14
体がドロリとした沼にでも沈んでいるようだ。
なんとか起きようとするのに、闇が重くのしかかり、全く身動きが取れない。
助けて。
声を出すこともできず、ただ、そこに横たわっているしかない。
そんな日々がどれほど続いているのか。
時間の感覚さえ失ってしまって久しい。
いったい、この体はどうなってしまったのだろう。
つ、と何かが、触れた。乱れて顔に落ちていた髪を、何者かの指先が払ったらしい。
この髪は、邪魔だ。触れる者もいない今となっては、切り落としてしまいたいぐらいなのに、誰もがそれを許してはくれない。
「ホタル?」
常に側にある者の名を呼んでみるが返事はない。
目を開けようと試みたが、まぶたはずっしりと重かった。
闇の中、髪を払って露になったであろう額に指先が触れた。こめかみを通り頬を包む手のひらは、冷たく硬い。
明らかにホタルとは違う感触。そして、過去に知った感覚だった気がしたが、ありえないと否定する。
もう、あの手が触れることは、二度とない。髪にさえ伸ばされることのない指先が、頬を包むことなどあろうか。それどころか、顔も見てない。
拒んだのは自分。
なのに、思い出すと胸が苦しい。自分を抱きしめるように体を丸めると、髪を撫でられる。
サクラは、ホッと息をつき、今度は、なんとかまぶたを上げた。
大きな影が、サクラの視界を埋め尽くす。
「殿下?」
ありえないと思った人がそこにいた。
色の違う双眸が、サクラを見下ろしている。
夢かもしれない。夢なら、もうしばらく。
サクラは再びまぶたを下ろした。
「…少しの間、我慢していろ」
耳に届いたのは、変わらない低い声。意味は良く分からない。
ふわりと体が浮いた。
重い闇から救い出されたような、そんな気がした。
次に意識が、僅かばかり戻ったとき、サクラはゴウゴウと激しい音の中にいた。周りは漆黒に囲まれ、何も見えなかったが、先ほどのような重い不安はない。
そこが、翼竜の背であることが、はっきりとしない頭でも理解できたからだろうか。
それとも、全身に感じる温もりのため?
考えることを放棄し、再び瞳を伏せて意識と無意識を漂っていると、まもなく翼竜は下降し始め、どこかに降り立った。
「本当にいらっしゃったのですね」聞き覚えのある声が布越しに聞こえる。
再び、体が抱き上げられる感覚。
漆黒が外され、サクラの視界が明るくなる。
「いらっしゃいませ、奥方様」
やはり、声はタキのものだった。
サクラはカイに抱かれていた。サクラを包んでいた漆黒は、カイの羽織るマントだった。
その中にすっぽりと包まれて、翼竜に運ばれてきたのだ。
だが、思考が理解したのは、そこまでだった。闇に沈む感覚は薄らいだものの、体のだるさや頭の重さは変わらず、サクラはぐったりとカイにもたれかかった。
「…大丈夫ですか?」
心配げに覗き込むタキにカイは一瞥をくれただけで、サクラを抱いたまま、さっさと屋敷へと入っていく。タキはカイの態度を気にするでもなく、その後に続いた。
この屋敷のことをカイはよく知っているようだった。
迷わず、一つの扉の前に立ち、タキに開かせる。
そこは客室と思われた。
入って中央にベッドがあり、その横に書机と椅子、更にベッドの奥には人が優に横たわれそうな大きなソファがあった。
カイはサクラをベッドに運んだ。
静かに、とても丁寧にベッドに降ろされたのに、目眩がしてサクラはカイに崩れるようにもたれた。
「大丈夫か?」
頷く。
だが、声は出ない。体は動かない。指先を持ち上げることさえできない。
「サクラ?」
カイの手が肩に置かれた。
「申し訳ありません」
なんとかそれだけ言う。
「…いや」
カイに支えられながら見上げると、気遣わしげに見下ろす瞳があった。大丈夫と口にしたところで、それが一欠けらの説得力もないことは分かっていたが、何か言わねばと口を何度か開きかける。しかし、結局一言として、声にはならなかった。
