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19

屋敷を出た馬車は、のどかな田園を通り抜け、まもなく森の中へ入っていく。

アイリの気遣いなのだろう。

日よけの幌はあるものの、囲うことのない開放的な馬車には、心地好い風が通り抜ける。

道すがら、アイリは今では考えられない幼い頃の悪童ぶりを語り、それにシキは肩を竦め、苦笑いを浮かべながら相槌を入れていた。

「サクラ様は、どんなお子様でした?」

ずっと聞き役だったサクラに、アイリが尋ねる。

「どんな…って」

特に何もない。普通だと思う。

貴族の子女としての、ごくごく普通の毎日。

一通りの行儀作法や教養を教師から学び…嫌いで逃げ出したことは何度もあるけど…いずれは、どこか無難な貴族に嫁ぐのだろうと。

何も疑わずに、過ごしていた。

考えてみれば、姉は幼い頃から長子として厳しく躾られ、妹はいずれはどこか身分のある方に嫁ぐのだと、こちらもかなり厳しく育てられていた。

サクラの両親はサクラに無関心な訳ではなかったが、他の二人程束縛することはなかったから、かなり自由な身だったと思う。

当時は、それが切なかったり悔しかったりもしたが、今思えば恵まれていたのではないか。

姉のように眉間に皺を寄せることもなければ、妹のように微笑み一つに気を払うこともない。よく笑って、泣いて、怒って…普通の子供だった。

「普通でした」そう答えた。

だが、平凡であることに、今は不思議なくらい抵抗がない。

「私もそう思ってました。でもご存知でしたか?普通の貴族のご令嬢は木に登ったり、使い魔を可愛がったりしないんですよ」

ホタルのボヤキに、アイリが声を上げて笑い、シキも御者台で肩を震わせている。

「ホタルだって、一緒に遊んだでしょう」

その後は、いかに二人が家人の目を盗んでお転婆ぶりを発揮したかの言い合いになってしまった。

「私達に負けてないわ」

アイリが笑い転げながら、そう結論を述べた頃、ゆっくりと木陰の中を進んでいた馬車が止まった。

「少し行くと川があります。歩きませんか?」

アイリの嬉しい提案に、サクラは大きく頷いた。

シキが、馬の手綱を木に結びつけるのを待って、皆で歩きだす。コロコロと笑いながら歩く3人の娘たちに付いていきながら、シキがぼそりと「確かに役得といえば役得か」零す。

