10
小さな物音で、サクラは目を覚ました。
カイがこの屋敷にいる時は使うことのない、自分に与えられた部屋のベッドに横たわったまま、意識を隣の部屋へと向ける。
誰かいるのは確か。カイが戻ってきたのだろうか。
剣が呼ばれたのは、昨日のことになる。ホタルとマアサ、そしてタキが見守る中、ほんの数時間後に再びの突風と共に、剣はサクラの元へと戻ってきた。
カイが無事であるという知らせと共に。
とても不思議なことに、剣が戻ってきたと同時に、サクラはカイが無事であることも知ることができたのだ。
まるで、剣が使い手の無事を囁いたかのように。
はっきりとカイの無事に確信が持てた。
「カイ様がお戻りになるには、まだ2、3日あるかと思います」
そう、サクラに教えてくれたのはタキだ。「ご心配かとは存じますが、いま少しお待ち下さい」サクラを気遣う言葉に、素直に頷いた。
皆が部屋を退出した後、一足先に戻ってきた剣に労いの言葉をかけて、サクラはベッドに横たわった。
そして、剣を抱きながら、ほとんど眠ることのできなかった2日間に比べれば、浅いながらも眠りに就くことができたのだった。
今朝になってみれば、カイの帰還に猶予があることはサクラをほっとさせることになった。
もちろん、無事な顔は見たい。剣は、カイの無事を確信させてはくれたけれど、それでもきちんと会って確かめたい。
しかし、無事と知れた途端、サクラには別の思いが湧き上がってきてしまったから。
どんな顔で、カイを迎えれば良いのか分からない。送り出した時以上に。
カイがいない間は、その安否を気遣うことだけで頭がいっぱいだったのに、無事に帰って来るとなったら思い出してしまった。
カイに抱きしめられたのだ。
分かっている。あれは、サクラの不安を宥めるための抱擁だった。それ以外は何もない。
だけど、今、思い出しても顔が熱くなる。背中に回されたカイの腕や、顔を埋めた広い胸に、心がざわめいて、大いにサクラを悩ませる。
サクラは、横になったまま扉を見つめた。
隣にいるのはカイなのだろうか。いや、カイに決まっている。カイ以外に、夜中にその部屋を訪れる者がいる筈もない。
顔は見たい。でも。
出迎えるべきか迷い、出迎えない方を選んで瞼を閉じる。
出迎えても、きっと煩わすだけ。
弱気な本音を、そんな言い訳でごまかした。
だが。
隣へと繋がる扉が、静かに開かれれば、出迎えない訳にはいかなかった。
「・・・おかえりなさいませ」
身を起こして迎える。
薄暗い中に、金の瞳が光っていた。
カイは部屋へと入り、ベッドの傍らに立って、サクラを見下ろした。
ほっとする。本当に、無事に戻ってきたのだ。
湯浴みを終えたらしく、黒髪が濡れている。薄い夜着を羽織り、さっぱりとはしていたが、さすがに疲れているようだった。
そして、何故か少し苛立っているように見えた。
気のせいかもしれない。どうと理由がある訳ではない。今そこに立つ男は、いつものように静かだ。
カイを迎え入れてみれば、思ったより自分が動揺していないことに安心しながら、それでも、つと視線を下げて、どうしてかきつくシーツを握っている自身の拳を見た。
「何故、ここにいる?」
それが自分のベッドにいることを問われているのだと分かり、サクラは答えた。
「今日、お戻りになるとは思いませんでした。お疲れでしょう。どうぞ、あちらでお休み下さいませ」
明らかな疲れを見せる夫と同じベッドに入るのは気が引ける。
カイはとても眠りが浅い。サクラの身じろぎにさえ目を覚ましてしまう夫を、サクラは知っている。
サクラがいなければ、ぐっすり眠れるだろうか。
そして、また、サクラ自身、カイに抱かれて眠れるだろうか。
「疲れていると思うなら、余計な手間はかけさせるな」
言われたその意味を考える間もなく、カイに抱き上げられた。
抱かれたことよりも、触れた身体の冷たさに身が竦んだ。
カイの体はすっかりと冷え切っていた。腕も、胸も、サクラを包むのは温もりではなく、冴え冴えと冷たい肌だった。
カイは湯ではなく、水を浴びた?
