15
カイがサクラの療養の地に選んだアルクリシュは、キリングシークの北方に位置する小さな国だ。冬は降り積もる雪に閉ざされ訪れる者もないが、夏ともなれば涼を求めて様々な国の王族や貴族が集い、ちょっとした社交場へと様変わりする。
それは私的な場に留まらず、過去においては、この国でいくつもの平和協定が公に、時に秘密裡に結ばれてきた。
アルクリシュでは、剣を交えてはならぬ。
そんな不文律に守られ、さしたる産業も資源も持たないながら、各国に一目置かれている国だった。
カイが、ここを訪れるのは、何年ぶりになろうか。
夜が更けてから、ようやく戻ったカイは辟易した様子を隠しもせずに、タキを訪れた。
「お疲れ様です」
苦笑いを零しながら、タキが差し出したのは、琥珀色を湛えたグラスだ。
「国王夫妻、お喜びでしたでしょう?」
カイは答えず、渡された液体を一気にあおった。歓迎の席で、散々飲んだはずの酒は、ようやくカイの喉元を潤す。
妻の療養という名目で訪れたカイを気遣って、歓迎の席はごくごく質素に設けられていた。早々に退出することも可能だっただろう。だが、カイはそれをしなかった。
久しぶりに会った国王夫妻に気を遣ったというよりは、カイ自身がここに戻るのを先延ばしにしたかったというのが本音だったが、もちろんそれは口にはしない。
「アイリは途中で逃げ出したぞ」
いつの間にか消えていた幼馴染の夫には、それだけチラリと零した。
「それは、申し訳ありません。ですが、アイリは、国王夫妻以上に喜んでました…貴方が最後にこちらにいらっしゃったのは、剣を手になさる以前ですから」
それは、もう随分昔のことの気がした。
剣に選ばれる前の自分はどんなだっただろうか。
国は乱れていた。自身も、それを憂いていた。だが、まだ、少年で何もできなくて。
それが歯がゆくて、同時に、それは少しばかりの自由の証だった。
「この国は、俺を拒む」
カイは呟いた。
この国には、剣の刃を晒し続ける限り、再び訪れることはなかっただろう。
「では、奥方様に感謝すべきですね」
タキの言葉をカイは複雑な思いで受け取った。
また…サクラに与えられるのか。あれに、与えるものは何もないのに。
「お疲れとは思いますが…一つだけよろしいでしょうか」
タキの声が、話題の内容を表すように硬い。
「巨大な黒い魔獣が、小さな魔獣を引き連れて村を襲った、と」
カイは空になったグラスをタキに戻した。
「そんな報告が届いております」
タキが、新たな液体を注ごうとするのを、手で止める。
「徒党を組む魔獣など、聞いたことがない」
カイは飲んだ酒が一向に回らない、嫌なくらい冴え冴えとした頭に描いてみた。
大きな黒い魔獣。それを囲むように蠢く小さな魔。
見たことのない光景が、やけに鮮明に想像できる。
「確かにそうですが・・・随分と広範囲に渡り目撃されているようです」
本来は、個々でしか生きることを知らぬモノたちだ。
それが、何か大きな力に引き寄せられて集まったとでも言うのか。
本当ならば…嫌な話だ。
「もう少し詳しく調べさせましょう」
それ以上の情報はないのだろう。
カイは頷いた。そして、立ち上がった。
いつまでも、ここにいる訳にもいかない。
「お休みなさいませ」
タキに見送られて部屋を出る。
部屋に戻ることを先延ばしにしていた筈なのに、気が付けば、足早に妻が眠る筈の部屋へと向かっていた。部屋の前で、カイはノックするべきか少し迷い、部屋の主が寝ていることを祈りながら静かに扉を開けた。
部屋には、アイリがいた。
ベッドの横に椅子を置き、サクラを見つめている。
カイを見ると、そっと椅子から立ち上がる。
「あまりお加減が良くないようだったので、キリに診察して頂いたの」