「でしょ?荒んだ生活とは離れてみるのも、たまには良いでしょう」

聞き逃さないアイリが、振り返って微笑む。

数分ほど歩いただろうか。

不意に、ホタルが足を止めた。

「ホタル?」気がついたシキが声をかけるが、ホタルは答えずに森の奥を見つめている。その表情は先ほどまでの穏やかなものから一変し、ひどく険しく不安げだ。

やがて、ホタルはシキに告げた。

「シキ様…何か来ます」

「何か?」

シキが問い、少し前で足を止めたアイリが首を傾げながら「何も聞こえないけど?」と尋ねる。

ホタルは、目を閉じ、耳を澄ましているようだ。

「人の足音…馬…それから…」

ホタルはサクラへと寄りそった。サクラはホタルの顔を見た。

ホタルの端正な顔に浮かぶ不安が更に深まる。

「獣の足音!」

声が緊張を含む。シキは、反射的に腰の剣に手をかけた。

「こんな真昼間にか?」

言いながら、シキは疑ってはいない。

ホタルの遠耳は確かだ。

ホタルが、さらに耳を澄ます。

サクラは静かにホタルを見守る。アイリは不思議そうに、だが、黙って状況を見ていた。

「…あちら!」

ホタルが指を差し、その反対の方向へとサクラとアイリを導く。

シキは、3人とホタルが指差した茂みとの間に立ち、剣を抜いた。

ホタルが告げて、ほんの数秒後。シキが、慣れたくはない不穏な気配を察知して、刃を構えた一瞬後。

茂みがざわめき、黒い影が飛び出してきた。

「最近の魔獣は節操がないな」

シキが呟いた。


魔獣。

一目見た途端、サクラの肌にざっと鳥肌が立った。

魔獣を目にするのは、もちろん初めてではない。小さな魔獣ならば、気が合えば意思の疎通もできた。

だが、こんなに大きく、邪悪な気を吐く魔獣は知らない。

馬よりも、まだ一回りほど大きいだろうか。

サクラの体ほどもありそうな四肢で、どっかりと大地を踏みしめ、荒い呼吸を繰り返している。その魔獣を中心に、小さな獣達が耳障りな甲高い声を上げて、跳びはねていた。

「サクラ様」

ホタルがサクラを庇うように抱きしめる。アイリが身を寄せた。

魔獣の瞳は、ぎらぎらと揺れる琥珀。それが、剣を向けるシキを通り越し、サクラを見つめている。

サクラの背筋に悪寒が走り、目眩を起こすほど血の気が引いていく。

その魔獣に対する恐怖もある。だが、それよりも、瞳に浮かぶ明らかな敵意。それが、サクラを怯えさせた。

こんな悪意に満ちた敵意を向けられたことはない。

サクラから、破魔の剣の気配を感じ取ったかのように。己を仕留めることができるのは目の前の剣ではなく、こちらの娘とでも言わんばかりに、あからさまな憎悪に満ちた視線が、サクラにのみ注がれる。

