23
サクラが部屋に入ると、カイは手元の書類から顔を上げた。
「おはようございます」
シキとの会話のせいで、いつもに増してカイを見ることが恥ずかしい。
カイは低い挨拶を返すと、ずっと見ていたらしい書類に再び視線を戻した。
邪魔をしないようにと、サクラはカイが座るソファを横切り、少し離れた窓辺に近づいた。窓は開けられていて、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
窓枠に手を添えて、外を眺めた。
朝特有の冴え冴えとした空気が満ちている。見上げれば、空は高く青い。
夏はほとんど雨が降らないというこの国は、今日も一日良い天気となりそうだった。
しかしながら、サクラはその清々しさを満喫することはできなかった。そっと窺うカイの気配は、険しく張り詰めている。書類に落とされている瞳は、苛つきと憤りとを含んで色濃く沈み込んでいた。
それが、手元の紙切れに起因していることは、安易に知れた。多分、先日逃した魔獣の件だろう。
あれから、この屋敷には、引っ切り無しに狩人や兵士が出入りしている。タキやシキも慌ただしい。
サクラはカイから空へと視線を移した。
どこにいても。どんな状況にあっても。
カイは軍神なのか。その体と心が、完全に解き放たれることは、あり得ないのだろうか。
カイは書類を読み終えて、窓辺に立つサクラへと視線を投げた。カイが見ていることに気がつかない妻は、自然体で窓から外を眺めている。
長い長い髪が、風に揺られて、カイを招くようだ。
歩み寄ろうかと思ったが考え直し、もう少し、と見つめる。
薄手のドレスから見える肌は、艶やかな白。やわらかな布地が隠すようにしながらも、映し出すのはしなやかな肢体。
表情豊かな緑の瞳はとても正直で、カイにサクラの感情を告げる。
体調の良さを示す色付く頬と唇が、鮮やかだった。
確かに、目を見張る華やかさがある訳ではない。
だが、本人が卑下することなどどこもない。年頃の娘相応の美しさがそこにあった。
もっとも、カイにとっては、それさえどうでもいいことだ。サクラが愛しいということに、それは何ら関係がないように思える。
何にも変え難い存在なのだ。
自身で戸惑うほどに。
不思議なもので、こうして眺めている分には、激しい欲望とはかけ離れた穏やかな気持ちで満たされるのに。
ひとたび、欲すれば、それは際限なく膨れて暴走する。
サクラが、カイに戸惑い、時折怯えに近い感情をも抱いていることは分かっている。
だが、同じように、カイが自分自身に戸惑うことがあるとは、思ってもいないだろう。
サクラが愛しい。それには何ら迷いはない。
ただ。
ふと、サクラがカイを見た。
「終わりましたか?」
尋ねてくる。
「少し前にな」答えると、頬が少し色づく。また、カイを誘う。
「お声をかけて下さればいいのに…」
呟きに「お前を見ていた」正直に答えながら、忌々しい書類を放りサクラに手を差し延べる。
サクラの頬が更に色を増す。
「来い」
窓辺から離れようとしない娘に命じる。
自ら近づくことは簡単だ。サクラは逃げない。だが、サクラから近づいて欲しい、とカイは待った。
サクラは、カイを見ないまま近づいてきた。届く距離に着くと、再び手を差し伸べる。
迷いを見せながらも乗せられる手を包み、引き寄せて足元のラグに座らせた。
本当は抱きしめてしまいたいのだ。だが、そうすれば…また、欲しくなる。穏やかな愛しさは一転し、激情だけがカイを巡るだろう。
それに、カイは戸惑うのだ。
「魔獣は見つかったのですか?」
カイとの距離が、サクラを落ち着かせたのか。
珍しくサクラから問いかけてくる。
「いや」
答えると、控えめな安堵が伝わってきた。
「安心したか?」
先ほどまでは発見できないことはカイを苛つかせていたのだが。
サクラのその安堵は、どうしてかカイには不快ではない。
カイの傷を思っての純粋な祈りは、カイが忘れていた自分への執着を思い出させる。
「もう少し…お休みになって頂きたいもの」
サクラは俯いたまま呟いた。
「医者のいう通り、おとなしくしているが?」
サクラは、首を振った。そして、顔を上げた。
「剣は私の中で眠っているのに…」
サクラの手は、勇気を振り絞るかのようにラグの上で、拳を作っていた。
「貴方は少しも休まれていない…体はこうしていても…まるで、今も剣を持っているみたいだもの」
サクラの言葉は思いがけず、カイを鋭く刺した。
確かに。
剣を手にしてから、常に戦いに身を置いてきた。戦場から戻っても、軍神であり皇子であることを求められた。そうでなければ、世界は今も混沌とした血なまぐささに満ちていただろう。
だが、今は。
確かに時は変わったのだのだろう。
剣は常に晒されている必要はなくなりつつある。むしろ、それは新たな火種となりかねない危うささえ、持っているのかもしれない。
剣は、時を察したのだろうか。
だから、サクラを選んだのだろうか。
刃は納められることがあっても良い。安穏とした眠りに就くことが許されると。
そう、あの煌めく半身は判じて、サクラを求めたのだろうか。
だとしたら。
「剣が私の中で眠る時は、カイ様も少しでも、お休みになることができればいいのに」
サクラの呟きに、カイは衝動的に足元の体を抱きしめた。
「…っカイ様」
驚いて、逃げようとする身体を必要以上の力で捉える。
「サクラ」
カイはサクラの顎を持ち上げ、視線を合わせた。
怯えたような瞳は、しかし、カイを見つめる。
