18. end : エフューロ・オール=ダード
「エフューロ様、まだですの?」
「ふふっ、まだ、だめ」
彼の笑う声が聞こえる。
顔に触れるひんやりとした皮膚の感じ。
目の見えない人が形を確かめるように、目を瞑ったわたくしの顔を彼の手がたどっていく。
「まずは僕の感触に慣れて」
「見たって平気ですわ」
「だめだよ」
嗜めるように指先が唇をなぞる。何度も。
「直前になって、やっぱり嫌だなんて言われて、初夜に手袋越しでしか新妻の肌に触れられないような夫になりたくない」
「しょっ?! も、申しませんわ……」
「だめ」
これだけ頑なだと言うことは何かトラウマがあるのかもしれない。
わたくしは説得を諦めて彼の好きにさせる。
口も閉じると自然と彼に集中し、さっきよりも感覚が鋭敏になる。
傷の境目が襞になってわたくしにひっかかり、内側の溶岩のようにぼこぼことした部分とケロイド状になったつるつるとした部分が、そろりと肌をすべる。
もう本当に痛くはないのかしら。
あの手袋には人目を避ける以外の役割もあったのではないだろうか。
今更ながら心配になってくる。
結局、わたくしはエフューロ様ともう一度婚約を結んだ。
もともと、断罪の原因であり、権力により嫌がっている人を無理やり従わせてしまった負い目から解消したいと思っていただけだから、問題が解決した今、彼が本当に嫌ではないのなら、こちらとしてもかまわなかった。
むしろ、わたくしよりも嫌がっていたのはお父様の方だ。
他にいい男ならいくらでもいるだろうと、毎日毎日、国内外から集めた美青年の姿絵をわたくしの目につくところすべてに貼っていたほどに。
片や、
「で、式はいつ挙げるのかね?」
そう催促をうけるほどオール=ダード侯爵はご機嫌でこの結婚に前のめりだった。
エフューロ様がこちらに来ることで、オール=ダード侯爵領はアストリード家の領地として併合されることが決まったと言うのに。
婚約を何とか阻止したいお父様の度を越したあらゆる我が儘を、驚いたことにオール=ダード卿は首を横に振るどころかすべて呑んだ。
侯爵が自分に残してほしいと唯一頼んだのは、1枚の絵のみ。
はるかな昔、まだ隣り合うオール=ダードとヴァルターに親交があった頃に描かれたもの。互いの家族が仲良く手を取り合っている1枚。
その絵に描かれた1人の女性を見つめるオール=ダード侯爵の目を見て、わたくしはこの方が今まで誰とも婚姻を結ばなかった理由を知った気がした。そして、彼がこの事件にどうして全てを賭けたのかも。
「今からでも、わたくしがお父様を説得いたしますわ。何も領地を手放さずとも……」
「いや、これでいいのだ。儂があの子に出来ることなど、このくらいしかないのだからな」
わたくしを遮って、侯爵は野太くも穏やかな声で語りかける。
「ご令嬢、どうか、あの子を頼む。愚かな妹の様子を見に行った時、あの子はひとり、まるで痩せこけた野良犬のようだった。いや、野良犬なら気まぐれに餌を与えられることもあるだろう。だが、あの子は……」
当時のことを思い出したのだろう。首を振って苦い記憶を追い払う。
「此度の一件は、儂にとって終わらせるべき重要な問題だったのだ。そしてそれに無理やりあの子を付き合わせた。せめて、願いくらいは叶えてやらんとな。でなければ、この世界に本当に絶望してしまいかねん――」
「――何を考えてるのかな?」
エフューロ様からかけられた言葉で現実に戻る。
「いいえ、何も。……少し、婚約のことを思い出しておりましたの」
流石にあの会話を正直に告げることはためらわれて、咄嗟に誤魔化す。
「なに? まさかとは思うけど、今更解消したいって言い出すわけじゃないよね?」
「いいえ、そのようなことある訳がございませんわ」
こちらを撫でまわしていた彼の手が止まり、声にわずかに警戒が混ざった。
見当違いの方向に話をもっていかれてはたまらないと、わたくしは誤魔化した言葉を何とかそれらしく理由として繋げる。
「ただ、あのようにあっさりだとは思っていなかったもので……」
