13
それが現れたのは、久しぶりだった。
主を失った白い獣は、時折フラリとカイの前に現れる。カイの血を求めるときもあれば、ただ寄っただけだとばかりに、すぐ去っていくこともあった。
ただ、いずれの時もサクラを求めていることは明らかだった。
現れては、見えぬ娘を求める瞳が、どこかで見たそれと酷似している気がしたが、深く考えるのは止めた。
いつものように、カイの寝室のバルコニーに降り立ったタオは、すぐさま、その部屋にサクラがいないことに気がついたようだ。
「聡いな」
苦笑いが浮かぶ。
タオの鼻がピクピク動き、耳がそちらを向いた。
タオが見つめる隣のバルコニーは、サクラの部屋に続いている。
サクラは、そこで眠りに就いているはずだ。
カイを拒否したあの日から、サクラは自室で休んでいる。
カイが命じた訳ではない。
マアサに懇願されてのことだ。
サクラは酷く体調を崩していると聞いている。
暑さのせい、と医者は言う。
それから、慣れない環境と、様々な心労をマアサは…多分相当な覚悟を以て、口にした。
まずは、ゆっくり養生させよという医者の指示に、マアサが幾度となく、一時オードルに戻すようにと願い出てきていた。
だが、許すことはできよう筈もない。
今のサクラの状態でオードルに戻せば、あの姉が易々とカイの元に返さないことは、想像に難くない。
どんなに願われても、それがサクラの思いを代弁するものであっても、聞き入れる訳にはいかなかった。
カイが気配に気がついたのと、タオの耳が動いたのは、ほぼ同時だった。
タオの体毛が、ザワザワと逆立った。
剣の気が近づいたせいか。それとも、焦がれる存在にざわめく心の表れか。
カイは、タオを己の側に寄せ、扉の影に身を隠した。
サクラの部屋のバルコニーの扉が開く。
目に入ったサクラの姿に、タオの体が身じろぐ。今にも、走り出しそうな獣をぐっと腕で抑えた。
サクラは、バルコニーには出ず扉にもたれて、しゃがみ込んだ。
涼を求めたのだろうか。
だが、今夜は風もない。
立っているだけで、ジットリと汗ばんでくる熱帯夜だ。
サクラは、カイ達には、気がつかない。ボーッと虚空を眺めている。
サクラとは、拒否されて以来、ほとんど顔を合わせることはない。合わせずにおくことは、なんら難しいことではなかった。
だが、こうして姿を見てみると、タオではないが、心が騒いだ。
サクラは話に聞いていたより、ずっと衰弱しているように見えた。
食事も取れないことが多く、起きてはいてもまともに動けないという。
元より華奢な娘だ。しかし、薄い衣一枚で、膝を抱え座る姿は、カイが知るサクラより、ずっと小さく見える。部屋からの薄い明かりに照らされる顔は青白く、何より、明るい筈の緑の瞳は深く沈み込み、僅かな光も感じられない。
カイは無能な医者に毒づき、こんなサクラを見ても、手元から手放す気にならない自身の身勝手さに憤った。
「サクラ様」
ホタルの声がし、サクラの横に膝を付く。サクラを気遣わしげに見ていた顔がふとあがり、カイを見つけた。
カイは、口元に人差し指を立てた。
ホタルは視線で頷き、次にタオを見、そして顔をサクラに戻す。
「サクラ様」
部屋に戻すのだろうか。
もう少し。
願ったのは、獣のためにだったのだろうか。
「何か飲まれますか?」
サクラがけだるげに首を振ると、ホタルはその傍らに座った。
遠耳の娘は、心の声も聞くのだろうか。
風のない夜。
空には月。
まとわりつくような空気の中、気がつけばタオは座っていた。カイは、ただサクラを見ていた。
やがて、ホタルが動く。
許しを請う視線に頷けば、ホタルはサクラに手を貸しながら立ち上がらせ、部屋へと戻って行った。
夜にフラリと現れたサクラの無用心さを責める気にはなれなかった。サクラは、もう十分過ぎるほど、様々なものに縛られている。
縛り付けているのは、他でもないカイ自身。
それでも、手放す気にはなれない。
カイはタオを見た。
タオはカイを見た。
その瞳に、望む者を垣間見た喜びはなく、カイを責めるように鋭くいぬく光だけが宿る。
言葉をもたない者が、カイを真正面から非難する。
この獣が、言葉を操ったなら、どんな言葉でカイを罵倒しただろうか。
タオは、尾でカイをはたいて、歩きだした。
「お前は、俺には従わないのだったな」
声をかけると、振り返った。
「それでいい」
タオが闇に消える。
カイは、サクラの消えたバルコニーを見つめ、あらゆる感情を持て余していた。