52話 誓い
緩やかな風に頬を撫でられ、その感触で目が覚める。
目を開けば、天上は七色の輝きを放つ水晶だった。
少し見つめて、魔法石製であると、ぼんやりと分かった。
「ティアラ」
右隣から私を呼ぶ声がした。
確かな、優しくて温かい声。
首を動かせば、微笑むアレックスが座っていた。
「よかった……」
彼は短く発して、私の右手を両手で包んで、自分の額に付けた。
私も彼の手を、軽く握り返す。
「ここは……?」
「精霊王の居城だ。魔力が豊富で、ティアラの療養にも良いと言われた。……一時は本当に、どうなることかと……」
そう言われて、私は意識を失う前について思い出す。
……そうだった。
「私、力を使い果たして……」
「生死の境を彷徨っていた。せめて魔力があればと思っていたところで、精霊王が駆けつけてくれてな。ありったけの魔力を渡して、ティアラを助けてくれたんだ」
「そっか。……じゃあ、精霊郷は、元に戻ったんだね」
「ティアラのお陰でな」
「……ちなみにアレックス。あの時、泣いていた?」
朧げな記憶の中にある、彼の涙。
薄れゆく意識と世界の中で、それだけが鮮明だった。
「……できれば忘れてほしい」
頬を少し赤くして、アレックスはそっぽを向いた。
そんな彼に、なんだか可愛いなと感じてしまう。
「ごめんなさい。心配、かけたんだね」
「正直な。ティアラが死にかけていたから。……結局、使うなと言った聖女の力もあれだけ盛大に使ったのだし」
文句ありげなアレックスに、私はベッドから上半身を起こした。
「アレックスだって、一人で精霊郷に残ったじゃない。デミスに頼んで、私を強引に精霊郷から連れ出して。あれ、まだ許してないから」
するとアレックスは一瞬固まってから、こちらに少し迫った。
「あっ……あの時はあれが最善だと思ったんだ。ティアラの力を使わなくても、バァルさえ倒せば、精霊郷が元に戻るなら……」
「それでアレックスが精霊郷から二度と戻らなかったら、意味ないじゃない。実際、バァルに操られた精霊たちもいて、どうなるか分からなかったんだし」
「あんなもの、どうにでもしてみせたさ。どれだけ数の差があっても、俺にはこの肉体と聖剣があった。力を使ったら疲弊するティアラと違って……!」
「アレックスの体は傷付いたら治らないでしょう? あんな危ないこと、たった一人でするなんて……!」
……その後は、もう何がなんだかといった状態になった。
アレックスと口論をしたことなんてなかったけれど、お互いに言いたいことは全部言い切った。
そもそも私がやりたいって言ったことなんだから、あんな無茶をするくらいなら、最初からついて来ないでとか。
それを言ったらティアラだって無茶だっただろう、精霊郷に向かうと決めた時から力を使うつもりでいただろうし、俺は極力、ティアラの願いを叶えながら力の行使を止めたかったとか。
信じろと言うなら私も信じてほしかったとか。
信じたところであの力は使わないことが最善だっただろうとか。
その後もお互い、一層熱が高まってしまい、最終的には、
「そこまで言うなら、なんでこんなに私に構うの! 私だって子供じゃない!」
……なんて言ってしまった時には、思わずハッとしてしまった。
──私、なんてことを……⁉
アレックスは、私が困っていたから、王国に連れて行ってくれたのに。
親切でずっと構ってくれた相手に「なんでこんなに私に構うの!」はあんまりだ。
……そこまで言う気はなかったと、流石にごめんと一言、伝えなければと……緊張で鼓動が高まった時。
「……好き、だからだ」
顔を赤くして話したアレックスの一言に、今度は鼓動が止まった気がした。
直後、別の意味で鼓動がまた高まる。
「……はい?」
思考が止まった結果、思わず聞き返してしまった。
「だから、好きだからだ。『大切だから』必要以上に構った。……すまない。信じてなどと、抽象的な伝え方が過ぎた。『大切だから』力を使ってほしくなかった。あんなふうに、疲弊してほしくなかった」
言いながら、アレックスはもっと顔を赤くする。
それでも一言一言、確かに紡いでくれた。
ただ……それを聞くたび、私も顔や耳に、全身が熱くなっていく感覚があった。
──えっ……えっえっえっ……えぇぇぇぇぇぇぇ⁉
自分の心臓の鼓動が耳に届いてしまうようだ。
それくらい、心臓が早鐘を打っている。
まず、何を言ったらいいのだろう。
というかこの王子様は、私なんかに何を言っているのだろう。
思考が頭の中をぐるぐると巡った末、何か言わなくてはと、口から出た言葉といえば。
「い、いつから……? 友達って言葉、真に受けていたんだけど……?」
──って、あれっ、これじゃあ責めているみたいじゃん!
