20
呼び出されたキリが、応急処置として巻かれている布地を慎重に剥がす。既に出血は納まってはいるものの、肩から胸にかけて真新しい3本の傷が、鮮明に描かれている。
タキは明らかに動揺している自分を分かりながら、押さえることができず声を荒げた。
「何を考えていらっしゃるのですか!?」
これは、負わなくても良かった傷だ。
破魔の剣を抜けば、一振りで断つことのできた魔獣に、この軍神は自らを差し出した。
あの娘を、護るために。
「鞘から、剣を抜かぬ使い手など、聞いたことがありません!」
タキは自問する。
見誤ったのか?
時は既に来ていたと。静観すべき時間は、過ぎ去っていたのだろうか。
鞘の娘は…葬っておくべきだったのか。
軍神を惑わす、あの存在。
「分かっている」
カイは、静かに答えた。
タキの言うことは、分かっている。
己の成すべきことも。己の存在の意味も。
十分すぎるほど、承知している。
だが、サクラが獣と対峙する場についた時の緊張感。
剣が、サクラを護っていると気がついた時の安堵感。
それだけが、あの時のカイを支配した。
「俺や連中では、信用できませんか?一応、あの場にいたんですがね」
シキが髪をかきながら、尋ねる。いつもに増して、ぞんざいな言葉になるのは、シキも、また動揺しているからに他ならない。
「違う」
違うのだ。シキが言うようなことではない。
何も考えられなかったのだ。
カイ自身が、一番動揺しているのかもしれない。
あの時、あの場での、自分の行動に。
ここにいる男達の中で、医者だけがいささかの困惑もないように、黙々と自分の仕事をこなしている。
「貴方にとって、あの方は妃なのですか?それとも鞘なのですか?」
タキは尋ねた。
何度となく、思い浮かべた疑問だ。
軍神にとって、あれは鞘なのか。それとも…違うのか。違うというならば、それは何なのか。
「鞘ならば、鞘としてお扱い下さい。つまらぬ責任感や義務感で命を落とされるようなことがあってはならないのです…世界が必要としているのは、剣を振るう貴方であって、鞘ではないのですから」
タキはカイを見据えた。
「私は場合によっては、奥方様を…いえ、サクラ様を亡き者に致す覚悟です」
キリが、ちらりとタキを見た。
シキは、ため息のような息をつく。
カイは、一分の乱れもないように見えた。
だが、自らを奮い立たせ、僅かにも視線を逸らさなかったタキは見つけた。
カイの微かな感情の乱れ。
迷い、苛立ち、そして一瞬の怒りさえ。
「カイ様、私は貴方が感傷で見誤る方ではないと信じております。ですが、自らを省みて、抑え切れない感情があることも存じております」
だから、タキに必要なのは、カイの一言だけなのだ。
「貴方は何を迷っているのですか」
カイがサクラが大事だと、失いたくないというならば。
鞘ではなく、あの娘を傍らにと望むなら。
我々に迷いはないのに。
何故、軍神は、あの娘を前に迷うのか。
「いったい何が、貴方を留まらせているのですか」
カイは小さく笑いを零した。
留まっている?
迷っているのか?
違う。
知らなかった。
まさか、剣を抜かせぬほど、惹かれているとは。
気がつかなかった。
欲望より先に、そこに切実な想いがあるとは。
だから、留まらざるを得なかったのだ。
鞘として扱いたかった訳ではない。あまりにサクラが、そうあろうと健気だったから。
ただ上辺を取り繕うため。
欲望を満たすため。
それだけのために、サクラを捕らえることが、できなかった。
「カイ様」
キリは、手当を終えて立ち上がった。白い毛の中から、カイを見る瞳が、少し呆れているようだ。子供のいたずらを嗜めるようなそれが、昔を思い出させた。
「貴方もサクラ様も、お互いに言うべき言葉を、たくさんお持ちのようだ」
カイは頷いた。
「そのようだ」
カイが告げることでサクラに与えるのは、新たな重荷ばかりだ。
だが、それでも。
欲しい。
手放すことは、考えられない。
ならば。
「我々にもですよ」
黙っていたシキが口を挟んだ。
「カイ様。一言お命じ下されば良いのです。それだけで…」
タキを遮る。
「タキ、今後もサクラへの手出しは一切無用だ」
カイは、そう口にした。
いつもの、圧倒的な威圧感を含む声で。
「あれは何にも替え難い…俺の命と思え」
タキは微笑んだ。
シキは肩を竦め。
二人はカイの前にひざまずくと、深々と頭を垂れた。
「しかし」
キリがボソッと呟いた。
「痛い思いをしなけれは学べないとは…軍神殿もまだまだ、ですな」