12. デッドリー・ブロクラック_3
「やっぱり、無理よね」
こっそり会場を抜け出して、星花の庭にわたくしはやってきた。
もしかしたら、月明りか何かで伯爵を見かけていたのではないだろうかと思って。
けれど、やはり記憶の方が正しかった。
あの日、わたくしが立っていた場所からでは、たとえあの男性が伯爵であったとしても頭に浮かんだもののように見えるはずがなかったのだ。
「せめて、あの男性をちゃんと確かめておけば……」
もしくは、ちゃんと勉強してヴァルターの印章を覚えていれば。
たらればを言えばきりがないのは分かっているけれども、それでもそうしていれば、少なくともルシェル女公があれほどまでに追いつめられる前に何とかなっただろう。辺境伯の件だって、あと数週間は早くケリをつけられたかもしれなかった。
「……いいえ、悔いたところで事態が好転するわけでもないもの。今できることを考えなくては」
あの日と同じ格好はできても、行動の再現までは強要したところで意味がないだろう。わたくしが犯人でも、正確に辿るような馬鹿なことはしない。
なにか、別の判別方法はないものか。
考え込むわたくしの耳に、あの日と同じように足音が届いた。
もしや、と咄嗟に身を隠そうとしたところへ姿を現したのはデッドリー様だった。
全体的な装いは黒いのだけれど、ところどころに目と同じ赤色をあしらった衣装は、容姿と相まって明かりの乏しい場所でも非常に目を惹く。
「……ああ、なるほど」
彼は庭の方に目をやって、わたくしがこちらにやってきた理由を悟ったようだ。
「確かに、これでは分からないとしか言いようがないな」
「お役に立てず、申し訳ございません」
「何故謝る? 責めたつもりはないが」
「申しあげたとおりです。お役には立てそうにありません」
彼はわたくしを不思議そうに見やり、
「以前にも言ったと思うが、見つけてもらった時点で十分助かっている。これは、本来ならば俺たち7大貴族当主が行うべき仕事なのだからな」
そうは言うが、わたくしも7大貴族の娘なのだ。
本来は噛んでいてもおかしくはない一件に、彼からもお父様からも勘定に入れられていない。同じ立場の人たちが当たり前に知っていたことを、ただひとり知らされていなかったということ。
皆は優しいから何も言わないけれど、それがとてつもなく恥ずべきことなのだと今は分かる。
本当に、本当に自分が恥ずかしい。
知識もなく、能力もなく、親から溺愛されているとはいえ、ただ優秀な婿を迎えればいいと思われている存在。
その婿ですら、わたくしは顔で選んだ。
「全てにおいて情けない限りです。お従兄様のことも……」
いつぞや、たまたま訪れたお従兄様がバラしたのだ。ラシアは僕の顔が大好きなんだ、と。
ミラー様なぞはそれを聞いた途端、「オレ、顔の方向性が全然違う!」などと叫んでいたのだけれど。
「……顔が好み、だったか。別に間違ってはいないだろう」
「えっ?!」
一番馬鹿にされると思っていたのに。
顔に出ていたのだろう。彼はわたくしを見て相変わらずの不愛想で、
「能力はあるに越したことはなく、それを利用できて初めて能力といえる。外見を整えられるのも能力の一つだ。客観性をもてないというのは独善的思考に繋がる。危うい。真に愚かなのは、知識であれ体力であれ、それただ一つに依存することだ。血が繋がっているから、などという理由だけで甘い汁を吸おうとたかってくる無能よりは、余程信用ができる」
だから、彼は全てにおいて努力をかかさないのだろうか。
わたくしとはレベルが異なる、厳しい彼の環境が思いやられた。
ふいに足音が聞こえ、とっさにわたくしとデッドリー様は顔を見合わせる。
気のせいではない。どんどん近づいてくる。
まさか!?
