17
「…何してらっしゃるんですか」
朝から、とても気分が良かった。ようやく、ベッドから出ることを許されたのは、つい2,3日前のこと。体はすっかりと良くなったようにも感じられるのだが、一人で部屋を出ることは、残念ながら許されていない。
なので、何気なくバルコニーに出てみたのだ。
そうしたら、アイリがいた。
「あ、あら」
アイリは焦ったように、引き攣った笑みを浮かべた。
「ちょっと、お花見をしてまして」
ちょっと?
ちょっとの花見で、木に登る貴婦人がいるとは思わなかった。
アイリは、サクラが与えられた部屋の前にそびえ立つ、木の枝の一本に座っているのだ。
ちなみに、その部屋は2階にある。
「サクラ様、高いところからのお願いで申し訳ございませんが、タキには内緒にして下さいな」
アイリが手を合わせて懇願してくる。
周りを見てみれば、確かに、その木には、小さなオレンジの花が咲き誇っている。大きく広げた枝の隅々にまで花は隈なく付いており、遠めには巨大な一つの花のようにも見えるだろう。
こんなに、きれいな花が咲いていたのだ。
何かに目隠しされていたように、まったく目に入っていなかった。
「そこ、行ってもよろしいですか」
「は?」
アイリの返事を待たずに、サクラは、バルコニーまで伸びる枝の一本に手をかけた。
久しぶりな上に、病み上がりだったが、思いのほか体は軽い。サクラは幹までたどり着き、さらに少し上がって、アイリの横の枝に腰掛けた。
「…驚きました」
アイリが唖然と呟く。サクラは微笑んだ。
むせるような花の香りとオレンジの洪水。
「久しぶりです…こういうの」
花の中から見る花の群集は、とても美しかった。
「きれい」
オレンジが、光を含んできらめく。アイリが、タキの目を盗んでも、この光景が見たい気持ちは、よく分かった。
「妃殿下というお立場は、大変なのでしょう?」
尋ねられて、答えに窮した。
実際のところ、サクラはカイの妻としても、皇子の妃としても、なんら役目を果たしていないのだから。本当に、名ばかりの妃で妻。
ただ、唯一、鞘として少しは役に立ったみたい。
そう教えてくれたのはアイリだ。
「私、そこに座る勇気がなかったのです。だけど、それはカイ様が私を愛して下さらなかったからだわ」
そういえば。
この女性が妃候補だったことを思い出した。詳しくは知らないが、タキは二人がある程度それを受け入れていたと話していた。
カイがアイリを愛していなかった。アイリは?
「まあ、私もタキが好きだったから、おあいこだけど」
アイリを見ると、彼女はサクラを見ている。
その視線には、ほんの少しだけ羨望が含まれていた。だが、慣れないサクラには、その視線の意味は分からなかった。
「でも、もし、あの時のカイ様が、今のカイ様みたいに…」
「お前達は何をしてるんだ」
アイリの言葉は、途中で遮られる。見下ろせば、バルコニーにカイが立っている。
今度はサクラが焦る番だった。
「お花見です。カイ様」
一方のアイリは、やけにのんびりと答えた。
「タキに見つかる前に降りて来い」
カイは呆れたように、だが、柔らかい響きと共に手を差し延べる。
まず、アイリがするりと枝を降り、その手に身を任せる。小さい子供のように、腰を抱かれてバルコニーへと降り立った。
「サクラ」
呼ばれて、差し出される手を取ると、カイはそれを軽く引いた。
「え?」
予想外のことに、バランスを崩してグラリと枝から落ちた体は、カイの腕に抱き留められた。
「病み上がりが何をしている?」
叱られる?
謝ろうと口を開いたサクラだが、その言葉をカイは必要としていないようだ。
サクラを見る瞳には、僅かな怒りもなくとても優しい。
「…楽しかったか?」
尋ねる声も、柔らかくて穏やかで、「…はい、とても」と、素直に答えれば微笑んだ。
しかし、それも「カイ様、手遅れでした」と呟くアイリの言葉で消える。
振り返ったカイにつられて視線を動かせば、開け放たれたバルコニーの扉の奥、部屋への入口には呆れた顔をしたタキと、大きな体を揺らして笑いを堪えるキリがいた。
タキが怒っている。
ここに来てから、サクラはこの側近のいろいろな顔を見ている。
それは十中八九がアイリが起因で微笑ましく、本心の知れない笑顔のタキしか知らなかったサクラにとって新鮮ではあったが、今はそれが嬉しくはない。
「アイリ」
アイリの前に腕を組んで立つタキ。アイリは、俯いて「ごめんなさい」と詫びた。
身分の高い婦人の行動ではないことは重々理解している、だから、そのことについてはサクラも詫びねばと思う。
だが、「奥方様まで巻き込んで…」とタキから漏れれば、それは違うのだ。
「あの、タキ様」
声をかける。
「奥方様、お手を」
小さな声を無視して、キリはベッドにに座わったサクラの手を取った。
脈を計った後、大きな手の平で顔を包み、優しい目でじっと見つめる。
病み上がりの身だったことを思い出し、また、ベッドに戻れと言われたら嫌だと、神妙にキリの視線を受け止めた。
だが、その間もタキの説教は続いている。
「大丈夫ですな」
言われてホッと息をついた。
「奥方様はようやくお体が良くなってきたところなんですよ。怪我でもなさったらどうするのですか」
