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 その日、朝からオードル家は、慌ただしさに包まれていた。

 走らないようにと躾けられている使用人たちは、早足で屋敷内を動き回り、今日のためのレシピを、一年も前から考えてきた料理人は、昨夜から厨房に篭っている。

 主人のオードル氏は、自慢の髭のチェックに余念なく、オードル夫人は今日の主役の装いに一点のミスも許さないと、かしずく侍女に目を光らせている。

 かつてない熱気がオードル家に漲るのをよそに、サクラは白い息を吐きながら領地内の林を、呑気に散歩していた。

「なんだか、大変ね。まあ、アオイのお披露目だから、しょうがないのかしら」

 サクラは肩に乗せた、小さな遣い魔に話しかけた。

 今日は、オードル家の三女であるアオイの16歳の誕生日だ。

 そして、その日は世の慣例どおり、彼女の正式なお披露目の日となる。

 世間では「オードルの天使」と呼ばれているアオイ・オードル。

 金色に程近い茶色の巻き髪と、翡翠のような緑の瞳。

 物静かで、常に謎めいた微笑みを浮かべている当代一と名高い美少女。

 未だお披露目を終えていない身でありながら、内々の求婚は、既に両手に余るという噂だ。

 今日のお披露目を無事終えた暁には、求婚者が屋敷の外にまで連なるだろうと、彼女を知る誰もが確信していた。

 しかも、今日は皆に気合を入れさせる、もう一つの理由がある。

 普通ならば一貴族の娘のお披露目に訪れるはずもない「高貴な方」とやらがいらっしゃるらしいのだ。

 そんな訳で、オードル家は秘蔵の三女のお披露目を失敗させてはならないと、殺気立ってさえいた。

「アシュ、今日は大人しくしててよ」

 淡いグレーのフワフワした毛並みを持つ愛らしい遣い魔は、そ知らぬ顔でぴょんぴょんと跳ねる。

 一見リスにも見えるこの子は、しかしながら炎を操る魔獣だ。

 体に見合った小さな炎を口から出すことしかできないが、ちょっとした悪戯をしでかすには十分な力。

 それを時折無邪気に放つ遣い魔に、普段は寛容な家人たちも、今日は絶対許してくれないだろう。

 軽やかなサクラの足取りに合わせて、左右の肩を行ったり来たりしていたアシュが、不意にぴたりと止まった。

 サクラも、ふとした気配に気づき、歩みを止める。

「なにか、いる?」

 チッとアシュが応える。

 傍らには、大きなシイの樹。

 常緑樹の大木は、この寒空の中でも青々とした枝を大きく広げている。

 サクラは周りを見回し、誰もいないことを確認すると、樹へと手をかけ、軽々とそれを登った。

「あ・・・」

 木の上にいたのは、純白の魔獣だった。

 紺碧の瞳が現れた闖入者をじっと見つめていた。

 なんてきれいな。

 少し大きな犬ぐらい。

 太い幹に寄りかかり、四足を枝にたらしている。

 そよそよと吹く風に、やわらかそうな毛並みがそよいでいた。

 きれいな、とてもきれいな魔獣だった。

 だが。

 後ろ足の一部分だけ、毛の色が変わっていた。

 血だった。

「ケガをしているのね」

 それだけでなく、随分と衰弱しているようだ。

 サクラは眉を寄せた。

「誰かの遣い魔かしら」

 もう一度、周りを見回してみるが、やはり人影はない。

 意を決して、手をケガに伸ばすと、白い魔獣は小さく唸って威嚇する。

「大丈夫。少し見るだけ」

 優しく声をかけると、魔獣は少しの間サクラを眺め、やがて牙を納めた。

 だが、まだ警戒心は解けず、ピリピリと毛が逆立っている。

 触れた感触で、骨に異常はなさそうなことに安心しながらも、魔獣の呼吸が短く苦しげであることに、サクラは胸が痛んだ。

 この魔獣には、邪悪さを感じないから。

 できれば、助けてあげたい。

「お前が望むなら、私の血をあげるけど」

 そっと、魔獣の耳の後ろを撫でる。

 その時、獣の穏やかな警戒心が、不意に研ぎ澄まされた。

 サクラはとっさに、白い魔獣を庇うように抱きしめて、身を潜めた。

「アシュ、静かにね」

 白い魔獣の背に乗っていたアシュが、サクラと魔獣の間にすっと身を隠す。

 少しして、馬に乗った2つの人影が見えてきた。

 やがて、声も聞こえてくる。

「…は、しくじったんだな?」

 低く通りの良い声だった。

 喧騒の中でも、きっと鮮明に届くだろうと容易に想像させる声だ。

「はい。残念ながらとり逃したようです。それから」

 答える声も男。

 口調から、この二人の主従関係が知れた。

「先程、サラのむくろが見つかったと、伝令がありました」

 サラという名前に、獣の耳がピクリと反応した。

 近づいてきた男達は、共にマントを身に付け、フードを被っている。

 だから、顔は見えない。

 声の感じから、揃って若者であろうことだけは想像ができたが、どんな表情でこの会話をしているのかは分からなかった。

「魔獣の探索は続けろ。見つけてもむやみに手は出すなと伝えておけ」

 淡々とした会話。

 多分、仲間であろう者が殉死したのだろうに。

 まったく悼む風でもない。

「御意」

 従者は短く答えた。

「ところで」

 と、話題を変える。

「オードル家のお嬢さま方の美しさといえば、広く知られておりますが、お聞き及びですか」

 ちょうどシイの樹にさしかかったあたり。

 サクラは、早く行ってしまって欲しいと思いつつ、男が振った会話に興味を持った。

 しかし、話しかけられた当の男は、さして興味もないようで返事さえなかった。

「ご長女のキキョウ様は、まるで女神のようだと評判ですよ。オードル家は男子がいませんからね。キキョウ様が家を継がれるのでしょうが、それに相応しい気高い方だそうです」

 サクラはキキョウの姿を思い出す。

 彼女はとても美しい。

 アオイが天使ならば、確かにキキョウは女神と呼ばれるに相応しい。

 そして、彼女は己がこの家を継いでいかねばならないという義務に耐えうる強かさも持っている。

「妻は、静かでおとなしければ良い」

 男は言った。

 ああ、それなら。

 サクラが思ったことを、従者が口にした。

「今日、お披露目の三女のアオイ様は、今年で16歳ですから、少々若過ぎるかとも思いますが、大層可憐な方だそうですよ。物静かでとても穏やかな方だと」

 そう、アオイは手先を使うことと、読書が趣味というとても愛らしい少女だ。

 自ら進んで何かをするというタイプではなく、また、与えられたものを拒むこともない。

 男の言う妻の条件にはぴったりだろう。

 なるほど、どうやら、この男性はアオイの求婚者ということになるらしい。

 しかし、この男の雰囲気はなんだろう。

 身分の高さは従者の態度から知れるが、それよりも。

 そこにいるだけで空気が張り詰める。

 側に寄る者を知らず跪かせ、従わせるような。

 サクラの感じる男への畏怖は、抱いている魔獣にはより感じられるのかもしれない。

 ピリピリと尖った神経を殺して、彼はなんとかじっとしているようだった。

 サクラが木の上で、早く男達が立ち去るのを待っていると、不意に男の乗る馬の足が止まった。

 そして、上を、サクラがいる方を見た。

 見つかった!?

