21
軍神負傷の知らせを受けて駆け付けた医師は、呆れたように「久しぶりに顔を見せて下されたと思えばこれですか」
零しながら部屋へと入って行った。
処置を施す間、サクラ達に別室で待つようにと指示したタキと、シキがそれに続いた。
それはどれほど前のことだったのだろう。
アイリとホタルに、付き添われ不安な時間を過ごしているところへ、医者はひょっこりと顔を出し「奥方様、こちらへ」とサクラを手招きした。
部屋に入ると、入れ替わりでタキとシキが、サクラに一礼して出て行った。
カイはソファにかけていた。手当は終わっているようで、真新しい包帯が、体に巻かれている。
老医者は、サクラをカイの近くに連れて行くと、徐にカイの背中を指差した。
「これは5つの時、木から落ちた傷です…まあ、殿下はやんちゃでいらしたから」
サクラが返事に困っていると、今度はサクラの手を引き、カイの前に連れて行く。
「これとこれは、剣の練習中に付いたものです…今でこそ軍神と崇められておりますが…小さな頃は、このようなお怪我は日常でしたな」と、今度はカイの肩と胸を指差した。それから、と医師は幾つかの傷を、カイがいかに腕白だったかを語りながら説明してくれた。
カイは憮然としながらも、医師が語るのを止めなかった。
普段ならば、そんな話は楽しいかもしれない。でも、今のサクラには、そんな余裕はない。
「大丈夫ですよ、奥方様」
医者は、サクラに微笑みかけた。「こちらの傷も、いずれ他の傷と同じように治って小さくなります」
確かに、どの傷もうっすらと肌に跡があるだけで、痛々しささえない。
医者が、サクラに気を遣って話してくれていたことに気がつき、小さな声で礼を述べる。
「今回の傷は、さほど深くはございません」
断末魔の報復は思ったほど、カイに痛手を与えなかったのだ。サクラはほっとする。
「ただ、魔獣による傷は、毒気が強く治りが遅い…生憎、私はそちらの方は専門ではありませんが…ただ、聞けば、破魔の剣は奥方様の内にあるとか…ならば、なるべくカイ様のお側においで下さい。破魔の気が魔をはらいましょう」
サクラは頷いた。
そんなことならば、いくらでも。
「他には何か気をつけることはございますか?」
尋ねると、医師は「そうですな」と少し考えた。そして、「安静にして頂くのはもちろんですが」と、言いながら、思いついたと手を叩いた。
「奥方様のお体がせっかくよくおなりだが、今しばらくはお控えなさるべきでしょうな」
それはほとんどカイに向けられているようだった。
サクラは、何のことか分からなくて首を傾げて、医師を見つめる。
「こちらの御方は痛みを感じられないせいか、無茶をされがちですので」
痛みを感じない?
よく分からないことばかり続ける医師に、その意味を問うこともできず、頷いていいのか迷っているとカイが「分かった」と答えた。
「本当に分かっておいでで?」
医師が、疑いの眼差しでカイを見た。
「…分かったと言っている」
カイはため息混じりで答えた。
「ならば、結構。私は失礼しましょう。あ、奥方様、お見送りは不要でございます。殿下のお側に」
やけに慌ただしく、医者が出ていく。
結局、何を控えたら良いのか分からないまま、サクラはカイへと視線を向けた。
カイはサクラを眺めている。
「殿下、控えるとは」
カイは「気にするな」と、短い言葉で、それ以上を許さなかった。
サクラは腑に落ちないものを抱えながらも「痛くはないのですか?」話題を変えた。
キリがそう言っていた。
痛みを感じないなどということがあるのだろうか。
「痛みの感覚は、もう随分前からないな…どんなものだったかも覚えていない」
軍神だから?
痛みは、戦いに無用だから?