カイもよく知るここの主治医の名をアイリは口にした。
「眠れないとおっしゃるので、お薬を飲んでいただいたわ」
小さな報告に、眉を寄せた。
「催眠剤を少し…ご相談した方がよろしかった?」
アイリの不安げな表情から、カイはサクラに目を向けた。
小さな体を、なお小さく丸めてシーツにくるまっている。安眠が訪れているようには見えなかったが、それでも全く眠れないよりはマシか。
「いや、世話をかけた」
アイリは微笑んで、首を振った。
そして「お休みなさいませ」と、カイの頬にキスを落として部屋を出て行く。
それを見送ってから、カイは、そっとベッドに腰掛けた。
長い髪は大方がシーツに潜っていたが、何筋かが零れ出て、川のようにうねり、流れている。
サクラが寝ているのを確認して、一房、手に取った。
久しぶりに触れる髪は、変わらずしなやかにカイの指に捕われる。
アイリは、カイが当然ここでサクラと共に休むと思っているだろう。
だが、いくら立場が許しても、状況が強いても、サクラの傍らに横たわるのは、躊躇われた。
やはり、別の部屋を用意させようと、立ち上がりかけた時、シーツが身じろいだ。
青白いまぶたが数回ピクピクした後ゆっくり上がり、緑の瞳が、カイを捕らえる。
「…殿下?」
そう呼ばれることが、何故こんなに苦々しいか。
カイは、髪を離し、立ち上がろうとした。
だが。
「いや」
細い指がカイの腕を掴んだ。
「サクラ?」
サクラは億劫そうに起き上がり、カイに身を寄せてくる。
「行かないで」
薬だ。薬が言わせている。
カイを見上げる瞳は曇りがちで、それを示している。
分かっていても。
「ここにいて」
縋るように、体がカイの胸元に潜り込む。
初めて、サクラからカイを求めている。
抱きしめずにはいられなかった。抑え切れず、強い力で胸へと抱き込む。
細い身体はしなりながらも、たおやかに、カイへと預けられた。
「サクラ」
名を呼ぶとサクラの手が、カイの背に回される。
カイの身体に、覚えのある戦慄が走った。
肩を抱く手が、腰に回した手がその肌を求めてうごめきそうになる。
落ち着け。
サクラは病人で、しかも今は正気じゃない。
そんな相手に、何を考えている?
カイは息を深々と吐き出した。サクラは、カイの思いなど知らず、無防備に身体を押し付けてくる。
「殿下…」
呼びかけに、教えるように囁く。
今ならば、拒否なく叶えられるだろうか。
「カイ、だ」
サクラは、何の戸惑いもないように、カイに応じた。
「…カイ…」
唇から零れ落ちた名前に、誘われるまま口づけようとして、それはあまりに卑怯かと押し止める。
騒ぐ身体を抑え付け、サクラを抱いたまま、ベッドに横たわった。胸に縋る体を抱き寄せながら、言い聞かせた。
「ここにいる。安心して眠れ」
これは、自分自身への言葉だろうか。
その朝、サクラは実に何日振りかの、心地よい目覚めを迎えることができた。
体は重々しい。全身に圧し掛かる怠さは相変わらずで、軽々しく動きたい気分ではない。それでも、すっと纏わりついていた粘着質な闇からはいくらか解放されていた。
そして、傍らにはカイがいた。これも何日ぶりのことだろうか。
サクラを胸に抱くようにして眠っている…夫。
カイが同じベッドで休んでいることは、もちろんサクラを驚かせたが、今のこの状況に比べれば、それは些細なことだった気さえしてくる。
カイが、目覚めることなく眠っている。
過去、一度として、こんなことはなかった。いつだって、サクラが目覚めると、既に起きていたかのようにカイは目覚めていた。
今、サクラが頬を寄せる胸は、穏やかな寝息のリズムで上下している。顔を見ることはできなかったが、きっとあの瞳は、まだ今日の朝の日差しを見てはいない筈だ。
