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サクラが部屋に入ると、カイは手元の書類から顔を上げた。

「おはようございます」

シキとの会話のせいで、いつもに増してカイを見ることが恥ずかしい。

カイは低い挨拶を返すと、ずっと見ていたらしい書類に再び視線を戻した。

邪魔をしないようにと、サクラはカイが座るソファを横切り、少し離れた窓辺に近づいた。窓は開けられていて、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

窓枠に手を添えて、外を眺めた。

朝特有の冴え冴えとした空気が満ちている。見上げれば、空は高く青い。

夏はほとんど雨が降らないというこの国は、今日も一日良い天気となりそうだった。

しかしながら、サクラはその清々しさを満喫することはできなかった。そっと窺うカイの気配は、険しく張り詰めている。書類に落とされている瞳は、苛つきと憤りとを含んで色濃く沈み込んでいた。

それが、手元の紙切れに起因していることは、安易に知れた。多分、先日逃した魔獣の件だろう。

あれから、この屋敷には、引っ切り無しに狩人や兵士が出入りしている。タキやシキも慌ただしい。

サクラはカイから空へと視線を移した。

どこにいても。どんな状況にあっても。

カイは軍神なのか。その体と心が、完全に解き放たれることは、あり得ないのだろうか。



カイは書類を読み終えて、窓辺に立つサクラへと視線を投げた。カイが見ていることに気がつかない妻は、自然体で窓から外を眺めている。

長い長い髪が、風に揺られて、カイを招くようだ。

歩み寄ろうかと思ったが考え直し、もう少し、と見つめる。

薄手のドレスから見える肌は、艶やかな白。やわらかな布地が隠すようにしながらも、映し出すのはしなやかな肢体。

表情豊かな緑の瞳はとても正直で、カイにサクラの感情を告げる。

体調の良さを示す色付く頬と唇が、鮮やかだった。

確かに、目を見張る華やかさがある訳ではない。

だが、本人が卑下することなどどこもない。年頃の娘相応の美しさがそこにあった。

もっとも、カイにとっては、それさえどうでもいいことだ。サクラが愛しいということに、それは何ら関係がないように思える。

何にも変え難い存在なのだ。

自身で戸惑うほどに。

不思議なもので、こうして眺めている分には、激しい欲望とはかけ離れた穏やかな気持ちで満たされるのに。

ひとたび、欲すれば、それは際限なく膨れて暴走する。

サクラが、カイに戸惑い、時折怯えに近い感情をも抱いていることは分かっている。

だが、同じように、カイが自分自身に戸惑うことがあるとは、思ってもいないだろう。

サクラが愛しい。それには何ら迷いはない。

ただ。

ふと、サクラがカイを見た。

「終わりましたか?」

尋ねてくる。

「少し前にな」答えると、頬が少し色づく。また、カイを誘う。

「お声をかけて下さればいいのに…」

呟きに「お前を見ていた」正直に答えながら、忌々しい書類を放りサクラに手を差し延べる。

サクラの頬が更に色を増す。

「来い」

窓辺から離れようとしない娘に命じる。

自ら近づくことは簡単だ。サクラは逃げない。だが、サクラから近づいて欲しい、とカイは待った。

サクラは、カイを見ないまま近づいてきた。届く距離に着くと、再び手を差し伸べる。

迷いを見せながらも乗せられる手を包み、引き寄せて足元のラグに座らせた。

本当は抱きしめてしまいたいのだ。だが、そうすれば…また、欲しくなる。穏やかな愛しさは一転し、激情だけがカイを巡るだろう。

それに、カイは戸惑うのだ。

「魔獣は見つかったのですか?」

カイとの距離が、サクラを落ち着かせたのか。

珍しくサクラから問いかけてくる。

「いや」

答えると、控えめな安堵が伝わってきた。

「安心したか?」

先ほどまでは発見できないことはカイを苛つかせていたのだが。

サクラのその安堵は、どうしてかカイには不快ではない。

カイの傷を思っての純粋な祈りは、カイが忘れていた自分への執着を思い出させる。

「もう少し…お休みになって頂きたいもの」

サクラは俯いたまま呟いた。

「医者のいう通り、おとなしくしているが?」

サクラは、首を振った。そして、顔を上げた。

「剣は私の中で眠っているのに…」

サクラの手は、勇気を振り絞るかのようにラグの上で、拳を作っていた。

「貴方は少しも休まれていない…体はこうしていても…まるで、今も剣を持っているみたいだもの」

サクラの言葉は思いがけず、カイを鋭く刺した。

確かに。

剣を手にしてから、常に戦いに身を置いてきた。戦場から戻っても、軍神であり皇子であることを求められた。そうでなければ、世界は今も混沌とした血なまぐささに満ちていただろう。