それは、とても恐ろしい。そして哀しい。
「サクラ?」
呼ばれ、カイを見る。
真っ白な包帯は、漆黒の軍神にとっては、まるでシミのようだ。
それが自分のせいかと思うと、体がまた震え出す。
晒されたままのそれに耐え切れず、サクラはソファにかけられていたカイの上衣へと手を伸ばした。
カイがそのサクラの手を掴む。
それが、僅かな抗いも許さない力で引っ張られたと思うと、サクラはカイの胸に捕われた。
ソファに座るカイの脚に座らされ、真正面から見据えてくる瞳に射抜かれる。
「…っや」
逃げようと胸に手を付き、指先に触れた布に硬直する。
動きの止まったサクラを、容赦のない腕が更に引き寄せた。
「また、拒むか?」
静かな、だが、どこか熱を含む囁き。
そして、力づくの抱擁。
「あの時のように、離す気はない」
カイの言葉のとおり、サクラを抱く腕は力強く、少し身を引いたくらいでは離れることはできない。
サクラの瞳から、再び涙が溢れる。
一度流れ出たそれは、今まで堪えた分を補うように際限がない。
「泣くな」
涙を辿るように、指先が頬を滑る。首を振ってそれを嫌がってはみたが、密着した体では些細な反応に過ぎない。
「いや…離して…」
綴った言葉は、カイを動かさない。
カイは迷いの欠片さえ見せずに、サクラの腰を引き寄せ、己を跨ぐように座らせた。
「私は鞘なのでしょう?」
息が交わるほど近くにある双眸に問いかける。
カイはいつも気遣ってくれていた。とても優しかった。
けれど、それはサクラに対するものではなかった。あれは、全て剣の鞘へのものだった。
そうなのでしょう?
「だから、私はそうであろうとするのに」
気遣いを、優しさを、勘違いしないように。
貴方が他の女性を求めることさえ嘆くまいと。
己の身を弁え、ただ、そこにあろう。
貴方を決して好きにならないように。
そして、想いを認めてからも。
貴方の望む鞘でありたいと。
なのに。
「どうして、抱きしめるの?」
初めてその疑問を口にする。
何度となく、心で問うたそれ。
「俺が…そうしたいからだ」
カイの不遜な返事に首を振る。
「…いや…」
一度は逃がしてくれたではないか。
どうして、今は、こんなに力強いのか。
「…俺の勝手さは…今更だろう」
頬を伝う指が、顎を捕らえ、カイが顔を寄せてくる。
何をされるのかも分からないまま、首を振るうと力でそれを止められた。
「…っ…」
初めての口づけは、触れただけで離れていく。
「…どうして、こんなことするの?」
さらに問いを重ねた唇は、答えを貰えない。再び塞ごうと近づいてくるそれから逃げて逸らせば、真っ白な包帯がサクラを責めた。
「私など、放っておいて欲しいのに…どうして」
再び溢れる涙を止められない。
「どうして、こんな怪我までするの?」
カイはサクラの顔を上げさせた。
「サクラ」
剣が選んだ娘。
成り行き上、妻とした娘だ。
だが、それだけではない。
もう、迷いはないから。
「お前は…ただの鞘じゃない」
カイが、真っ直ぐにサクラを見つめる。
「俺はお前が愛しい」
サクラの一切の動きが止まる。涙も、呼吸さえ止まったかのように、身動き一つない。
心の中には疑問が一つ。
今、この人は何と言ったの?