焦りのあまり、思考と言葉が上手く繋がらない。
アレックスから突然、男女の仲という意味での好意を打ち明けられたという事実が衝撃的すぎて、落ち着けなかった。
「……俺だって、自覚したのはつい昨日、ティアラが死にかけた時なんだ。でも、自覚した以上は仕方がない、誤魔化したって、ぎくしゃくするばかりだろう?」
照れたような、恥ずかしがるような雰囲気を出しながらも、物事をはっきりさせたがるアレックスらしい言葉だった。
「寧ろティアラはどう思っているんだ?」
「……どう、とは……?」
「俺のことを」
……今、聞かれて一番困ることを、ストレートに聞かれてしまった。
アレックスのことは、もちろん大切だ。
こんなふうに好意を伝えられて、嬉しいのは本当だ。
でも生まれてこの方、こんなふうに好意を伝えられたことがないので、どう返事をすればいいのか分からない。
そもそも相手は王子様、自分で吊り合うのだろうか。
ただ、あれだけ聖女の力を使うなと言われた件は、これで合点がいったかな……なんて。
これらの考えが頭の中をぐるぐると巡って、言葉にならなかった。
「えっと、その……!」
「ティアラ」
アレックスは再び、私の手を両手で包み込んだ。
さっきまではなんとも感じなかったこの行為も、今はされるだけで、鼓動が高まる。
彼の真っ直ぐな視線に射られて、目が離せない。
「は、はい……」
「偽らなくていい。本心で伝えてくれ。どんな返答になったとしても、俺は後悔しない。こうしてティアラに思いを伝えたことを。それに……」
アレックスはどこか儚げな笑みを浮かべた。
「もし断られても、俺たちは元通り、親友に戻るだけだ。……親友に戻ると約束する。これは俺のわがままだと思ってほしい。どうなろうとも、この思いは確かめないと、俺自身が前に進めない気がしたから。だから……どうか本心で」
そう言いながら、アレックスの瞳は揺れていた。
ただ、私も彼の言葉で、自分の心が洗われていくようだった。
……偽らなくていい。
そうだった。
私は偽聖女と呼ばれて、帝国の宮廷を出る時。
これで自由に生きられます、って言ってきたんだもの。
これからとか、返事の仕方とか、身分とか、力とか。
そういうものに縛られない答えを出してこそ、自由な生き方ではなかったのか。
私も両手で、彼の両手を握り返してから、深呼吸を一度して、
「私も。……私も、アレックスが好き」
そう言い切った後は、自然と言葉が零れてきた。
「嬉しかった。今日までずっと。王国に連れて行ってくれた時。リンジーさんの魔道具店に連れて行ってくれた時。魔族から守ってくれた時。度々、私を気遣ってくれた時。……私のために、泣いてくれた時」
「ティアラ……」
「私、誰かのために泣いたことはあっても、誰かに泣かれたことはなかったから。そんなに大切にしてくれているって分かって、嬉しかったよ。ありがとう」
自然と笑みが零れて、アレックスを見つめる。
力強くて、頭がよくて、竜を従えていて、王子様で……何から何まで持っていて、近くにいるけれど、友達でいることすら畏れ多いなんて思っていたのに。
今は彼との距離が大きく縮んだ感覚があって、それがとても温かく、嬉しかった。
「改めてよろしくね、アレックス」
「こちらこそだ。……安心したよ」
少し気の抜けた様子の彼は、これまで以上に人間味があった気がした。
……そう思った時、部屋の隅、いつの間にか小さく扉が開いているのに気付いた。
扉の向こうにいる二人と目が合って、二人は「「……あっ」」と声を合わせた。
「何、誰かいるのか⁉」
アレックスが素早く扉を引くと、扉の前にいたらしいウィルとシェリーが倒れ込むように部屋に入ってきた。
「ご……ごめんなさい! 盗み聞きする気はなかったんだ!」
「様子を見に来たら、王子様がいたから。外で待っていようって。でも……きゃっ」
顔を青くするウィルとは対照的に、シェリーは顔を赤くしている。