「指輪は贈ったと思うけど? もっと大きいのが欲しかったってこと?」
「そういう即物的なことではございませんの。単純に、その、エフューロ様から直接プロポーズの言葉はいただいていなかったと……」
そもそも婚約の申し込みがあったのもお父様からきかされたものだったし、お前はどうするのかと尋ねられて答えた“はい”も、アストリード家からオール=ダード家への書簡で伝えられたものだった。
途中もろもろはあったものの、次に会った時はもう婚約が決定していて、結局、彼から左手の薬指に婚約指輪をはめてもらっただけだった。
目を瞑っていても、彼が大きなため息をついたのがわかった。
「プロポーズの言葉って、幸せにすると誓うから結婚してくれとかそういったものだろ」
「ま、まぁ、ええ、そういった感じのものですわね。人によりますけれど」
「馬鹿みたいだと思わないかい」
「何がですの?」
突然の言葉に思わず目を開けてしまった。
けれど、彼はそれを咎めることなく冷たく笑って、
「誓いだよ。神の前だとか、みんなの前でだとか。誓ったところでそれを厳粛に守る奴が何人いる? 結婚の誓いというものに意味があるのなら、なぜ離縁という言葉が存在するんだい?」
それは婚約者に、しかもいずれ貴方の花嫁になろうとしている相手に言う言葉だろうか。
わたくしの表情に呆れを見たのだろう。
反省するどころか、彼の目が意地悪そうに細まり、わたくしは心の中で嘆息する。
片鱗は見せていたけれど、仮面をとったエフューロ様は本当に性根が屈折している。
とは言え、彼を責めることはできない。約束という言葉は彼の心と体に深い傷を残しているのだから。
それにわたくしは知っている。
平気なふりをしながらも、一番最初にわたくしに触れるとき、とても怯えていたことを。
まるで傷跡が素肌に触れることが禁忌であるかのように、恐る恐る貴方は感触を教えてくれたことを。
そもそも、こちらとて他人の性格のことを言えた義理ではない。
今でこそ前世のおかげで強制的に己を客観視させられ反省できただけで、愚かという点ではわたくしの方がはるかに上だった。
しかもそのようなわたくしを少なくとも彼は嫌ってはいなかったのだから、ある意味、わたくしよりもよっぽど懐の深い人間と言えるのかもしれない。
そうね。考え方の違いよね。
彼はちょっと人よりも鋭角的に世の中を見ているだけなのよ。
確かに、彼の言うことも一理ある。
誓ったところで浮気をする人はするし、誓わない人は裏切るのかと言えばそうでもない。
言葉は言葉でしかないのだ。
大切なのは、心がどこにあるかということ。
「おかしなことを申しましたわ。お忘れください」
自分なりに納得してそう告げたのに、彼はなぜか不服そうだった。
「君は、そういうのを信じているよね」
彼が口にする“信じる”という言葉には常に嘲笑の響きが含まれている。
幼い彼に与えられた苦痛はそう簡単に消えるものではないのだ。それを思うといつも胸が締め付けられる。
だからこそ、わたくしは彼に誠実であろうと思う。彼の中にわたくしが残せるものが少しでも優しいものであるように。
彼にではなく、自分に契るのだ。
「僕は信じない」
「ええ、存じておりますわ」
わたくしは彼の目を正面から受け止め言葉を返す。
変わってほしいとも変えようとも思わない。
ただ、いつか、彼に伝わりますようにと願っている。
わたくしの返事にしばらく黙りこんだ後、ふいに、
「だったら」
彼の顔がゆっくりと近づいてくる。甘えるような微笑みで。
「エフューロ様?」
それは、言葉を使わない誓い。
愛情の囁きの代わりに降りてくるのは、唇。
重なった箇所から、わたくしに触れる手から、彼の想いがわたくしを呑み込む。
羽音よりも密やかな声でもって、
「君が教えてくれよ。僕に、一生をかけてさ」
なんというひねくれたプロポーズだろう。
けれど、吐息の合間に交わされるその口づけは言葉よりもひどく甘く、約束の味がした。
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