 サクラは思わず獣を抱きしめながら、首をすくめた。

 だが、男は何もなかったかのように再び歩き始める。

 2人がかなり遠ざかってから、サクラは獣を抱いたまま話しかけた。

「お前のご主人様は亡くなってしまったのね」

 首から背中にかけて撫でながら、話しかける。

「後を追う? 自由になる? 回復したいなら血をあげる。大丈夫。私はお前の主にはなるつもりはないから」

 言って、サクラは持っていた懐剣で手の平を切った。

 チリとした痛みが走るが、構わず魔獣に差し出した。

 獣は少し手の平を眺め、やがて赤い舌を差し出し、サクラの提案を受け入れた。

「元気になったら、早くここを離れた方がいいわ。今日はたくさん人が集まるの。狩人もいるかもしれない」

 流れ出た血を魔獣を舐め終えるのを待って、まずはサクラが木から軽やかに降り立った。

 なんとなく、男達が去った方に目を向ける。

 先ほどの従者は主にオードル家の長女と三女のことを語ったが、次女についてはちらりとも口にしなかった。

 そして、男も尋ねなかった。

 まあ、そんなものだ。

 次女のサクラ・オードルは世間から忘れさられがちな存在なのだ。

「さて、と。帰って、着替えないとホタルに怒られるわ」

 アオイのお披露目に、サクラがいてもいなくても一緒だが、それでも出ないと後で両親と世話係の幼なじみがうるさい。

「アシュ、帰るわよ」

 サクラは、木の上で大きな獣と戯れる遣い魔の名を呼ぶ。

 降りてきそうにないのを感じて、しかたなく一人で屋敷へと向かった。



 かくしてアオイのお披露目は始まったのだが、サクラは早々にその場から逃避していた。

 アオイが姿を見せた時の場内のどよめきは、今日のために時間もお金もかけた両親を、そしてアオイを敬愛する家人達を大いに満足させたに違いない。

 一通りのアオイの紹介の後に始まった祝宴の騒がしさを避けて、サクラはバルコニーの隅に座り込んでいた。

 この時期の寒さは薄いドレス1枚の身には厳しいが、騒がしい場所に独りでいるよりマシだった。

 周りが騒がしければ、騒がしいだけ、サクラは孤独になる。

「アシュの馬鹿。なんでいないのよ」

 寂しさに、白い魔獣の元から戻ってこない遣い魔に恨み言の一つも言ってみたが、気分が晴れるはずもない。


 オードル家には、三人の娘がいる、という事実は、とても忘れられがちだ。

 なぜなら。

 美貌の長女と三女に挟まれた次女は、とても凡庸だった。

 見た目も中身も。

 何も秀でたところがない。

 極めて普通。

 あえて言うなら、小さな魔獣を手なずけることは得意だが、これも貴族の子女としての嗜みからは大きく外れている、というよりもおおっぴらにできることではない。

 普段はまだいいのだ。

 凡庸で小さな魔を従える娘を、家族や家人は、受け入れてくれる。

 ただ、こういう場所は、かなりサクラを不安定にさせる。

 両親の顔を立てるために、サクラを誘わなければいけない人も可哀相だし。

 これが次女だと紹介された相手の、自分を見る時の落胆の目にも疲れた。

 冷えた体を自分の腕で抱き、頭を伏せる。

 こういう場所はーーー哀れみや蔑みが横行するこういう場所は、普通で良いから、せめて前向きに行こうとするサクラを後ろ向きにさせるのだ。

 少しの間、自分で作った闇にいると、柔らかく暖かいものに包まれた。

 顔を上げれば、

「お前…」

 朝出会った白い獣が、サクラを抱くように座っていた。

 チッと小さく鳴いて、薄情な遣い魔もサクラの膝に戻ってくる。

「元気になった?」

 サクラの血により、多少回復したのか、今朝より体が大きくなっていた。

 本当はもっと大きいのだろう。

 この獣は、サクラの遣い魔になるような小物ではない。

「暖めてくれるの?」

 獣は、肯定するように、フワフワの尾でサクラの頬を撫でた。