……さっきの私とアレックスのやり取りを思い出しているのだろうと察して、また自分の顔が熱くなってくる。
アレックスも少し顔を赤くして「そうか……」とはにかんでいた。
「一応、あまり言いふらさないでくれると助かる」
「もちろん! そういうの、無粋……って言うんだろ?」
「私も! 二人の恋路は邪魔したくないから!」
賑やかにはしゃぐ双子に、さっきまでの緊張感が霧散していくようだった。
ただし、ウィルとシェリーは妙に興奮しているようで、
「王子様、聖女様のどんなところが好きなんだ?」
「聖女様は? どうなの?」
……面と向かって聞かれれば、子供相手になんと答えたらいいのだろうという内容だ。
アレックスも「それはだな……」と珍しく口ごもった時。
「こら。二人とも、なんてことを聞いているんだ。特に病み上がりの聖女様を困らせるんじゃない」
開きっぱなしの扉の向こうから、ウィルとシェリーの頭に手を置く人物が現れた。
「カリルさん……!」
ウィルが見上げれば、カリルは二人の頭を前にぐいっと倒した。
「ほら、まずは謝る」
「「ご、ごめんなさい……」」
カリルは双子の頭から手を離し、ぺこりと一礼した。
「申し訳ございません。二人とも、どうにも元気が有り余っていて……」
「いいんです。そんな二人だから、一緒に精霊郷を元に戻せたんです」
「……いいえ。この子たちを含めた、我ら精霊の力ではありません。聖女様、あなたがいてくれたからこそです。命を懸け、精霊郷を取り戻してくださったこと。精霊郷に生きる全ての者が、あなたに感謝と尊敬を捧げています」
カリルは片膝を突いて、私の前に伏せた。
ウィルとシェリー曰く、カリルは騎士の精霊だという。
礼儀正しく、さっぱりとした立ち振る舞いは正に騎士らしく、バァルに操られていた時とは大違いだ。
本当に、元に戻せてよかった。
「そして我が王が、聖女様にお会いしたいと。構いませんでしょうか」
「ええ、もちろんですが……」
答えた途端、部屋の中央が淡い七色の輝きを発する。
光が形作っていったのは、精霊堂の柱の中で眠っていた人物。
精霊王その人だった。
「……精霊王様?」
「その通り。ここは私の居城なので。どの部屋も自由に出入りできるのですよ。ちょーっと驚かせてしまったかな?」
男女どちらにも見える中性的な顔立ちだけれど、声音も同様だった。
しかし風に乗る音色のような、美しい声だと思った。
それに精霊王の性格や口調は、ジャレッド公のような厳格なものではなく、砕けた柔らかなものらしかった。
「はてさて、レリス帝国……じゃなかった、エクバルト王国の聖女。今回はあなたのお陰で本っ当に助かった。心の底からありがとうという言葉を送らせていただくよ。……消滅した賢者の精霊から聞いているかもだけど、二百年ほど前にハリソンから大いなる災厄が起こる、みたいなのは聞いていたんだけどさ。まさか魔族が精霊化して蘇るとは。そんなの、魔族が暴れた二百年前でさえ起きなかったから、完全に想定外だった。いやー、君がいなかったら、精霊郷は冗談抜きで滅びていたよ。というか、君らが魔族を倒すまで、滅びる前提で精霊郷を人の世界から遠ざけていたのだし」
うんうんと頷く精霊王。
気取らず、ざっくばらんな物言いの精霊王に、カリルは心なしか曖昧というか、微妙そうな笑みになっていた。
「その、王よ……」
「何かな? 我が騎士」
「僭越ながら、もう少し、こう……」
「私に威厳を求めたってそんなもの出てこないよ? 精霊は元来自由な存在だからね」
「左様ですか……」
このやり取りだけで、カリルは結構苦労しているんだなと悟った。
「で、私としては君らに何かしらの形で礼をしたい。望むものとかないかい?」
「の、望むもの……」
少し考えてみるけれど、特に思い浮かばなかった。
それに、私としては──
「精霊王様」
「何かね?」
