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01. side : アーシア_1

ぱちん。


木がはじけた音に、私は目を覚ましました。


まだ朝には遠いのでしょう。窓掛けの隙間から差し込む明かりはなく、炉格子の向こうの炎が唯一の光です。


広い部屋に合わせた大きな造りの暖炉には、寝る前に十分薪が入れられていたため、天蓋から垂れる寝台の仕切り布も開けられたまま。辺りは春のように暖かく快適でした。


話し込んでいるうちに、いつの間にか寝入ってしまったようです。


目の前には私を守るように腕を伸ばした、輝く髪をもつ女性が眠っています。閉じられている瞳は、澄み渡った雲一つない空の色。唇はバラの花弁のように麗しく、それでいてあどけない子どものように屈託なく開き、笑い声を紡ぐのです。


今日、いえ、正確には昨日のことですが、舞踏会の会場に足を踏み入れた時には、よもやその夜、こんな運命の出会いが私を待ち受けているとは思ってもいませんでした。それも私と最も縁のない大貴族、アストリード侯爵家のご令嬢様だなんて。


あの時はまだ、怪我をしてしまったお隣のお姉さんの代わりに侍女として1日働くだけだと思っていたというのに――


「お、お願いします。離してください……!!」


私の言葉にも、貴族様は意に介しません。


ただ不気味に、目をほくそ笑ませるだけでした。私を掴んだ手は汗ばんで脂ぎって、たるんだ顎のお肉が喋るたびに震え、お酒臭い息を吐き出します。


「お前の粗相のせいでこっちは怪我をしたんだ。金を払うのは当然だろうが」


「そ、粗相って……」


告げられた金額は到底払える額ではありませんでした。


そもそも手が掠めただけなのに怪我だなんて。


そう訴えても酔っているせいなのか、まったく聞く耳を持ってもらえません。


どんどん周囲に人は集まってくるのに、皆遠巻きに私を眺めるばかりで助けてくれる人は皆無です。


つき飛ばして逃げ……ううん、もし今度こそ本当に怪我をさせてしまったら、お父さんとお母さんがどうなるか分からない。


奉公先のお嬢様だって、ご挨拶をした途端不機嫌になってしまって、私の衣装に飲み物をこぼし何処かに行ってしまったのだもの。


「これだから平民の小娘は。まぁ、払えないと言うのなら他の方法もある」


てらてらと濡れ光った舌が厚い唇を嘗め回すのを見て、おぞ気が立ちました。


何を言おうとしているのか明白でした。


「っ……!!」


怖い。


助けを求めたいのに歯の根がかみ合わず、恐怖で声が出ません。


頭に浮かぶのはお父さん、お母さんの顔です。


新年に、いつも忙しい両親に何か贈り物ができればと代役を引き受けただけなのに、こんなことになるなんて。


「ええい、さっさと来い!」


拒めば、きっと両親が咎められるでしょう。


かと言って、言うとおりになんて無理です。


……舌を噛むしかないのね。


腕を強く引っ張られ、そう覚悟を決めたときでした。涼やかな声が辺りに響いたのは。


「あらあら、このような場所で――」


人垣が割れ、カツカツと高らかな音で現れた人は、開会式の挨拶で見かけた大貴族に連なる方です。


人の隙間からかろうじて見えた姿に、なんて美しい人なんだろうと思ったのを、覚えています。


騒ぎを聞きつけて来られたのでしょう。険しいお顔です。


普通の貴族様ですら眺めているだけなのに、更にその上の方が平民に手を差し伸べるだなんて到底思えません。


でも同じ女性として、もしかしたらほんの少しは憐れみをこぼしてくださるかもしれない。誹りを受けたとしても、この方の足に縋りついてでも、慈悲を乞い願おう。


伸ばす手が震えます。


助けてくださいと声に出して訴えたいのに、舌は凍りついて上手に回りません。


大貴族様はそんな私を見て、私と貴族様を遮るように立たれました。


凛と、真っ直ぐな背中。後ろ姿ですらその美しさは全く損なわれていませんでした。


にじむ視界の中で、私はその瞬間、分かったのです。もう、大丈夫なのだと。


恐怖とは違う涙が、こぼれました。


あとからあとからこぼれて、止まりませんでした。


「――子爵は去ったから、もう安心よ」


そう言って抱きしめられた腕の中は温かく、いい香りがしました。


「あのご令嬢はね、自分を引き立てるためにわざと野暮ったい服を着せた侍女を連れて回るつもりだったのに、来たのが貴女のように可愛らしい少女だったから、怒ったのよ。役立たずだなんて、そのようなことは絶対にないわ。貴女に悪いところは全くなくてよ」


白い指が優しく頬の涙をぬぐいます。


何も言っていないのに、なぜそんなことまでご存じなのでしょう。


もしかして、怒られていた私を見て気にかけてくださっていたのでしょうか。


こんな方がいらっしゃるなんて。


触れられた箇所が熱を持ち、心臓が早鐘のように鳴っています。


息の仕方を忘れてしまったような、この胸の苦しさは何なのでしょう。


「あの、わ、私――」


ぱちん。


再び木が爆ぜ、薪が崩れる音で私は我に返りました。


揺れる暖炉の火明かりが、私の家の2階分くらいある高い天井と四柱式寝台を変わらず穏やかに照らしています。


床のじゅうたんも室内履きもふかふかで、歩くと雲の上を進んでいるようです。


念のため暖炉を確認しましたが、変わらずあかあかと燃えていて特に新たにくべる必要はなさそうに思えます。


いつものことなのか、年始にむけて厄払いのために特別に焚き続けているのかは分かりませんが、これだけ惜しみなく薪を使うことができるだなんて流石大貴族様というほかありません。


「私には遠い遠いお方だわ」


お互いにそのはずでした。


上位の貴族様が縁もゆかりもない平民を助ける必要はなかったというのに。


だからでしょうか。


許されるなら、この方のそばにいたい。この方の力になりたい。


そう、強く思うのです。


もしかしたら、会話の合間、ふと見せた不安げな様子が気にかかっているのかもしれません。


貴族様の世界は私には想像もできない言葉が多く、唯一“コウリャクタイショウ”というのが男性を指し、その人が何やらユーラシア様のお心に不安の影を落としているようなのだということくらいしか分かりませんでしたが。


「ユーラシア様……」


起こさないようそっと手に触れ、私は静かに誓います。


私を優しく抱きしめ、涙をぬぐってくださったその手に。私を庇うように立った時、小さく震えていたその手に。


「身分の低い私にできることなどないかもしれません。」


でも、あなたは気まぐれとか義務ではなく、私を助けるために勇気を出して前に出てくださった。


「だから、今度は私の番です。何があっても、私は貴女の味方です」

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