「お前が大事だ」
再び、求められる口づけは、拒む理由を見つけることができなかった。
「…サクラ」
カイは、まとめられている髪を解いた。背中に流れるそれごと、強く抱き寄せ、その胸元に顔を埋めた。
「お前を失いたくない」
聞こえている言葉は…本物だろうか。
「サクラ」
名を呼ぶ声に、これが現実であることを切に祈りながら、サクラは初めてカイへと自らの腕を絡めた。
この国のドレスの頼りなさを、カイは知っている。
背中に回した指先に当たるボタンを外せば、呆気なく生地は、肩を滑り落ち、白い膨らみが僅かに零れる。
「…サクラ…」
初めて首へと回された腕はつかの間で、カイの指先が肌を辿り始めた途端、怯えたように縮こまる。
本人にどれほど意思があるのか。
カイから僅かでも遠ざかろうとする身体を、強い力で取り戻す。
「逃げるな」
命じる。
むしろ、それは願いなのに。
ただ、声は、従わせる強さを持ちながらも甘い。
「大人しくしていろ」
サクラの首筋から胸元に、唇を触れる。
今朝、まばゆいばかりの肌に、どれだけの忍耐を課して触れずにおいたか。
無自覚な誘惑を紗で覆い隠しながら、湧き上がる欲望と独占欲とに身を委ねてしまえと囁く声を必死で抑え込んだのだ。
「…あ…」
晒された肌と、次々に触れる指先と唇に、サクラが戸惑いの声を上げる。
カイの聞いたことのない、サクラの声。
「…っ殿下…やめ…」
なのに、気にいらない呼び名が耳に入るから。
わざと、乱暴に手の平を這わせた。
「カイ、だ」
咎める。
「…呼んでみろ」
また。
甘い命令を下せば。
「カイ様…あ!…」
カイの指が与える知らない感覚に、また、知らない声が一つ上がる。
「様はいらない」
サクラが、カイを見る。
迷うように揺れる瞳に、促すキスを降らす。
サクラの声が、ようやくそれを呼んだ。
「…カイ…っ…」
震える身体が、カイの腕に落ちてくる。
己の想いが明確な今、カイに迷いはない。
しかし。
「カイ様!カイ様!だめですよ!お医者様に禁止されてます!」
ドンドンと扉を叩く音に、腕の中で、陥落しかけていたサクラの体に僅かな意思が戻る。
「アイリ!」
明らかな焦りを含んで、咎めるタキの声。
カイは小さく舌打ちをした。
「…な…に…?」
サクラは、ボンヤリとした頭ながら、アイリの声を聞いた。
禁じられている?何を?
「あの医者か…余計なことを」
カイが珍しく毒づいた。
「カイ様!サクラ様はお預かりします!」
扉の向こうでアイリが喚いている。
「アイリ、止めなさい」
タキが止めることを期待してみたが、荒々しいノックが止む気配はない。
どうやら、タキでも止めることはできないようだ。
無遠慮に扉が開け放たれなかっただけでもマシか。
カイは諦めのため息を漏らして、扉に声をかけた。
「30分後に迎えに来い」
「…30分?」
扉の向こうの不審げな声。
腕の中のサクラは、まだ状況を把握できていないようだ。カイの胸元に、大人しく収まっている。
「それまでに落ち着かせる」
自分自身と妻を。
裏腹に、口付けながら。
「アイリ、来なさい」
なんとか納得したらしいアイリとタキの気配が扉の向こう側から消えていく。
「…アイリを使ったか…忌々しい医者だな」
カイの呟き。
「あ…控えるって…」と、少し晴れた思考でようやく医者の言葉に気づいたサクラは、俯いて顔を赤らめた。
カイは己の手で乱したサクラのドレスを、不本意ながらも今度は着せていく。
抑え切れない想いに、肌に口づけることを、自らに許しながら。
「…カイ様…離して下さい」
カイの指や唇が、触れるたびに震えて煽るくせに、そんなことを言う。
「様はなしだと言っている」
囁きは限りなく甘く咎める。
「…カイ…」
呼ぶ名に笑みが浮かぶ。
何度となく、己のものだと思い、口にもしてきた。
だが。
「お前は俺のものだ」
今は、その意味があまりに違う。
愛しい。
大切な…剣の鞘であり、妻である唯一の女だ。
「今更だもの」
サクラは、呟いた。
「いつだって、貴方は望み通りになさるのに」
それは、非難なのか。カイの耳には、ひどく心地よい。
「…しばらくは、望み通りとはいかないようだがな」
名残惜しげなキス。
深く求めるそれを、サクラは拙く追いすがるようにして受け入れた。
時間の感覚など、まったくなくなるほどの交わり。
だが、時間を告げる乱暴なノックと「開けます!」の声が、それを破った。
「待ちなさい、アイリ!」タキの声が聞こえた時、既に扉は開け放たれ、アイリが部屋に現れた。
カイは呆れながらも、サクラを抱き寄せた腕を解こうとしない。サクラはサクラで余韻が拭い切れず、ぐったりとそれに身を任せている。
その様子にアイリが立ち尽くしたまま真っ赤に頬を染め…頭を抱えたタキは、妻の手を引いて部屋を出て、静かに扉を閉じたのだった。