日中ならば寒さを感じる季節ではないが、夜中に水浴びは尋常ではない。
「殿下?」
囁くように呼びかける。返事はない。
「・・・カイ様」
もう一度、今度は名前で呼びかけるとカイの足が止まり、サクラを見た。
少し、張り詰めたものが緩んだ気がした。しかし、カイは黙したまま扉をくぐると、大きなベッドにサクラを降ろした。
横になることもできず、サクラは降ろされた体勢のまま俯いていた。
衣擦れの音で、カイが夜着を脱ぐのを知る。揺れでベッドに上がってくるカイを知り、彼が横になるのを見届けてから、少し離れて横たわった。
すぐにカイの腕が抱き寄せるように回される。
サクラの意思に反してビクンと揺れた体に、カイの腕が不審げに緩む。
「申し訳ありません。冷たかったので…大丈夫です」囁くと、再び腕はサクラを抱き寄せた。
そう、冷たかったからだ。他に理由はない。
冷たい身体を暖めるように、自らも身を寄せながらサクラは瞳を伏せた。
カイの規則正しい鼓動と、上下する胸が、サクラを落ち着かせていく。
「お帰りなさいませ」
もう一度。
「・・・ご無事でよかった」
独り言のように。
カイは、何も言わない。
これでいい。
これで、いつもの夜が帰ってくる。
目覚めれば、いつもの朝が来ているだろう。
サクラは程なく眠りに就いたようだった。
華奢な身体が、無防備にカイに寄り添っている。
カイは、起きていた。
疲れていた。
そして、猛っていた。
戦いの後は、その相手が人であっても、魔物であってもこうなる。
クタクタで眠りたいのに、高揚した精神がそれを妨げる。
だから、戦いの後は女を抱いた。
物慣れた女を抱いて、熱を吐き出して眠るのだ。
今も、参戦した多くの狩人が、かの国でそうしているだろう。
だが、カイは一人、ここへと戻ってきた。
無理に戻る必要はなかったのだ。国王は、国賓としてカイを受け入れる準備をしていたし、翼竜にも休養を取らせるべきと分かっていた。しかし、魔獣を討ち、剣が手元から消えたと同時に浮かんだのは、出立の時のサクラの不安げな様子だった。
そうなれば、ここに戻ることしか、考えなかった。
夜が明けるのを待ってあちらを出たが、疲労の激しい翼竜はたびたび休憩を要し、予想よりもかなり時間がかかった。それでも、翼竜を励まして。戦いは終わった筈なのに、今度は疲れた己の体と戦いながら。
ここに戻ってきた。
願いは、サクラの眠るベッドに横たわることだけだった気がする。そこにサクラがいなかった時の、落胆と怒りは自分でも衝撃的だった。
しかし。
今、願いを果たしてみれば、今日はここに戻るべきではなかったと思わざるを得ない。
肘をついて身体を起こし、ゆっくりとした呼吸を繰り返す妻を見つめる。
抱き心地は悪くなさそう・・・シキの言葉が、多少の苦々しさを帯びながら思い出される。
薄く柔らかな生地が描き出す身体の線が、どれだけ女性としてのしなやかさを備えているか、カイとて承知している。出立の時に抱きしめた暖かさも柔らかさも、生々しく。
男に抱かれるその時を待つかのような、女としてできあがったばかりの肢体を、サクラは持っていた。
カイの指がサクラに伸び、一瞬の・・・本人さえ気がついていないかもしれない・・・逡巡の後、それは長い髪を掬う。初めて触れた時から、この感触が気に入っていた。
軽やかで、滑らかな。
肌もまた、滑らかなのだろうか。
カイは娘を見下ろした。
華奢な体は、簡単に組み敷ける。押さえつけて、貫くことは造作もないことだ。
唇を、サクラの首筋に近づける。
快楽を知って、零れる声は甘いのか。
カイを受け入れるそこは熱いのか。
しかし、カイはサクラに触れず、髪を離し、そっとベッドを降りた。
今日はここに戻るべきではなかった。
今の自分は普通ではない。
サクラに望んでいない筈のことを、強いてしまいそうだ。
カイは、部屋を出た。
あれは鞘の娘。いずれ妻として抱くことがあっても、今、こんな欲望に駆られて組み敷くべき者ではない。
抱く女ならば、いくらでもいる。
それをサクラに求める必要はなかった。