18. end : オーストラ・ルシェル
「やっぱり、赤くなっているね」
わたくしの足を確認し、オーストラ様がこちらを見上げる。
涙目のわたくしと目が合って彼が苦笑する。
「気に病む必要はないのに」
「で、ですが、オーストラ様もお怪我を……!!」
「小鳥のように軽かったから全く気が付かなかったよ。大したことじゃない」
そのようなわけがない。
よろけた拍子に体重のほとんどがかかったのだ。そうとう痛かったはず。
なのに、彼は笑って目の前で軽く床をトントンとつま先で蹴って見せる。
「ほら、ね?」
日頃から交流のある近隣諸国からのアストリードへの招待状。
同伴者必須の今日の舞踏会にルシェル家に恐る恐る打診したところ、何と快く2つ返事で引き受けてもらえることになった。
そうして事前準備のための衣装合わせ。
そこでのオーストラ様があまりにも王子様だったから、ついわたくしも見栄を張ってしまった。慣れない靴を履いてしまったのである。
だって、こちらのほうが足が長く美しく見えるし、オーストラ様とのバランスも良かったのですもの……。
結果、わたくしはしびれた脚でステップを間違え、よろけ、オーストラ様の足を見事に踏んだ。
それなのに、
「僕の方こそ、気が付けなくてごめんね」
こうして、加害者のわたくしのほうが気遣ってもらっている。
「今、玄関ホールが混んでるらしくて、馬車が来るのに時間がかかるみたいだから、少しここで休憩してから帰ろうか」
とりあえず足の様子を見ようと避難したテラス。
窓から漏れる会場の明かりと音楽と、月明り。風が火照った肌に気持ちがいい。
「オーストラ様、お話が弾んでいらっしゃったのではなくて? わたくしはこちらで休んでおりますから、オーストラ様だけでもどうぞ――」
たしか彼はダンスの前に他国の外交官とおしゃべりをしていた。
相手も文学的なものを好むようで、散文について盛り上がっていたのを覚えている。ダンスが終わったらまた話をしようと誘われていたのも。
貴族にとって社交の場というのは戦場にも近い。顔を売り、繋がりを広げる。
これから領主として貴族界に進出していく彼にとって、外交官はぜひとも押さえておきたい相手でもあったはず。
今だって、彼の存在を気にして、大勢の女性が窓の近くをうろうろしている。彼女たちの中には当然ながら外交官よりももっと上の地位の子女たちもいるのだ。
「ううん。僕もちょうど疲れていたところ。やっぱり、初めての場所は緊張するね」
彼は笑ってわたくしの隣に腰かける。
本当にお優しい方だわ。だから、勘違いしてしまいそうになるのよ。
わたくしは自分を戒める。
「もしお疲れでしたら、休憩室がございますのよ? そちらでしたら、ゆっくりお休みしながら他の方とお話を――」
「僕が、傍にいるのは嫌だった?」
「そういうことでは、ございませんけれど……」
気を遣ったつもりだったのに、嫌がっているように伝わってしまったのだろうか。
彼はとてもつらそうな顔をしている。
嫌ならそもそもパートナーとして声をかけたりしない。むしろ、わたくしはただ自分の我が儘で彼を選んだ。だから、付き合わせてしまった彼にせめてもと思って、そう提案しただけだ。
それを説明しようとしたところで、先に彼が口を開いた。
「気が付いた? 今日の衣装はね、君をイメージしたんだ」
それは知らなかった。
彼の今日の服装は、基本は白だけれど、ライン、ネクタイ、マントは目の覚めるような青。そしてそれを留める金具も、ボタンも、裾に入っている刺繍の色も金だった。
白と金――正確には黄色――はルシェルの紋章の色だから、てっきりそうなのだと。
内向的な彼はまだ貴族の世界ではデッドリー様やミラー様のようにその存在を知らしめてはいない。
故に、この色の組み合わせはアストリードの交友にルシェルがあると強調させたい女公爵の意向だと思っていた。
わたくしの色だったなんて……。
「でしたら、光栄ですわ」
嬉しかった。心からの正直な感想だったのに、なぜか彼は顔を曇らせる。
「オーストラ様?」
「うん。だから、僕は自分で止まらなくちゃいけないんだ。君がいつも全部受け止めてくれるから。いっそ、ミラーのように思うままに振舞えたらと考えることもある」
「どういうことですの?」
「……このままでいいと思ってた。傍にいられるのなら」
「……?」
「愛は残酷だと思う。恋という切っ掛けを与え、深い穴に突き落とすのに、そこから出る方法は教えてくれないから」
どうしよう。何を言いたいのか全然わからない。
ただ、彼がとても苦しそうなのは分かる。
愛だの恋だの口にしていたから、きっとアーシアさんのことよね?
だとするのなら、励ました方がいいのだろう。
「あの、気になさる必要はございませんわ。オーストラ様は本当に素敵なお方ですもの。デッドリー様やミラー様とは違う魅力を――」
「その名前を君に口にしてほしくない」
低く遮られた。
どうして怒るの?