「横になるか?」
問われてそれを拒否すると、カイはいくつもの枕を、ベッドのボードに重ね、それにもたれるようにサクラを座らせた。
「…ありがとうございます」
ベッドに腰掛けたカイが探るように見てくる。サクラは、気まずいながら、視線を外せずにカイを見つめていた。
久しぶりに見る夫だった。サクラが拒否を示して以来、カイは一切サクラに近づかなかった。それは、サクラにとって、心が騒ぐことのない静かな日々をもたらすと思われたのに、そうではなかった。
毎日毎日が、痛みに耐えるだけの日々だった。
カイの顔を見ているうちに、不意に泣きたくなる。
「サクラ?」
カイが名を呼ぶ。それも久しぶりなのだ。
涙が零れそうになって、頷きながら顔を伏せた。
体に力は入らないのに、シーツを握る指先だけが真っ白になるほど力んでいる。
「…サクラ」
迷いを含んだカイの手が、サクラへと伸びかける。
だが、それは扉をノックする音に遮られ、触れることはなかった。
「はい」タキが答えると同時に、勢いよく扉が開け放たれる。
反射的に顔を上げたサクラが見たのは、背の高い華やかな女性だった。
「カイ様!」
呼ばれたカイが立ち上がる。
女性はカイに小走りに近寄り、長身に飛びつくようにして首に腕を回した。
「アイリ!」
珍しくタキが焦ったような声を出す。
サクラは、カイにしがみつく女性と、それを落ち着かすように肩を叩くカイを見て、それから、最後に全くらしくもなく、アタフタしているタキに視線を止めた。タキはサクラの視線に気がつき、己の失態を取り繕うように小さく咳ばらいして「私の妻のアイリです」と女性を紹介した。
「ここは、私の妻の実家ですよ」
紹介されたアイリは、はっとしたようにカイから離れ、急いでサクラへ近づいた。
ベッドの脇に膝を付くと、まだ、強くシーツを握っていたサクラの手をキュッと包むように握り締めた。
「騒がしくして、ごめんなさい!」
勢いある詫びに、目が点になる。
カイが、苦笑いを零しながら「サクラだ」と、アイリに告げた。
アイリは、これもまた勢いよく、カイを見上げた。
「お名前は知ってます。サクラ様とお呼びしても?」
カイが頷くと、アイリは再びサクラに向き直った。
「初めまして、サクラ様。アイリと申します。ここにサクラ様をお迎えすることができて光栄です」
サクラの体調を慮ってか、いくらか声のトーンが下がった。
「体調を崩されていらっしゃるとお聞きしました。ここは、とても涼しい土地ですから、きっと良くなられます」
サクラの手をぐっと握る手は、女性にしては大きく、だが、柔らかく温かい。
サクラは、その温もりに助けられるように微笑んで「ありがとうございます」と答えることができた。
程なく、アイリの両親がカイに挨拶をしたがっていると、使いの者が現れた。「そんなの後でいいでしょう」と言うアイリだったが、そういう訳にはいかないと、タキに諭されると、カイを伴って部屋を出て行った。
主の妻がベッドにいるという状況に、一人残るのはどうかと思ったが、タキはサクラに話しておくべきと思うことがあり、そこに留まっていた。
見遣れば、サクラは二人を見送っている。扉が閉まると、その視線がタキに移った。
我が妻と並ぶと、なおさら華奢さが際立つ主君の妃に、タキは心で眉を潜めた。
いつの間に、こんな儚げになってしまわれたのか。
タキの知るサクラは、華奢ではあったが、決して儚くはなかったのだ。それが、体調を崩しているとは聞いていたが、こんなに消えてしまいそうに儚げになられるとは。
いったい、何が、彼女をこうも儚くさせるのか。
そして、カイのあれは何なのだ?
この妃に触れた時の、あの緊張感は?