「…足音がすると言っていたな?」

シキが問う。ホタルが「はい」と答え「こちらに向かっています」と続けた。

小さな獣が、シキにじゃれ付くように飛び跳ね、それを剣が落としていく。

後から、後から。いったい、どれほどいるのか。

大きな魔獣だけが、変わらずサクラをねめつけている。

今にも、飛び掛かろうと脚を蹴りながら。大きな口を開いて、威嚇の咆哮を上げながら。

しかし、サクラ達から一定の距離を縮めることはなく。

「…近づいて来ないのね…」

アイリが不安げに呟いた。

どうしてか、魔獣は距離を縮められずにいるようだ。

苛立たしげに唸り、何度も飛び掛るような素振りを見せながらも、その距離は変わらない。

「…手負いだな。向かってるのは狩人か」

シキが剣を振るい続けながら確認する。

まだ、体液の生々しさを残した傷口が、黒い体毛の中から幾つも見えていた。

「来ます」

ホタルが呟いてまもなく、茂みから数人の男達が現れた。

いずれも、手には剣。姿からして、狩人だと知れる。

「シキ?」

男の一人が、シキの名を呼んだ。シキはまた1匹を薙ぎ落としながら、魔獣の背後に現れた男をちらりと見遣った。

「イトか…お前が手こずってるんじゃ、俺には荷が重いな」

イトは、驚くほど大きな剣を構えた男だった。額から頬にかけて大きな傷があり、それは閉じられたまぶたの上にも線を描いている。隻眼の男は、ニヤリと笑った。

「実はもう一頭いたりするんだな。今、別隊が追ってる」

そして、イトはシキの背後にいる女達に視線をやり、「いい身分だな」と呟いた。

黒い魔獣は、男達の会話など耳に入らぬように、爛々とサクラに視線を注ぎ続けている。

小さな魔獣だけが、背後に現れた男達へと飛び掛り、無残に切り落とされていく。まるで、何かに憑かれているかのように、剣に怯える気配もない。

「軍神にはあっちを追ってもらわねえと」

イトは、近づく獣達を実に無造作に、左右へと飛ばしながら話し続けた。

「そんなに大物なのか?」

答えるシキも、また、小さな悪童を切り裂く。

サクラは獣の視線に晒されながら、この状況が男達の日常なのだと気がついた。

一定の緊張感を持ちながら、そこには慣れ切った者の漫然とした姿がある。

これが日常。先ほどまでとは違った震えが、体を走る。

カイもまた…そうなのだ。

「でかいでかい。追わせてるが、絶対に手を出すなと言ってある」

「シキ様、馬が来ます!」

ホタルが会話に割り込むように告げた。

「馬?」

反応したのはイトだった。

「…見失ったのか」

しかし。

やがて、ひずめの音が聞こえ、皆が目にしたのは。

「カイ様!」

軍神。

現れたそれだけで、その場に満ちてた緊迫感が色濃くなり、同時にそこには一種の安堵感が混じる。

「イト!これは…」

カイの傍らにいたタキは馬に乗ったまま、サクラ達へと近づいてきた。

飛び掛ってくる小さな魔を、文人とは思えない剣の動きで捌きながら。

「大丈夫のようですね」

寄り添い合う妻と妃の無事を確認して、ほっとしたような息をついた。

カイは無言で馬から降り、勢い良く近づいてくる小さな獣を、剣を抜きざま払い切る。

手にあるのは、破魔の剣ではない。

それでも、鮮やかな剣先は群がる魔を、打ち落としていく。

これが、軍神なのだ。

サクラは耐え切れず目を伏せた。

これが、カイの生きてきた場所だ。これからも生きていく場所なのだ。

なんて…殺伐とした、寒い場所なのだろうか。

「…サクラ様」

ホタルの囁きに勇気を持って顔を上げれば。

カイは、サクラを見ていた。そこに、安堵の表情を見たのは気のせいだったのか。

不意に、黒い魔獣が咆哮を上げた。

一瞬たりともサクラから離れなかった黒い魔獣の視線が、現れた軍神を捕らえる。

そして。

まるで、そこにいるのが破魔の剣を持たぬ使い手だと知るかのように。

牙を剥き。

カイへと疾走する。

飛び掛かる獣を真正面から迎え入れ、カイの剣は、確実に獣の額を貫いた。

だが。

獣は苦痛の咆哮を上げながらも、その爪をカイに振り下ろす。

カイの胸から肩へと獣の爪が走り、鮮血が飛び散った。

カイは動じなかった。獣に深々と刺さった剣を抜くと、今度は振り落とす。

肉と骨の経たれる鈍い音が響き、2つとなった巨体がドサリと倒れた。

一瞬の静寂。

そして。

「カイ様!」

狩人達が駆け寄る。

心得のある者が、流れる血を止めようと施す。

「もう一頭は!?」

シキが叫ぶ。

「まだ、何も!」

誰かが答える。

サクラは、呆然とそれを見ていた。

何が起きたのか。まったく、分からなかった。

ただ、目の前にカイがいて、その身が紅く染まっている、という映像だけが頭に流れ込んでくる。

「サクラ」

カイが名を呼ぶ。

サクラは動けなかった。

軍神は、剣を手にしなかったのだ。破魔の剣は、いまだサクラの中で眠り続けている。

「…サクラ様?」

アイリがそっとサクラの背を押す。

「サクラ」

再度、呼ばれて。

不思議なほどの浮遊感の中を歩いて、カイへと近づいた。

そっと、恐々と。

手が傷を覆う布に触れる。

「大丈夫だ」

カイはそう言った。

サクラの瞳からハタハタと涙が零れ落ちた。

「サクラ」

カイは気がついた…初めてだ。

サクラが泣いたのは、少なくともカイに涙を見せたのは、これが初めてではないだろうか。

「ごめんなさい」

詫び?

何を?

「…剣…」

呟きに詫びの意味を知る。だが、違うのだ。

剣は…カイが呼ばなかったのだ。

サクラの元に留まるよう、カイがそう望んだ。

サクラの中に剣があれば、魔物はサクラに近づかないと、そう知っていたから。

「ごめんなさい」

再度、謝られて、なんとも言えない苦々しい思いで、カイはサクラの頭を引き寄せた。

「俺が剣を呼ばなかった。お前は何も悪くない」

サクラが首を横に振る。

蒼白の顔。かみ締めた唇。零れる涙。

初めて見る表情に、カイの息が詰まる。

「俺がそう望んだ」

囁くのに、また首を振るう。

だが、カイの言葉に反応している。

抱き寄せた体が温かい。胸にかかる呼吸は、サクラが生きている証だ。

「…お前が無事でよかった」

こぼれ落ちた本音は、カイをも驚かせた。

サクラには届いたのだろうか。

娘は、ただ静かに涙を落とし続けていた。

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