十分に身を隠せるような場所に移動しようにも、もう人の気配はすぐそこで時間がない。
デッドリー様と抱きあうようにして、わたくし達は柱と壁の隙間に身を寄せた。
「満を持しての登場か……?」
来るとは思っていなかったが、とデッドリー様が期待半分といった面持ちで、呟く。
地面と靴がこすれ合うような音はちょうど、例の場所辺りで止まった。
緊張が高まる。
話し声が聞こえてくる。
「2人いるということかしら?」
「らしいな」
デッドリー様が少しだけ首をひねり、柱から顔をのぞかせる。
苦々しい声が漏れた。
やはりここからではわからないのだろう。
それにしても狭い。壁を背に、デッドリー様に押さえつけられているような恰好なので、密着度が非常に高い。
以前にも思ったけれど、本当に体を鍛えており、目を瞑れば前にも壁があると錯覚してしまうくらいだ。ミラー様も普段はお調子者だけれど、やはり手はマメだらけで、休日には騎士に混じって稽古を欠かさないと聞く。逆にオーストラ様は他国の法律まで網羅し、知識で公爵領を支えている。
では、わたくしは、何をしてきたのだろう。
レースとフリルに包まれ、侍女に磨き上げられてきた自分の身体をじっと見る。
答えは明白だった。
話をしようとしても、お父様が、すべて私に任せておきなさいとやんわり言うはずだわ。
落ち込みそうになる思考を振り払い、聞こえてくる声に耳を澄ませる。
「……くだらん遊戯に付き合わされるのも、終わりにしてもらいたいものだ」
「終わりになるだろう。詳しいことは知らんが、評議会に報告する必要があるほどのことをやらかしたんだろう? あそこの穀潰しも、最後くらいは役にたってくれた」
ははは、と警戒しながらも堪えきれない笑い声が響く。
届く会話の端々に隠していてもわかる北部訛り。
北部――黒い猟犬の領地だ。
わたくしに聞き覚えはないが、デッドリー様には誰か分かったのかもしれない。
無意識なのだろう。彼が腕に力を込め、ますますわたくしは彼に押し付けられる形となり、思わずうめいた。彼がびくっと反応し、狭い中でも慌てて距離をとる。
「それにしても、あんなガキに公爵家のすべてをみすみす奪われるとは、本家の奴らも情けない」
同時に吐き出された言葉はデッドリー様をもっとひどく貶したものだった。
「……よく言うわ」
わたくしは小さく毒づく。
デッドリー様は正統な唯一の後継者であり、先代が亡くなって数年、継いだ領地と経営を亡くなったその翌日から冷静に切りまわしてきた。お父様が褒めているのを耳にしたことがあった。
それどころか、たたむ寸前だった事業ですら彼は立ち直らせたのだ。
むしろ足を引っ張っているのは彼らの方だろう。
関係者ではないわたくしがきいていても酷いと感じる。許されるなら出て行って文句を言ってやりたいくらいだった。
そもそもデッドリー様にしっかり押さえられていて、かなわないのだけれど。
彼は大丈夫かしら……?
顔を伺えば、たまたまこちらを向いていて目が合った。
大丈夫だ、とでも言うように小さくうなずく。慣れているその様子が余計に胸に響く。
本人がきいているともつゆ知らず 、無責任で無遠慮な誹りはまだまだ続いていた。
段々気が緩んできたのか、声も大きくなってきており、今や耳を澄まさずとも届くほどになっていた。
「そういえば、エーゲン伯爵が新しい事業を始めたと聞いたが……」
「あそこはアストリード卿が一強だっただろう。どこまで食い込めるか見ものだな。場合によっては、支持を変えた方がいいかもしれん」
唐突に出て来た我が家に、おもわず体が強張った。
馬鹿にしたように笑い声が追いかけ、
「変えるも何も、あそこの娘を見たことがあるか? あれでは、今の代で終わるだろう」
「確かに、とりえと言えば顔だけか。他に何もない」
「おいおい。間違えるなよ、顔と体だけは見事なものだろうが。中身が全部胸に詰まったんだ。許してやれよ」
覚悟はしていても放たれる言葉に体が固まる。無意識のうちに彼の袖をつかんでいた。
彼がそれに反応したので、急いで先ほどの彼と同じように気持ちを伝える。
今ここで騒ぎを起こすのは賢明ではない。大丈夫だ、と。
「ははっ、そうだったな。だが、それを使ってつかまえた男があれではな」
「ヴァルターか。よりにもよって、何とも勿体ない。あの身体ならいくらでも売り込み先があっただろうに。本当に残念だ。俺だって、一晩くらいたっぷりと味わってみたかった」
「今からでも遅くはないだろう。あのおつむだ。上手く言えば、今夜にも喜んで俺のをしゃぶ――」
聞こえなくなった。
わたくしの制止を振り切り、デッドリー様が飛び出して殴りつけたのだ。
殴られたひとりは地面に倒れ、もう片方は突如躍り出た公爵にぽかんとしている。
「血は水よりも濃い、か。これ程陋劣な人間とわずかばかりでも繋がっていることが憤ろしい」
かなり怒っているのだろうか。普段にもまして声が低い。
「侯爵の前にまとめて突き出されるのと、俺の領地から今すぐ荷物をまとめて消えるのと好きな方を選べ」