だが、今は。

確かに時は変わったのだのだろう。

剣は常に晒されている必要はなくなりつつある。むしろ、それは新たな火種となりかねない危うささえ、持っているのかもしれない。

剣は、時を察したのだろうか。

だから、サクラを選んだのだろうか。

刃は納められることがあっても良い。安穏とした眠りに就くことが許されると。

そう、あの煌めく半身は判じて、サクラを求めたのだろうか。

だとしたら。

「剣が私の中で眠る時は、カイ様も少しでも、お休みになることができればいいのに」

サクラの呟きに、カイは衝動的に足元の体を抱きしめた。

「…っカイ様」

驚いて、逃げようとする身体を必要以上の力で捉える。

「サクラ」

カイはサクラの顎を持ち上げ、視線を合わせた。

怯えたような瞳は、しかし、カイを見つめる。

「お前次第だ」呟く。

サクラだけだ。他の誰でもない。

「お前が…お前だけが、俺を穏やかな時に導く」

サクラは、抗いを止めた。

緑の瞳が揺れて…慎ましく、華奢な手のひらが、カイの背を抱く。

「本当に?」

いつかの…正気がなかった時のように、だが、今は確かな意思を持って胸元に身体が寄せられる。

カイの中で、穏やかさが姿を失い、荒々しいそれが現れる。

「もっとも…今は安穏ともしてられんな」

戦とは違う、切なく甘く凶暴な欲望が、カイから穏やかさを奪っていく。

「カイ様?」

意味が分からないのか。

顔を上げて視線で問う妻の耳元で囁く。

「…サクラ…」

掠れる声は自分でも呆れるほどの欲に塗れていた。

大人しく背中を抱いていた手の平を滑らす。サクラがはっと身を引こうとする動きを、むしろ利用して、ラグへと倒す。

体を被せるように重ねると、下で小さな体は自らを護るように、なお小さく丸くなった。

「サクラ」

名前を呼ぶと消えそうな声が「だめです」カイを制止する。

聞こえない振りをした。

アイリの露骨な牽制に思えるドレスは、隙なく肌を隠している。

だが、そんなものが、何の障害になるだろうか。

ドレスを紐を解き、ボタンを外す。夢でもカイを誘う肌が、現実の温もりで現れ、煽り立ててくる。

サクラは、両腕で自分自身を抱いている。その腕をカイが掴むと、首を振って、小さく拒絶した。

「サクラ」

力で従わせるのはたやすい。

だが、それはしたくない。

「だって…お医者様が…」

小さな声が、だが、はっきりと告げる。

「大丈夫だ」

また、首を振る。

「だめです」

ギュッと体を小さく縮め、「…お怪我が…」言い募る。

気がつけば、目尻に涙が溜まっている。

カイは、涙を唇で拭った。

「嫌か?」

嫌だと言われても、離す気はなかった。むしろ、その言葉がサクラから出れば、カイは強引にことを進めたかもしれない。

だが。

「…嫌…ではないです」

サクラはさらに丸まり、消え入りそうな風情で答えた。

「どうすればいいですか?」

そして、涙の溜まった瞳でカイにそう問い掛けた。

「…嫌ではないです…でも、お怪我に障ったら…困ります」

カイは苦笑いを浮かべずにはいられなかった。その笑いは声になる。

「カイ様?」

カイの様子に驚いたようなサクラから、体を離し隣にゴロリと横たわった。

そして、サクラを引き上げて、胸元に半身を乗せる。

「…サクラ…それでは誘っているのと変わらない」

そう、拒絶ではない。

まるで誘惑のような…なんて甘い戒め方をしてくれるのか。

「誘ってません!」

サクラの頬が、朱を敷く。

だが、言ってから、何か思うところがあるのか。

「…誘ってますか?」

心細げに尋ねる妻に、気がつく。

「シキあたりに何か言われたか?」

正直な瞳は、カイから逸れて、俯く。

「言われたな」

カイはサクラの顔を上げさせた。

「何を言われた?」

問うと、サクラはカイの胸元に顔を隠すようにして呟いた。

「秘密です」

その仕草が愛らしい。その妻と秘密を共有するらしい、昔馴染みの側近に、思いがけない黒い感情を覚える。

だが。

「まあ、いい」

今日のサクラは、カイに一生懸命何かを、なるだけたくさんのことを伝えようとしている。

それは、在るだけだったサクラが一歩進み始めたということだ。

口の悪い側近が何を言ったかは知ることはできなさそうだが、それがサクラの背を押したなら、それも良しとしよう。

「カイ様?」

サクラを抱いていると、再び穏やかな気持ちが訪れる。それは、カイ自身が驚いたことに、眠気を伴っている。

サクラが、身を起こした。

カイは座って見下ろしてくる、まだ手に入らない妻の膝に頭を乗せる。

びっくりと目を見開いたサクラに対して、カイは瞳を伏せた。

「少し眠る」

今なら、心地好い眠りに就けそうだ。

「…お休みになるならベッドに…」

その言葉に、また笑いが零れる。

「お前とベッドに入って、俺がおとなしく眠ると思うか?」

瞳を閉じたままだから、サクラの顔は見えない。

だが、きっと紅くなり、眉をよせている。

「…何も言えないではないですか」

呟く恨み言。

カイは、笑う。

だが、もうすぐに眠りは、カイを訪れるだろう。

「お前は眠れているか?」

一時の体調の悪さを思い、尋ねると「はい」との返事。

「…眠れないのは俺だけか」

夜になると。

一人になると。

痛まないはずの、傷が痛む。

「痛むのですか?」

カイの手が胸元に当てられるのを見て、サクラが心配そうに手を重ねてくる。

「いや…傷は痛まない」

そう違う。疼くのは、もっと奥。

ない温もりを求めて、心が痛いと訴えるのだ。

その痛みに、眠りは妨げられる。

「お前は…俺にどれだけのものを与えるのだろうな」

失った筈の痛みさえ。

サクラがカイに与えるのだ。



程なく聞こえる穏やかな答える呼吸が、カイの眠りを伝えてきた。瞳がまぶたに隠された顔は、いつもよりいくらか幼く見える。

サクラはそっとカイの髪に触れた。起きる気配はない。

いつだったか、カイは言った。

戦いは一生かもしれないと。

あの時、サクラはそれに脅えただけだったけど。

今は思うのだ。

こうして、カイが穏やかな時間を過ごすことが出来るなら。

使い手が、その研ぎ澄まされた精神と体を、少しでも解放することができるなら。

それだけで。

それだけで、ここにいる意味がある。

「おやすみなさいませ」

呟いた。

いずれ、また軍神は戦いに赴くだろう。

でも、今は。

もう少し。

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