11
「いいお天気」
青く広がる空を眺めて、サクラは呟いた。
季節は、春に終わりを告げ、夏を迎えつつある。
窓から見える庭は、色とりどりの花に埋め尽くされていたが、むしろ、周りの木々の緑こそが色濃く鮮やかに映えている。
「散歩日和」
オードルにいた頃、こんな日は必ずアシュを連れて領地内の林を散歩したのを思い出す。今では、考えられないほど、身軽な日々。
サクラの願望交じりの呟きに、侍女から返ってきたのはとても冷たい返事だった。
「現実逃避はそれくらいにして、さっさとドレスを着て下さい」
ホタルは、クローゼットに並ぶドレスから、一着を取り出した。
「ホタル、冷たーい」
「冷たくて結構です。私は今、ドレスのサイズ直しという使命に燃えてるんです!」
軽く責めると、ホタルはぐっと拳を握り、言い返してくる。届けられはしたものの、放っておいた夏のドレスは、そろそろ出番を迎えつつある。
毎朝、慌ただしくサイズを直すのは避けたい、という思いがホタルを駆り立てたらしい。
サクラは仕方なく、本日何着目かのドレスを身に付けた。
ホタルの言うとおり、呟きは現実逃避に違いない。目の前にあるドレスの試着という、他の女性達から見れば垂涎ものの重責からの。
サクラを鏡の前に立たせて、ホタルが肩や丈を確認していく。
身につけたドレスは、淡いピンク色だった。衿元が大きく開いてサクラの細い首と肩を強調する。ふくよかな胸が絹を押し上げ流麗な頂を描いていた。胸の下で贅沢にギャザーを寄せて、そこから足元に流れるのはきれいなAのライン。フワフワとした柔らかい布地は、サクラが動くたびに軽やかに揺らいだ。
ほとんど、サイズの直しが必要なさそうなそれを、ホタルは満足げに眺めた。
「さすが皇家ですよね。どのドレスも素敵で、楽しくなります」
「私は全然楽しくない」
いつか、カイとこんな会話をした気がする。
今日は公務で登城している夫を思い出した。彼はやっぱり今日も少し不機嫌に出掛けていった。
その背中を見送りながら、どんなに不機嫌であっても、戦いの場に送り出すよりよっぽどいいとサクラは思っていた。
「よくお似合いですよ。選んだのはマアサさんだと聞いてますけど、どれもサクラ様に似合いそうなものばかりです」
サクラは鏡を眺めた。
見慣れた娘が、美しいドレスを着せられて立っている。
馬子にも衣装とは、よく言ったものだ。それなりの、娘に見えた。
しかし。
「これ、胸、開きすぎじゃない?」
いつも身につけるものよりは、数段露出度が高いのが気になる。
ホタルは「これくらい皆さん着ていらっしゃいますよ」と答えるが、サクラは落ち着かなげに、衿元を触った。夏に相応しい涼しげなデザインと言えなくもないが、なんとも心もとない。
「いいじゃないですか、きちんと胸があるんですから」
そんなことを言ってくるので「…確かに、ホタルは寂しいものね」と答えれば、「あ、ひどい。私だってあるにはありますよ」ホタルは頬を膨らました。
ひとしきり笑った後で、ホタルは改めてサクラを眺めた。
「でも、確かに、このドレスの時は何か着けられた方がいいかも」
呟きながら、クローゼットから何やら持ってきて、サクラの首に着ける。ネックレスだった。ドレスに合わせて、ピンクの宝石が細かく散りばめられている華奢なものだ。
「せっかくですから、髪も結ってみません?カイ様は、まだ、しばらくお帰りにならないでしょう」
そんな提案で、サクラは久しぶりに髪を結ってもらった。
「いい仕事したって感じじゃないですか?」
出来上がりを自賛するホタルに「ホタル、髪結い上手」と素直に感想を述べる。
いつか、マアサが随分苦労していたのを思い出したのだ。
「サクラ様の髪に鍛えられましたもん…侍女辞めたら、髪結いになりますよ、私」
サクラの心臓がドクンと響いた。振り向いて、背後のホタルを見つめる。
「ホタル、辞めるの!?」
ホタルは、サクラの驚きにこそ驚いたようだ。
「もちろん、冗談です。サクラ様にずっとお仕えします」
そうだ。冗談に決まってる。
分かっているのに。
自分でも訳の分からない不安で、サクラはホタルに抱き着いた。
「ごめんね」
「サクラ様?」