「ありがとう。でも、ここにいてはダメ。中に人がいっぱいいるの」

 サクラは、立ち上がった。

「私なら大丈夫。もう中に戻るわ」

 サクラが言った時、背後で激しい悲鳴が上がった。

 続いて、叫び声が響く。

「魔獣が!魔獣があ!」

 振り返ると、恐怖に引き攣った顔の女性が、ヒステリックに悲鳴を上げ続けていた。

 その傍らで、男が中に向かって喚いている。

 聞き付けた人々が集まり始め、場内が騒然としているのは、見なくても分かった。

 サクラは白い獣に囁いた。

「逃げて。早く」

 だが、獣はサクラから離れない。

 サクラを主と認めた訳でもなさそうなのに。

「サクラ!?」

 人垣を割って、バルコニーに現れた姉が、サクラを呼ぶ。

「サクラ!サクラ!」

 姉の隣にいる母親が真っ青な顔でサクラを呼ぶ。

 誰もが、サクラが魔獣に襲われていると思っている。

 サクラが、違うと、この魔獣は害はないのだと、叫びかけた時。

 人混みがすっと開かれ、一人の男が、歩み出た。

 既に手には、刃を晒した剣が握られている。

 明るい場内を背にしながら、その剣は一際鋭く光輝いていた。

 白い獣が、男に牙を剥く。

 魔獣は、サクラのドレスをくわえて引っ張った。

 この獣は私がここから逃げたがっていたことに気づき、叶えようとしている。

 だが、この行動はまずい。

 動揺。悲鳴。喚き声。

 男が、剣を構えた。

 違う。

 襲われているのではない。

 この子は、何も悪いことなんてしていないのに。

「逃げなさい」

 サクラが魔獣に告げる。

 魔獣が、サクラから離れ。

 男が剣を魔獣に向けて放つ。

 勝手に体が動いていた。

 白い魔獣を庇うように、サクラは剣の前に。

 胸を貫く感触。

 不思議と痛みはない。

 ただ熱い。

「逃げて。お願い!」

 真っ白になる頭で、なんとか魔獣に伝える。

 立っていられなくて、膝を付く。

 必死に、後ろを見やれば。

 白い獣が走り去るのを、視界の隅に確認することができた。

 逃げて、なるべく遠くに。

 この男に捕まらないように、遠くに。

 意識が遠退く。

 一際、甲高い悲鳴が上がり、辺りがざわめく。

 突風が、自分の周りを渦巻いた。

 その風の向こうに、男を見た。

 そんな気がしただけかもしれない。

 もう何も感じない。

 見えない。

 サクラは意識を手放した。



 一人の娘が倒れている。

 剣を胸に受けた瞬間を人々は見た。

 誰もがその死を覚悟した。

 瞬間、娘の体は風の渦にのまれ、今は静かに横たわっている。

 娘の体に剣はない。

 あってしかるべき、血溜まりも、傷痕さえない。

 娘は、ただ眠っているようだった。

 一人二人と娘に近づく。

「サクラ!」

 オードル家の長女が、駆け寄る。

「触れるな」

 低い声。

 荒げた口調ではない。

 むしろ何の情のない。

 にも係わらず、声は娘に近づこうとした者達の動きを、完全に封じた。

「誰も触れるな。『それ』は俺のものだ」

 彼は、ゆっくりとした足取りで倒れている娘に近づき、そして、傍らに膝をついた。

 そして、男は何も持たぬ両手で、娘を軽々と抱き上げた。

「カイ様」

 男の従者が近づく。

「連れて行く。あとは任せた」

 端的に。

 従者は恭しく頭をたれ。

「御意」

 男は、従者にも、呆然となりゆきを見つめている観衆にも、そして、腕に抱く娘にさえ視線をやることなく、歩き出した。

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[一言] もうワクワクが止まりませんヽ(´▽`)/ 丁寧に読み込んでいます
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