「私は精霊王様の魔力で命を繋いだと、アレックスから聞きました。そうしていただかなければ、私は死んでいたかもしれません。そうして助けていただいただけでも十分です」
──命の恩を、命で返されたのだから、それで十分。
これが私の感じた、素直な思いだった。
しかし精霊王は納得のいかない様子で、驚いたように話し出す。
「私としては、そんなの当たり前の行いだったんだけど……。だってこっちは助けてもらった側だし。ちなみに王子は?」
「ぜひ精霊郷の全土を見学させてください魔導発祥の地を余さずこの眼に焼き付けたいです」
アレックスは半ば早口気味に言い切った。
……そういえば、アレックスは魔導的な意味でも精霊郷に来たかったのだった。
精霊王は一瞬きょとんとしてから、
「ははっ、構わないとも! 全て許可しよう! 魔族を討った英雄なら、全精霊が歓迎するさ! ここまで欲に素直だと清々しくて気持ちがいいね」
はっはっは、と大笑する精霊王。
レリス帝国、エクバルト王国、シルス精霊国と三つの国の為政者たちを見てきたけれど、国が違えば統治者もこんなに違うのか。
……レリス帝国の宮廷でずっと暮らしていた私としては、様々な意味で衝撃的だった。
「じゃあ、王子の願いはそういうことで。聖女の方は保留ってことにしよう。精霊郷を救った礼が魔力だけじゃあ、それは私の恥でもある。魔力なんてこの精霊郷には腐るほどあるんだし。……あと、それとね」
精霊王は真面目な面持ちになって、私の胸元を指差した。
「改めてだけど、君の力は使いすぎない方がいい。もう、君を大切にし、愛する者もいると分かっているだろうし」
精霊王がちらりとアレックスの方を向けば、彼は目を瞑りながら、小さく頷く。
……もしかしたら、さっきの私とアレックスのやり取りは、精霊王にも聞こえていたのかもしれない。
「把握している限りでも、歴代聖女の死因は力の使い過ぎによる魔力不足か、魂の消失だ。君の魔力は歴代聖女の中でも随一だから、簡単に魔力不足で死ぬことはないし、魔力が多い分、魂の再構成速度も速い。でもね……改めてしっかり認識してほしいんだ。君の持つ聖女の力は奇跡そのもの。奇跡の代償は、時として人の身には余るものになる。世界は必ず代償を取り立て、代償が君だけで足りない場合、それは傍にいる者に向かうかもしれない。……それをよく覚えておくんだ」
あまりに神妙で平坦な声。
淡々と必要なことを告げているこれは、説明ではなく忠告だ。
しっかり肝に銘じるべきことだと理解してから「……分かりました」と返事をした。
「ふむ、分かってもらえたなら、よし! いやー、ね。私もこんな真面目に説教する性格じゃないから。話していて緊張しちゃったよ。どう、それっぽかった?」
今度は元通り、とんでもなく砕けた雰囲気になってしまった。
「そ、それっぽかったです……」
思わず生返事をすれば、カリルは額に手を当てた。
「王よ……」
「何かね? 我が騎士」
「……。どこまでもお供いたします……」
「忠誠心の厚い配下を持てて、私は幸せ者だ! はーっはっはっは!」
再び大笑する精霊王。
その笑い声は威厳をどこかへ吹き飛ばすようでありながら、不思議と下品とは感じなかった。
精霊特有の気品というものがあるのかもしれない。
ただ……確かに感じたこともあった。
──カリルの言った、どこまでもお供いたしますって言葉。忠義もあるだろうけど、一人にしたら心配で仕方がないって意味なんじゃ……。
おまけにウィルとシェリーの自由奔放な性格の出どころも、なんとなく分かった気がした。
***
……目覚めてからの日々は「怒涛」の一言に尽きた。
リンジーさんに合流したら、精霊王の居城の広間にて、宴のように広げられた料理の数々を無心で食べていたり。
マナは泣き声で──魔導書だから涙は流さないけれど──しきりに『大丈夫か? 本当に大丈夫か?』と問いかけてきて、アレックスに「いい加減、静かにしろ」と怒られていたり。