ホタルが、背中を抱いてくれる。
サクラは、目を伏せた。
ホタルといると、オードルにいた頃に戻れる気がする。あの頃は、なんて毎日が楽だっただろう。心ない噂や中傷に傷つくことはあっても、こんな物思いで不安定になることはなかった。
「ホタル…側にいてね」
呟くと、ホタルは「はい」と答えてくれた。
少しの間そうして、サクラは体を離した。
「では」と、ホタルが微笑み「次のドレスにいきましょうか」
まだ、やるのか。
うんざりしたサクラだったが、扉を叩く音が、ホタルの使命を中断させた。
落胆の表情を見せながら、ホタルが返事をして扉を開ける。
マアサかと思って見やったそこには、カイが立っていた。
「おかえりなさいませ」
サクラは慌てて、カイを迎える。
「お早いのですね」
まだ、陽は高い。カイが戻るのは、もっと遅い時刻だと思っていた。
カイは、脱いだ上衣をサクラへと渡し「爺共の言い争いは兄上の領域だ」と答えた。
ホタルは、カイに一礼して、部屋を辞してしまう。どうやら、カイがサクラの元に来た時は、一度退室するように言われているらしい。この後は、サクラが呼ぶまでは戻ってこない。
それを、寂しく見送ってから、サクラはカイを見上げた。
随分、ご立腹のようだ。言葉から察するに、宰相や各国王との議事に嫌気がさして、帰ってきたのだろう。
サクラを見下ろすカイの視線が、ふと和む。
「随分と、きれいにしてもらったな」
サクラは自分の格好を思い出した。
着飾った姿が恥ずかしく、俯いて「ホタルに遊ばれました」言い訳めいたことを口にした。髪が結ってあることを思い出し、解こうとするとカイの手が止める。
「ちょうどいい、出かけるぞ」
「え?」
カイはサクラが持っていた漆黒の上衣を、無造作にサクラの肩へとかけた。
手首を掴まれ、なかば引きずられるように歩き出す。
廊下で、シキに出会った。
「出掛けてくる」
短くカイが告げると、シキが付いて来ようとするが、「共はいらない」と追い払う。
「あ、そうですか。行ってらっしゃい」
シキは、驚くほどあっさりとサクラ達を送り出す。
サクラが望んだ時は許されない、共なしの外出はあっけなく許された。
連れていかれたのは、厩舎。この屋敷内では、既に希少となった、今まで足を踏み入れていない場所だ。
何頭もの馬が並ぶ中、カイは一番奥の区切られた空間にサクラを連れて行く。
そこにいたのは馬ではなく「翼竜?」サクラは呟いた。
空を飛ぶ優美な姿は何度か見たことがあるが、こんなに近くで見るのは初めてだ。
「ロウ」
カイは翼竜の名を呼びながら、厩舎の外に連れ出す。
「執事と同じ名前ですか?」
目の前の美しいドラゴンと、お堅い執事の共通点は見つからない。
「付けたのはシキだ。ロウはシキの天敵だからな」
サクラはよく分からず、カイを見上げた。カイはロウを撫で続けながら、サクラにその意味を教えてくれる。
「躾る時に叱咤するだろう?ロウの名で」
ああ、そういうこと。笑いが零れた。
見るからに堅物の執事と、砕けた騎士との確執は容易に想像ができる。老練な説教に太刀打ちできないシキが、悔し紛れにその名をつけたというのは、ありえる話だ。
「もっとも、こいつは大人しくて賢い。あまり叱咤させてくれんがな・・・触れてみるか?」
聞かれて、頷いた。
「ロウ」
話かけながら、手を伸ばすと翼竜は自ら触れて欲しいと首を差し出した。
そこを撫でると、気持ち良さそうに目を細める。
うろこに埋め尽くされた肌は冷たく、だが、意外にも柔らかい。ロウが大きな顔を寄せてくるので、サクラはそっと鼻先にキスをした。
「乗ったことは?」
「ないで…」
答えが終わらないうちに、カイに抱き上げられ、竜の背中に乗せられる。
後ろにカイが跨がった。
「あの…っ…」
バタバタと激しく羽音を立て、フワリとロウが浮かぶ。
バランスを崩したサクラが後ろに倒れ込むと、カイは易々と受け止めた。
初めての翼竜から見る景色は、いつもの場所が違ってみえた。
屋敷の屋根を見下ろし、何の花なのか分からないほど小さく見える庭を飛び越えて、ロウは悠々と飛んでいく。
サクラは、恐怖感はさほど感じなかったが、強い風に振り落とされないようにロウにしがみついた。