再びサクラの名が、タキから出る。
だから、それは違うのだ。
「タキ様!」
今度は、大きな声を上げた。
ぎょっとしたように、タキが黙る。サクラは、タキを見て、はっきりと話した。
「私の行動は私が勝手に行ったもので、アイリ様のせいではありません。そのことで、アイリ様を責めるのはお止め下さい」
タキは、戸惑いながら「ですが」と、口を開く。
サクラは、それを遮った。
「私についてのお怒りは、私が承ります」
言ってしまった。
そう思ったが、仕方がない。
タキの怒りは理不尽だ。アイリが、サクラのことで叱られることは、まったくおかしいことなのだ。
気まずい空気が流れる。
「タキ」
側近の名を、低く落ち着いた声が呼ぶ。
それだけで、タキは納得し、諦めたようだ。
「分かりました。お二人共、以後はお慎み下さい」
最後に釘を刺されて、ここは詫びるべきだとベッドから立ち上がり「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
頭を上げると、タキがサクラを見ていた。アイリも同じように見ている。
二人揃ってその瞳が、面白いものを見たと言わんばかりなので、サクラはちょっと身を引いて、カイを見た。
カイも、また、サクラを見ていた。表情は無かったが、咎められた気がして俯いた。
だが、カイはサクラの言動を微塵も咎める気などなかった。
思い出していたのだ。
初めてサクラが口を開いた時はあんな感じだった、と。
カイの腕の中で初めて目覚めた時のサクラ。あたふたとして表情をくるくると変える娘。カイの言葉に返ってきたのは、身分を知らぬが故の軽やかな言葉だった。
あのサクラを、厭わしく思った訳ではないのに。
妻は大人しくて静かなのが良いと言ったのは、誰でもないカイ自身だった。
サクラを抑圧するのは、カイの言葉か。カイが無理やり与えた身分と状況か。
いずれにせよ、己がサクラを押えつけていることに違いはない。
嫌な苦味が胸に広がる。少し収まっていたはずの苛立ちが、再び体に蔓延し始めた。
「おや、到着したようだ」
奇妙な沈黙の空間に、タキの声が響いた。
皆が何かと思う中、扉を叩く音が2回。そして、開いた扉から現れた人物に、最初に声を上げたのは、アイリだった。
「シキ!?」
言うなり、走り出す。
その先には、名を呼ばれたシキと、隣にホタルの姿があった。
アイリがシキに向かって走りながら、カイにしたのと同じように手を伸ばして抱きつこうとする。
「うわ、待て、アイリ、抱きつくな!」
シキといえば、カイのようにそれを素直に受け入れず、伸ばされた手を拒んだ。
女性を拒む男の傍らをすり抜けて、侍女は優雅にサクラに近寄ってきた。
まず、傍らにいるカイへと膝を折って礼をする。サクラ、タキ、そして、見知らぬ医師にも礼をしたあと「お元気そうですね」と、微笑んだ。
ホタルを抱きしめたい思いを抑えて、サクラは頷いた。
背後では、まだ、アイリとシキの攻防が続いている。
「シキがここに来るなんて、何年ぶり?嬉しいわ!」
「分かったから、離れろ!」
皆がどうなるのかと二人を眺める中、ホタルだけはそれをあっさりと無視し「もう、お加減はよろしいのですか」と尋ねる。
「ええ。やっぱり、暑いのがダメだったみたい」
サクラの想いを知る侍女は、じっと見つめてくる。
「…もう、大丈夫」
サクラの言葉に、何かを感じてくれたのだろう。ホタルはしっかりと頷いた。
「ホタルがシキを連れてきたのか?」
そのおかしな問いかけに、ホタルは主人を見上げた。
背の高い主は、ホタルをいつもより興味ありげに見下ろしている。
「いえ…私が連れてきて頂いたのですが」と、間抜けにも思える答えを返すと、「それはそうだろうが」の返しもおかしい。
サクラとホタルは不思議そうに首を傾げた。
「いや、よく来たな…サクラが退屈してたところだ」
かけられた声にホタルは恭しく礼をした。
そして、こっそりと「何したんですか、サクラ様」と尋ねる。
「ちょうどいい。お供も参ったことですし、明日あたり少し遠出されますか?」
タキの意外な申し出に、結局シキへの抱擁を諦めたアイリが、目を輝かせた。
「いいの!?」
「ここで木登りしているより、よほど貴婦人らしい余興です。シキを連れて行ってらっしゃいませ。よろしいですか?」
タキがカイに尋ねる。
「キリ」
カイは医者の同意を求めた。
「もちろん結構ですよ…私の診察も今日で終わりです」
キリの言葉は、サクラに満面の笑みをもたらした。
「奥方様にお会いできなくなるのは残念ですな」
サクラはキリに近づいて礼を述べる。そして、手を伸ばして老医師の巨体を抱きしめた。
「…奥方様…あまり、お悩みになりませぬよう」
キリは小さな、サクラにしか聞こえないような小さな声で呟いた。
僅かに頷くと、キリはサクラを名残惜しげに離して、部屋を出て行った。
それに合わせて、サクラとホタルを残して、全員が部屋を退出していく。
扉が閉じると共に「…サクラ様、木登りされたんですか?」呆れた低い声。
だが、振り返ったサクラの目には、柔らかく微笑むホタルがいた。
そのホタルを抱きしめて、呟いた。
「…だって、すごく花がきれいだと気づいてしまったんだもの」