年始じゃないけど今回ばかりはと、精霊郷の外からジャレッド公も精霊王に呼ばれ、その場でジャレッド公にも丁寧にお礼を言われたり。
……その後に始まったのは、当然、アレックス主導の精霊郷巡りだった。
人間はデミスに乗って、精霊たちは竜の精霊に乗って、精霊郷の各所を巡っていった。
一週間ほどかかったものの、アレックスは終始、子供のように輝いた笑顔だった。
王国の魔導博物館に行った時と全く同じ様子で、思わずくすりと笑みが零れた。
こうやって皆で楽しめるのも、精霊郷を元に戻したからこそだった。
最後はウィルやシェリー、それに精霊郷の精霊たちに盛大に見送られながら、私たちは帰路に就いた。
ウィルとシェリーは別れを惜しんで泣いていたけれど「また会えるよ」と伝えれば「「きっとだよ!」」と元気よく返事をしてくれた。
私たちなら、いつ来ても歓迎してくれると、温かい言葉を精霊王も送ってくれた。
こうして精霊郷での騒動は、無事に解決となった。
ただ……うん、ただし。
アレックスにとって本当に大変なのは、多分、帰ってから。
即ち、今なのだと思った。
……エクバルト王国の王城、竜舎の前にて。
降り立ったデミスの目の前には、圧力を感じる笑みを浮かべたソフィア様が立っていた。
驚くほど美しい顔立ちなのに恐ろしいと感じるのは、その身に纏う気配のせいだろうか。
豊かな胸の下で腕を組むソフィア様に、デミスは『クゥン……』と切なそうに喉を鳴らした。
「デミス」
ソフィア様の一言を受けたデミスの行動は素早かった。
体を反転させ、背に乗るアレックスをソフィア様の前に向けたのだ。
……まるで、差し出すかのように。
「兄弟……⁉」
裏切られたと言わんばかりのアレックス。
しかしデミスは知らないと言いたげにそっぽを向いた。
……それに、あのデミスが小刻みに震えている。
ソフィア様の怒りが自分に向くのを恐れているかのような。
賢いデミスは主を差し出さねば自分が危ないと悟ったらしい。
「アレックス。……正座」
「はい」
アレックスは即座にデミスの上から降り、ソフィア様の前で正座になった。
私とリンジーさんもデミスの背から降りると、
「お二人はそのままで。まずはこの愚弟から話を聞きますので」
ソフィア様に笑みを向けられただけで、リンジーさんも「……ひっ」と息を漏らす。
……もしかしたら、この王国で最も恐ろしいのはこの御方なのかもしれない。
「アレックス? どうして私が怒っているのか、分かるわね?」
「……突然、シルス精霊国に向かったからでしょうか?」
恐る恐る、敬語で答えたアレックスに、ソフィア様はだんっ! と地面を踏みつけた。
衝撃でヒールが砕けないか心配だったけれど、地面とヒールも空気を読んだらしい。
ソフィア様はこめかみに小さく青筋を浮かべた。
「違うわよ? 事情はお父様から聞いたけれど。状況が状況だったもの。仕方がないと私も分かっているわよ? 私が不在のうちに飛び立った件も不問にしましょう」
「なっ、ならば……!」
なぜ怒っているのかと言わんばかりのアレックス。
しかしソフィア様に顔を近付けられ、即座に押し黙った。
「私が怒っているのはね……このふざけた手紙」
アレックスの眼前に突き出されたのは、一通の手紙。
そういえば、アレックスは精霊郷の散策に出発する前、精霊郷から出るジャレッド公に、テオたちに手紙を渡していただくよう頼んでいた。
アレックスはあの時「先に王国に戻って、無事と状況を皆に伝えてほしいという内容の手紙だ」と私に言っていたけれど……。
『突然ながら、俺たちは暫し精霊郷を巡る。テオたちは先に王国に戻って、俺たちの無事と状況を皆に伝えてほしい』
──えっ……本当にこれだけ⁉
恐るべきことに、手紙にはこれだけしか書かれていなかった。
思えばあの手紙は、ジャレッド公が精霊郷から出る前にと、アレックスが大急ぎで紙とペンをウィルとシェリーから受け取って、書いていたけれど……。