お疲れなのだろう。
忙しい方なのだ。皇子として、軍神として…剣が鞘に納められている時でさえ、その体も心も休まることなどないかのように、常に張り詰めている。
サクラがカイに与えたいものは、安らぎであり穏やかさなのに。
いつも、間違える。
カイに気遣わせ、煩わせることしかできない。
昨夜だってそうだ。
いったい、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
朧げに記憶にある自分は、立ち去ろうとするカイに縋って、ここに留まらせた。なんて、身勝手で恥知らずなのか。
しかも、未だカイの腕の中に留まりたいと願っているなんて。
どこまで、浅ましいのか。どこまで愚かなのか。
本当はこんな想いはいらない。
望まれるままに、無邪気にそこに居るだけの存在でいたい。
でも、もう止めようがない。
カイが好きだ。
これが、どんなに身の程知らずな想いでも、もう手遅れだ。止まらない。壊せない。
そして、気が付かない振りも。目を逸らすこともできない。
サクラは、再びまぶたを閉じた。
知らなかった。
愛しい人の温もりは、こんな季節にさえ心地好いのだ。
どうやら、うとうとしていたらしい。隣の存在が動いてサクラは、目を開けた。
サクラを見下ろすカイが、一瞬きまり悪げな顔をしたような気がしたが、すぐにいつもの静かな表情に戻る。
「寝ていろ。すぐ出て行く」
素早く起き上がり、ベッドから降りようとする姿に、昨夜はいったいどんな勇気を持って縋ったのだろう。まったく思い出せない。
そんな勇気のかけらも持ち合わせない今は、大きな背中を見送るしかない。
サクラはせめてと身を起こした。
「…申し訳ありませんでした」
気が付いたら、ポツリと言葉が零れていた。
カイが、振り返る。
「何がだ?」
すぐに返るのは問い。
いろいろと。
お詫びしなければいけないことが、たくさんあり過ぎる。
「勝手なことばかり申し上げて…」
捨て置けと言いながら、一人では何もできない弱さ。
拒んだ腕に縋る身勝手さ。
勝手に想い、勝手に悩む…情けなさ。
カイを煩わす全てを、詫びたかった。
「勝手なのは俺だろう」
返ってきたのは、自嘲を含んだ言葉だった。
そんな筈はないと、首を振った。カイは剣に従っただけだ。剣の選んだ鞘に誠意を現しているだけ。
そのカイの優しさを、サクラが自身の想いに負けて受け止められないのは、サクラのせいだから。
「横になっていろ」
カイは、今度こそベッドから立ち上がった。
「どちらに…」
頼りない言葉が、漏れ出たことにハッとする。急いで口を閉じる。
恥じて俯いた。
本当に情けない。
「…タキのところだ」
カイは答えてくれた。
その答えに口を閉じたまま頷く。口を開けば、サクラの意思に反した言葉が、とめどなく溢れそうだ。
もう、これ以上は、カイを煩わすことはしたくない。
カイの手が、サクラに伸びた。
指先が髪を掬う。
サクラはぎくりと身を強張らせた自分を戒め。
カイは、サクラの態度に一瞬指を震わせたが、そのまま指先に髪を留めた。
「…お前が、嫌でなければ…ここに戻る」
驚いて顔を上げると、サクラを見下ろして返事を待つカイがいた。
言ってもいいのだろうか。
「…嫌ではありません…殿下がお嫌でなければ…」
声が震えた。
「…ならば、ここに戻る」
確かにそう言ってカイは扉へ向かった。
いつかは見ることのできなかった背中を見ながら、サクラはありったけの勇気をかき集めて「行ってらっしゃいませ」と声をかけた。立ち止まったカイは振り返らず、「行ってくる」と答えた。
それだけで、十分だった。
サクラは横になり、カイの温もりが残るシーツに包まり、しばらくのまどろみに身を投じた。