは、サクラがカイに護られていることを確認するように見つめてから、シキについて部屋を出て行った。
それを見送り、誰もいなくなった部屋で、サクラはカイの手に触れた。
いまだ、剣を握り続けている手。
まだ、終わらないのだ。
言葉もなく抱かれていると、アイリが蒼い顔で訪れた。
「…アイリ…悪かったな。やはり、俺はここに来るべきではなかった」
アイリは首を振った。そして「…別に、カイ様が魔獣を引き寄せた訳ではないでしょ」微笑んだ。
「貴方がいなかったら…もっと、多くの犠牲者が出たわ」
アイリが手に持っていた衣類を、カイに渡す。
「…タキが準備しろというから…本当はお渡しするのは嫌なんだけど」
それは、漆黒の軍衣。
カイはサクラを離した。剣をサクラに渡す。
サクラは初めて剣を手にした。ずっしりと重いそれを、カイは軽々と振るうのだ。
「…カイ様」
血に濡れた夜着を脱ぎ捨て、黒衣を身につける。
「行かれるのですか?」
カイは頷いた。
剣は爛々と輝き、サクラの元に戻る気配はない。
剣をカイへと手渡すと、サクラは黙ってカイの着替えに手を貸した。
血で汚れた体を清めることもなく。
「…行ってくる」
まだ、傷も癒えていないのに。
それでも、行くなとは言えないのだ。
この人は、眠りから目覚めた軍神なのだから。
「サクラ」
腕を伸ばし、カイの首へと回した。
「行ってらっしやいませ…お気をつけて」
ぐっと抱きしめられて、口づけを受ける。
「…怪我なんてしないで…」
離れた唇の隙間から、わがままにも似た願いを囁く。
「サクラ」
もう一度触れる口付け。
「…私を…妻にしてくれるのでしょう?」
カイは微笑んだ。
「戻ったら…今度は逃がさん」
名残惜しげにサクラを離し、カイは少し離れて座っている白い獣を呼んだ。
「タオ」
白い獣は視線をカイへと向けた。
「剣が俺の元にある間なら、サクラの側にいられるだろう」
驚いてサクラがカイを見上げた。
カイがサクラに「サラが付けた…あれの名はタオという」
そう教えた。
「お前が欲しいようだが譲ってはやれん」
カイはサクラの背中を押し、囁いた。
「俺がいない間だけだが…傍においてやれ」
そう言い残して、カイは部屋を出ていく。
サクラは背中を見送った。「…行ってらっしゃいませ」呟くと、慰めるようにタオが傍らに歩み寄り、ぺろりとサクラの手のひらをなめた。
「…タオ…というのね」
サクラは跪き、白い獣を抱きしめた。
「…カイ様を助けてくれてありがとう」
タオは不満げに鼻を鳴らす。
「私を護ってくれてありがとう」
微笑んで、その目元に口付けた。
白い獣は、もっと褒めてくれというように、サクラへと頭を押し付けた。