「あの」
どこへ行くのか、尋ねたかった。だが、風の音がすごくて、無駄を悟る。
黙って、カイの胸元に収まっていると、ほどなくカイの目的の地は知れた。屋敷から少し離れた林の上空に着くと、ロウはゆっくりと下降して、木々のない場所に静かに降り立った。
そこは湖だった。
カイの手を借りてロウから降り、湖へと近づく。
そっと水に手を入れてみた。ひんやりとした、だが、柔らかな感触に、思わず微笑んだ。
「こちらだ」
カイに連れられて、湖の周りを歩く。
カイがサクラを導いたのは、湖に浮かぶように建てられている東屋。
カイは、その床にサクラを座らせた。
足を下ろせば、ちょうど水に足先が届きそうだ。
「…入らないのか?」
見透かすようにカイが問い掛ける。
見上げると、カイが面白そうに見下ろしていた。
「いいんですか?」
「俺はマアサではないからな。構わない」
サクラはわくわくしながら、サンダルを紐解き、スカートの裾を少し上げて爪先を水に浸けた。
冷たい。でも、気持ちいい。
こんな風に外に出て、ゆっくりとした時間を過ごすのは久し振りだった。
ここでは、サクラは無力な護られるべき存在だ。一人で身軽に外出することなど、許されない。まして、こんな林の中など、来れよう筈もない。ひとたび、そんなわがままを口にすれば、数人の使用人の仕事を中断させ、同行してもらうことになってしまうだろう。
だから、どこにも行かず、窓から空を眺めるのだ。
でも、今は違う。
窓枠はない。天井もない。見上げれば、限りなく青い空が広がっている。
湖を覗こうと前屈みになると、カイに後ろから腰を抱かれる。
「落ちるな、水浴びにはまだ早い」
不意に、広い空間からカイの胸元へと閉じ込められて、サクラの鼓動が跳ね上がる。
「気をつけます」
声が震えないように。
祈りながら言うと、カイはすぐに体を離し、横に座った。
「殿下、ありがとうございます…連れてきて下さって」
サクラは素直な礼を述べた。
「殿下?」
カイが不満げに咎める。
どうして、そこに拘るのだろう。もっとも、呼べない方にも問題はあろうか。
「…カイ様」
囁くようになんとか言い直す。
カイは納得したように頷いた。
さわさわと風が吹く。
薄手のドレスでは寒かったかもしれない。漆黒の生地に包まってサクラは、カイの気遣いを噛み締めた。
「先日、狩った魔獣は、サラの件とは別だった」
カイがふと呟いた。
サクラは、カイを見た。
軍神の視線は湖に注がれている。表情はない。
「キリがない・・・俺は、一生戦い続けるのかもしれんな」
弱音ではないようだった。
一生、戦い続けるという、その意味を考えた。
彼が、キリングシークの軍神である以上、それは避けられない現実なのだろう。
戦。サクラの知らない場所。それでも・・・その言葉に漂う荒涼とした空虚感は感じることができる。
カイの居場所は、そんな場所なのか。
一生?
サクラはゾクリと身震いして、上衣を抱き寄せた。
カイの手がサクラに伸びる。
髪を結ったサクラの頬を手のひらが包む。
「お前は、そのたびに…不安になるのか」
サクラは手のひらの温もりを気にしないように言い聞かせながら「わかっているのです。私などが不安を感じる必要がないことは…」答える。
「それでも…貴方がお戻りになるまで、不安で心配でご無事を祈らずにはいられないのです」
それは、いけないことでしょうか?
鞘である私は、心配や不安さえ感じずに、ここにいることを望まれているのでしょうか。
「それは、俺がどれだけ大丈夫だと言っても?」
サクラの頬を指の背が撫でる。
カイの口調は責めているというよりは、サクラを困らせることを楽しんでいるようだった。
「お許し下さい」
カイはサクラから手を離した。
「・・・いいだろう」
少しの沈黙の後、そう呟いた。
「許そう…お前の元に戻るまで、俺の身を案じて祈っていろ」
カイの顔に笑みが浮かぶ。
「…カイ様?」
「今まで、心配するなとは何度と言ってきたが、心配することを許したのは初めてだ」
サクラも微笑む。
心地好い風が、二人の周りを流れていく。
こんな時間が続けば良い。
サクラはそう願っていた。