──これは怒られるって……。
テオたちは精霊郷に入っていないから、詳しいことは知らないのだし。
いくら急いでいたとはいえ、擁護のしようもなく、ソフィア様のお怒りも至極真っ当だった。
「精霊郷を巡る前にっ! まずは詳しい説明と報告をしに戻っていらっしゃいっ!」
「し、しかし姉上! 精霊郷だぞ⁉ 魔導発祥の地にして、人間は基本、立ち入れな……」
アレックスは必死に弁明しようとしたものの「お黙りなさいっ!」というソフィア様の一言で打ち砕かれていた。
「あなたの魔導好きは知っているし、ジャレッド公がカリルという精霊と共に、魔石通信で多くを教えてくださったからいいものを。今回はちょっと強めなお説教を……」
既に始まっているお説教に、アレックスは項垂れるばかりだ。
しばらくはこのままかな……と思っていると、遠方から「兄上!」と高い声がした。
アレックスもそちらへ顔を上げると、
「コリン!」
アレックスの弟であるコリン第二王子が駆けてきた。
立ち上がったアレックスのお腹に、コリン王子は勢いのまま抱き着く。
「兄上、無事でよかったです……!」
そのままコリン王子はわんわんと泣き出してしまう。
アレックスは困り顔で「すまない、心配をかけてしまった……」とコリン王子の頭を撫でる。
そのままコリン王子を構い始めたアレックスに、ソフィア様は「全く……」と嘆息した。
「ティアラさんにリンジーさんも、ご苦労様でした。アレックスに付き合わされての精霊郷散策、大変だったでしょう?」
「いえ、私たちもそれなりに楽しんでしまったので。ただ、止めなかった私たちも悪かったので、アレックスへのお説教は……」
ソフィア様はコリン王子をなだめるアレックスを見つめた。
「そんなの、これじゃあ有耶無耶にする他ないわね。それに私があれこれお説教するより、コリンに泣かれた方が、アレックスも堪えるだろうし」
「それは間違いないですね……」
あれだけ可愛い弟に泣かれたら、今後は改めようと間違いなく思うだろう。
「ティアラさんもお待たせして悪かったわね。リンジーさんも、今日はゆるりとお疲れを癒してください。状況の把握も済み、無事も確認した以上、お父様と話すのは明日以降でもいいでしょうし」
「そうさせていただきますよ。では、私はこれにて。……ティアラも無理をせず、ちゃんと休みなよー?」
リンジーさんはそう言い残し、用意されていた馬車に乗ろうとした……手前。
「えっ、おいらも一緒? ご主人様と一緒じゃなくて?」
リンジーさんの持つマナが声を大にしていた。
「解読作業がまだ途中だからね。さ、帰るよー」
「え、ええぇ⁉ また魔導符を貼るのだけは勘弁しておくれよ⁉」
「黙っていればいいだけさ」
「そんなー!」
賑やかにしながら、リンジーさんとマナは魔道具店に帰っていった。
……それからというもの。
泣き疲れたコリン王子はアレックスに抱き上げられていたものの、他の騎士により、自室へと運ばれていった。
ソフィア様は「やっぱり後でもう少しお説教ね」とアレックスに釘を刺して立ち去り、デミスも自ら進んで竜舎に戻っていった。
最後にその場に残ったのは、私とアレックスの二人だけだった。
「ドタバタしたけれど、ようやく戻って来られたね」
「そうだな。誰一人欠けなかったのが奇跡だ。おまけに師匠も、魔導学会で発表する内容は、精霊門……もとい異空間へ繋がる門を題材にしようと言っていたし。師匠にとっても実りのある旅路になってよかった」
……と、アレックスの話を聞いたところで、ふと思い出したことがあった。
「誰一人って、そういえばクライヴは……?」
思えば、二度目に精霊郷へ入る直前が最後の別れだった。