「お前次第だ」呟く。
サクラだけだ。他の誰でもない。
「お前が…お前だけが、俺を穏やかな時に導く」
サクラは、抗いを止めた。
緑の瞳が揺れて…慎ましく、華奢な手のひらが、カイの背を抱く。
「本当に?」
いつかの…正気がなかった時のように、だが、今は確かな意思を持って胸元に身体が寄せられる。
カイの中で、穏やかさが姿を失い、荒々しいそれが現れる。
「もっとも…今は安穏ともしてられんな」
戦とは違う、切なく甘く凶暴な欲望が、カイから穏やかさを奪っていく。
「カイ様?」
意味が分からないのか。
顔を上げて視線で問う妻の耳元で囁く。
「…サクラ…」
掠れる声は自分でも呆れるほどの欲に塗れていた。
大人しく背中を抱いていた手の平を滑らす。サクラがはっと身を引こうとする動きを、むしろ利用して、ラグへと倒す。
体を被せるように重ねると、下で小さな体は自らを護るように、なお小さく丸くなった。
「サクラ」
名前を呼ぶと消えそうな声が「だめです」カイを制止する。
聞こえない振りをした。
アイリの露骨な牽制に思えるドレスは、隙なく肌を隠している。
だが、そんなものが、何の障害になるだろうか。
ドレスを紐を解き、ボタンを外す。夢でもカイを誘う肌が、現実の温もりで現れ、煽り立ててくる。
サクラは、両腕で自分自身を抱いている。その腕をカイが掴むと、首を振って、小さく拒絶した。
「サクラ」
力で従わせるのはたやすい。
だが、それはしたくない。
「だって…お医者様が…」
小さな声が、だが、はっきりと告げる。
「大丈夫だ」
また、首を振る。
「だめです」
ギュッと体を小さく縮め、「…お怪我が…」言い募る。
気がつけば、目尻に涙が溜まっている。
カイは、涙を唇で拭った。
「嫌か?」
嫌だと言われても、離す気はなかった。むしろ、その言葉がサクラから出れば、カイは強引にことを進めたかもしれない。
だが。
「…嫌…ではないです」
サクラはさらに丸まり、消え入りそうな風情で答えた。
「どうすればいいですか?」
そして、涙の溜まった瞳でカイにそう問い掛けた。
「…嫌ではないです…でも、お怪我に障ったら…困ります」
カイは苦笑いを浮かべずにはいられなかった。その笑いは声になる。
「カイ様?」
カイの様子に驚いたようなサクラから、体を離し隣にゴロリと横たわった。
そして、サクラを引き上げて、胸元に半身を乗せる。
「…サクラ…それでは誘っているのと変わらない」
そう、拒絶ではない。
まるで誘惑のような…なんて甘い戒め方をしてくれるのか。
「誘ってません!」
サクラの頬が、朱を敷く。
だが、言ってから、何か思うところがあるのか。
「…誘ってますか?」
心細げに尋ねる妻に、気がつく。
「シキあたりに何か言われたか?」
正直な瞳は、カイから逸れて、俯く。
「言われたな」
カイはサクラの顔を上げさせた。
「何を言われた?」
問うと、サクラはカイの胸元に顔を隠すようにして呟いた。
「秘密です」
その仕草が愛らしい。その妻と秘密を共有するらしい、昔馴染みの側近に、思いがけない黒い感情を覚える。
だが。
「まあ、いい」
今日のサクラは、カイに一生懸命何かを、なるだけたくさんのことを伝えようとしている。
それは、在るだけだったサクラが一歩進み始めたということだ。
口の悪い側近が何を言ったかは知ることはできなさそうだが、それがサクラの背を押したなら、それも良しとしよう。
「カイ様?」
サクラを抱いていると、再び穏やかな気持ちが訪れる。それは、カイ自身が驚いたことに、眠気を伴っている。
サクラが、身を起こした。
カイは座って見下ろしてくる、まだ手に入らない妻の膝に頭を乗せる。
びっくりと目を見開いたサクラに対して、カイは瞳を伏せた。
「少し眠る」
今なら、心地好い眠りに就けそうだ。
「…お休みになるならベッドに…」
その言葉に、また笑いが零れる。
「お前とベッドに入って、俺がおとなしく眠ると思うか?」
瞳を閉じたままだから、サクラの顔は見えない。
だが、きっと紅くなり、眉をよせている。
「…何も言えないではないですか」
呟く恨み言。
カイは、笑う。
だが、もうすぐに眠りは、カイを訪れるだろう。
「お前は眠れているか?」
一時の体調の悪さを思い、尋ねると「はい」との返事。
「…眠れないのは俺だけか」
夜になると。
一人になると。
痛まないはずの、傷が痛む。
「痛むのですか?」
カイの手が胸元に当てられるのを見て、サクラが心配そうに手を重ねてくる。
「いや…傷は痛まない」
そう違う。疼くのは、もっと奥。
ない温もりを求めて、心が痛いと訴えるのだ。
その痛みに、眠りは妨げられる。
「お前は…俺にどれだけのものを与えるのだろうな」
失った筈の痛みさえ。
サクラがカイに与えるのだ。
程なく聞こえる穏やかな答える呼吸が、カイの眠りを伝えてきた。瞳がまぶたに隠された顔は、いつもよりいくらか幼く見える。
サクラはそっとカイの髪に触れた。起きる気配はない。
いつだったか、カイは言った。
戦いは一生かもしれないと。
あの時、サクラはそれに脅えただけだったけど。
今は思うのだ。
こうして、カイが穏やかな時間を過ごすことが出来るなら。
使い手が、その研ぎ澄まされた精神と体を、少しでも解放することができるなら。
それだけで。
それだけで、ここにいる意味がある。
「おやすみなさいませ」
呟いた。
いずれ、また軍神は戦いに赴くだろう。
でも、今は。
もう少し。