「奥方様。お気分がすぐれぬところ申し訳ございませんが、少しよろしいでしょうか」
尋ねると、主の妻は「はい」と答えた。
少しの驕りもない素直な返事は、タキに好感と共に戸惑いを抱かせる。
輿入れした時から何も変わらないサクラの態度。それは、カイに対する打ち解けきらぬ態度であり、タキに対する主君らしからぬ態度であり、そして、いつまでもどこかに幼さを残すサクラの全てにおける態度であったが、これらはタキに一つの疑惑をもたらした。
「一つ、お伝えしておきたいのです。せんのない噂話で奥方様を煩わせたくはございませんので」
心中をおくびにも出さず語るタキの言葉に、サクラは神妙に頷く。
「私の妻は、かつてカイ様の元に輿入れする予定でした。既に私の妻となり2年となりますが、いまだお二人の仲を勘ぐる者もおります。ですが、誓って、カイ様とアイリの間には何もございません」
タキはサクラをじっと見ていた。
サクラはタキの話で表情を変えることは無かった。ただ、正直な瞳が少しの驚きで揺れている。
「…ここは、アルクリシュという国です。名はお聞きになったことがおありでしょう?アイリは、この国の第1王女だったのです。カイ様とは幼馴染であり、お二人のご婚約は幼い頃に国間で定められたものですが…お二人がご結婚されることは…ごくごく自然のことだったようです」
タキはあえてサクラに話す必要のない事柄を織り交ぜた。
しかし、サクラには、さほど心が乱された様子は見えない。
元婚約者という存在は、しかも、タキは言外にそれを二人が受け入れていたことを、仄めかしたのだが、それでも、この妃に動揺を与えるものではないのか。
これが、夫の寵愛を受ける妻の余裕ならば良い。
だが、カイが不誠実な夫とは呼べないまでも、決して誠実ではないことをタキは知っている。
サクラがそれに全く気が付いていないとも思えない。
ならば、もう少し動揺があっても良いのではないか。
タキでさえ。
カイとアイリの間に、なんら特別な感情がないと誰よりも分かっているタキでさえ、あの二人の親密さには、時折胸が騒ぐのに。
「ただ、お二人は親しい間柄ですし、アイリは人懐っこい性格ですので、もしや奥方様のお気に触ることもあるやもしれません…そんな時は、ご遠慮なく私にお申しつけ下さい」
妃は頷いた。
そして、何も聞かぬ。
夫と女性の睦まじい様子をまのあたりにしながら。タキから、過去の経緯を聞きながら。
タキとて、今ならばサクラの疑問に答える準備がある。
だが、何も言わない。決して深くを尋ねない。教えられたことを、受け入れてそれまでとする。
何においても、こうなのだ。
常に、一線を引いて踏み込んで来ない。それを好ましく思うことも少なくはないが、あまりに夫に対し他人行儀ではなかろうか。
「タキ様、承知いたしました」
サクラに声をかけられて、タキは微笑みを返した。
疑惑は、既に確信へと姿を変えつつあった。
この方は、剣の鞘なのだ。カイは、この方を正妃として迎えられたが、それは立場だけのものなのだ。
この娘は、破魔の剣に選ばれた者。剣に召されて、その身を捧げざるを得なかった者。
ならば、それで良い。
そうであるならば、少なくともこの娘は弁えているのだ。
己の境遇を嘆く素振りもなく、カイの不誠実さを責める気配もない。淡々としてここに存在しようとしている娘は良い。
だが、カイはどうだ。
鞘の娘を手元に置き、庇護し、敬愛を以って接する使い手でありえるのか。
始めの頃は何事もなかった。カイは何も変わらなかった。ただ、常に手元にあった剣が姿を消したというだけの、軍神としての男はそこに威圧感を放ちながらも、泰然と存在していた。
だが、今は違う。
彼は、常に何かに苛立ち、緊張感を漲らせている。周りに、かつてとは意味の違う、張り詰めた緊迫感を強いている。
剣の使い手たる軍神は…何に脅かされているのだ?
それは、この妃なのか。
「奥方様」
なんら突出したところのない、この名ばかりの妻である娘に、男は乱されるのか。
「…ごゆっくりお休み下さい」
いろいろと思うところはあった。
だが、それは、むしろカイにこそ言うべきことであり、この妃に望むことではない。
「ここは、とても過ごしやすい土地ですから、まずはお体を治しましょう」
「…はい」
諭すように言えば素直に答え、小さな笑みを浮かべた。
この方を嫌いではない。健気で愛らしい存在は、むしろ、好感を持って仕えることをよしとする。
しかしながら、もしも、この方が軍神にとって、負としかなりえぬ存在ならば。
その健気と、愛らしさが、軍神を迷わせるならば。
この儚さが、軍神を惑わせるならば。
消さねばなるまい。
剣の鞘が、使い手の存在を脅かすことがあってはならないのだ。
もしも、そんなことが起きえるならば。
鞘は葬らねばならない。
だが、今はまだ、その時期ではない筈だ。まだ、静観していて良い筈だ。
「では、失礼いたします」
タキは一礼して、部屋を出ようとした。
部屋を出る寸前にそっと垣間見たサクラは、このまま一人にしておけば消えてなくなりそうだった。
いっそ、消えてしまったら。
タキは自身の残酷な思考を止められなかった。
いっそ、このまま、あの方が消えてしまわれたら…カイは元の軍神に戻れるのだろうか。