あれ以降、精霊郷の外に出ていなかったので、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「あいつなら大丈夫だろう。テオも多少は事情を知っているし、テオたちと先に戻ったはずだ。今頃は王国だろう。それにジャレッド公に渡した手紙は二通あって、片方はクライヴ宛だ。中身を見られてもいいよう、名前や踏み込んだことは書けなかったが……。奇抜な格好の従者宛にとジャレッド公に伝えたし、きっと大丈夫さ。もっとも、そちらを書くのに時間を取られて、テオ宛の手紙はさっきの通り、あのザマだったがな」
「あの手紙があんな内容だったのは、そういう理由だったんだね」
少し納得したような、でも頑張ってもっと書くべきだったような……。
「何にせよ、クライヴについては問題なしということだ。失踪した空白期間についても、あいつなら上手くやるだろう」
「うん……そうだね」
思えば、クライヴにも沢山、力を貸してもらった。
今度会ったらお礼を伝えよう、ありがとうって。
……それに、クライヴだけじゃない。
ウィルとシェリーから始まって、大勢の人たちのお陰で、私たちは精霊郷へ行けた。
始まりは、ウィルとシェリーに助けを求められたこと。
でも、それから先は……ある意味、私なりの意地だったのかもしれない。
助けられるなら助けたいという、思い。
ただ、今後はもっと気を付けようとも思った。
「改めてだけど、ごめんね」
「……? 何がだ?」
シルス精霊国、もとい精霊郷のある方向の空を眺めていたアレックスが、意外そうにこちらを振り向いた。
「さっきのコリン王子を見て、思ったの。私も同じようにアレックスを泣かせて、心配させたんだなって」
「……泣いたのは忘れてほしいが……」
少し照れた様子のアレックスに、私は笑いかけてみる。
「忘れないよ、絶対に。……だって、私のために泣いてくれる人がいるなら、少しは自分を大切にしようって、思うもの」
するとアレックスは目を丸くしてから「……そうか」と微笑んだ。
「なら、やはりもっと早く、自分の気持ちに気付いて、向き合うべきだったな。たったそれだけでティアラが自分を大切にしてくれるなら。これまでの全てが、遠回し過ぎたらしい」
アレックスは私の前で片膝を突いて、二本の聖剣を横向きにして、互いの間に置いた。
さらに剣の鞘の上に、大きな黒い鱗……デミスの鱗を置いた。
「……アレックス、これは?」
「王国に伝わる、竜騎士の伝統の一つ。己の魂に見立てた剣と、相棒である竜に、誓いを立てるという意味がある。そして誓いには、それを聞く者が必要だ。……聞いて、くれるだろうか?」
「うん、ちゃんとね」
アレックスは、確かな力強い声で言葉を紡ぐ。
「ティアラは、しっかりと王国に戻ってくれた。それに自分を大切にしてくれるとも。ならば俺はより一層、この国と君を守ろう。君の帰る場所と君自身を、ずっと守り続ける」
「ありがとう、アレックス。私も、これから何があっても、この王国に帰ってくるよ。ここがあなたの国で、あなたがここに帰っていいと言ってくれたから。私はここで、あなたの傍で生き続ける」
アレックスは立ち上がって「ありがとう」と、私を抱きしめた。
……思えば、こうして誰かに真正面から抱きしめられたのは、初めてかもしれない。
身内もなく、行く当てもなく、未来の予定もなかった。
そんな私を導いてくれたアレックスは、私に多くのものをくれた。
だからこそ、私も彼に、多くのものを渡していこう。
今、彼が私に、温もりを与えてくれているように。
私も彼に、温かいと思ってもらえるように。
そうやって、これからを生きていこう。
それが私の中にある、偽りではない、本心なのだから。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
2024年10月4日に本作の書籍版2巻が発売されます。
書籍版限定の描写や綺麗な挿絵もありますのでよろしくお願いします。
そして月刊コミック電撃大王とカドコミにて連載中のコミカライズも1巻が発売中です。
そちらもぜひよろしくお願いいたします。