励ますのではなくて、慰める方が良かったのかしら?
それとも、アーシアさんをめぐって争う恋敵として、今、その名前は聞きたくなかったってことかしら?
だったら、
「アーシアさんのような女性は、きっとオーストラ様のようなお優しい方がお似合いだと……」
言葉が最後まで出てこなかった。
彼があまりに傷ついた顔をしていたから。
「あの、わたくし何か間違ったことを申し……」
「僕は君が考えるほど優しい人間じゃない」
「なぜ、そのようなことを? オーストラ様はわたくしの過去の愚行も笑って水に流してくださいましたし、わたくしのことをいつだって気遣ってくださいますし、常にお優しくて――」
「それは君のためじゃないんだ……」
彼が呟く。
わたくしを想ってしてくれたことではないことくらい分かっている。
別に自分が特別だなんて考えてもいない。アーシアさんの存在を忘れたこともただの一度もない。
でも、彼が優しさを否定すると、そのとき嬉しかった自分の感情まで否定されたような気持ちになって悲しくなる。
想い人ではないのなら、喜ぶ資格すらないと言うこと?
「……なぜ、そこまで仰られるのかわかりませんわ。なぜ、お伝えしてはいけませんの? 誰から何といわれようと、わたくしはオーストラ様のそういう点を好ましく思っております。わたくしの大切な思い出まで否定されたくはありません!」
「ち、ちょっと待って! 何か勘違いを――」
「それは、もちろん許可はいただいておりませんけれど、想うくらいなら自由なのではなくて?! わたくしがパートナーをお願いするのに、どれ程の勇気を必要としたかご存じ?! 何のために、このような痛いだけの靴を履いてきたと思ってらっしゃるの!? なぜ、わたくしが心惹かれた点を当人に貶されなくてはいけませんの!? そう感じたわたくしが悪いと仰るの!?」
情けなくも踏んだことは棚に上げてわたくしは自分の感情を爆発させる。
ついさっきまで彼の方が怒っていたというのに、今では彼が、猛るわたくしをなだめている始末だ。
「どうか、落ち着いて。悪いなんて言ったつもりはないし、そういう意味で言ったわけじゃないんだ。それより、あの、さっきの言葉、まるで君が僕のことを好きだと言っているように聞こえたのだけど……」
「……な、何のことだか分かりませんわ」
一瞬にして我に返った。
目をそらし、無理やり言い逃れしようと試みるが、当然通じるわけがない。
「僕はてっきり、君はデッドリーかミラーのことを好きなのだと……」
今度はわたくしが目を丸くする番だった。
「な、なぜ、そのようなことをお思いに?」
「それは、デッドリーは当主として十分すぎるほどの才覚を持っているし、自信もあって堂々としているし、ミラーは明るくていつも君のことを楽しませているし……君の方こそ、どうしてアーシア嬢の話を?」
「彼女は、あのように愛らしいですし、性格もたいそう良い上に、とても賢くてオーストラ様の難しいお話にもついていくことができます。きっとオーストラ様もアーシアさんを……」
「……っ、あははっ」
わたくしが彼女の美点を挙げていると、突然オーストラ様が笑い出した。しかもお腹を抱えるほどに。
「オーストラ様、いかがなさって?」
「ごめんね。だって、おかしくって。僕たちは、お互いに勘違いして、お互い勝手に絶望してたってことだよね」
この流れで言うと、そういうことになるのかしら。
ええ、多分、オーストラ様もわたくしのことが好きなのなら、そうなるわよね。
……え、本当に?
「つ、つまり、オーストラ様はわたくしのことを?」
「好きだよ」
実にあっさりと彼は重大なことを口にする。
「君のことが好きだよ」
茶番、とはこういうことを言うのだろうか。
傍から見ていれば今までの会話はさぞや滑稽であっただろう。
「まいったな。とり繕うことならいくらでもできるのに、向き合って話をしようとするときは、僕たちはいつも何だかおかしなことを言い合っているね」
「……ええ、本当に」
「振り返ると、自分が恥ずかしいな。さっき、僕、ミラーやデッドリーに嫉妬してたんだよ」
「そのことを仰るなら、わたくしこそですわ! わたくしも……」
そう言いかけて、2人同時に笑いだす。
「今、何を考えてたの?」
「その、わたくしたち、またおかしなことを言い合っているのかしらと……」
「僕もちょうど思ってた」
わたくしたちは顔を見合わせ笑い合う。
喧噪は遠く、いつの間にか窓辺から様子をうかがっていたご令嬢たちの姿も消えていた。
夜風が優しくほほをなで、マントが翻る。
夜の闇の中で金色の髪が揺れて紫の輝きが浮かび上がる。
彼はわたくしに微笑みかけると、静かに跪いた。
「僕、オーストラ・ルシェルはユーラシア・アストリード嬢を心から、愛しています」
そう言いながら、わたくしの手を取って、指先にそっと口づけを落とす。
「僕の想いを受け止めてくださいますか?」
わたくしはそこに自分の唇を重ねて答えた。
「ええ、喜んでお受けいたします」