「デ、デッドリー、いや、今のは軽いじょ……」
「言うまでもないと思うが、アストリード侯は令嬢を何よりも大切にされている。侯爵が望むのなら、俺はどのような処罰であっても応えるつもりだ。くだらない冗談を今後口にできないよう、縫い付けろと言われてもな。ああ、それとも俺がその卑俗な話にオチをつけてやろうか。言った当人こそが、不能の、クズどもだったのだ、と」
彼は帯びていた剣を抜き、月明かりを受けてきらりと輝いたそれを彼らの脚の間に突き入れる。儀仗でも用心のために実用を使っていると耳にしていたが本当だったらしい。
ひっ、と彼らは悲鳴を上げ、先を争うようにして逃げていく。あっという間に闇に消えていった。
見送ったデッドリー様はこちらを振り返り、眉根を寄せて、
「すまない。本当に悪かった」
「……えっ?」
差し出されたハンカチで、初めて気が付いた。自分の頬を流れるものに。
「俺は、昔からああいった手合いを相手にしてきたから気が付かなかったが、お前はそうではなかった。謝るべきは俺の方だ。正体が分かった時点で飛び出すべきだった。連中の品性は分かっていたのに、何か口走るのではないかと、あいつらを切り離すのに有利な証言が手に入るのではないかと、そのままにしてしまった」
ハンカチを受け取り、急いで拭う。
違う。傷ついたわけではない。
無力感に苛まれていたところに、当たり前の事実を、自分がいかに愚かで他人にどう見られていたかという事実を、侯爵令嬢であるがゆえに包まれてきたものを、露骨に名指しで突きつけられて少しショックだっただけだ。
頭では分かっていたのに、甘やかされてきた令嬢の心が受け止めきれなかった。
ベッドの上くらいしか使い道のない――いや、ショックを受けるまでもない。無能なのは言われなくても分かっていたはずなのだから。
わたくしは強張った顔を無理やり動かし、なんとか彼に笑う。
「閣下に謝罪いただく必要はございません。前半においては……ある意味、本当のことですもの」
「いや、それは違う。――座れ。会場に戻るとすぐにミラーが駆け付けてくるからな。今のお前を見られたら、俺は一晩中、奴のうるさい文句を聴く羽目になる」
彼はコリドーの段差部分にマントを広げ、指し示す。
とりあえず言われたとおりに従うと、彼は言葉を探すようにわたくしを見、空を見、花園を見、しばらくして、
「――……俺は、お前が努力しているのを知っている。印章の件以降、警戒していたから、よく見ていた。それに忘れるな。印章を取り戻したのは他の誰でもない、お前だ。お前がいなければ、俺はいずれ当主の座を追われていただろう。俺が居なければ公爵家はあっという間につぶれたはずだ。俺ほど有能な奴はいないからな。つまり、お前は公爵家も救ったのだ」
ジョークではなく本気で、自分の自慢を入れてくるところに笑ってしまう。それだけの努力を重ねてきているからなのだけれど。
「……ありがとうございます。閣下にそうおっしゃっていただけると、少しだけ自信がもてます」
「ああ。それに俺は知っている。オーストラの為にお前が飛び出したとき、俺は正直に言って驚いた。俺なら、絶対にしないことだったからだ。考えすらしなかった」
「あのことは、考えて動いたわけではありませんから……もっと他に方法があったのではと今は思っております」
「ならば、心のままに動いたということだろう。真実、お前の本性であるということだ。俺はそういう人をかつて知っていた。敬愛していた。そして身にしみてわかっている。そういう人間は、絶対に逃げない。裏切らないのだと」
「閣下……」
「物事の正誤ではなく、少なくとも俺は、他人のために己を投げ出せる人間に領主の資格がないとは思わん」
わたくしをじっと見つめ、それだけ言うと彼は重いため息を一つ付いた。
何かつらいことを思い出したのだろうか。閣下の顔はお世辞にも穏やかとは言えず、口を開いては閉じ開いては閉じと何度も繰り返した後、暗く一言、
「……もう、言うことがない……」
遅れてその言葉の意味することを理解した途端、我慢しきれず吹き出してしまった。
彼は心底嫌そうな顔で、
「笑うな。ミラーとは違う。あいつのように途切れることなく女を慰め続けるなど、俺には無理だ」
「ですが、余りにも深刻なお顔をなさっていたので……っ……」
「笑うなと言っているだろう。とにかく、他人の言うことなど気にするな。俺もそうだった。ミラーやオーストラ、アーシア嬢のように難なくこなせるほど器用ではない。俺たちのような人間は、少しずつ努力していくしかない」
「えっ?!」
「どうした?」
「い、いいえ……」
閣下がわたくしをご自分と同列に置いていることに驚かされた。
夜の相手くらいしか能がないと笑われていた、このわたくしを……?
「わ、わたくしも、努力すれば変われるでしょうか?」
友人を傷つける未来を、誰からも期待されない愚かな自分を、変えられる?
「知らん」
……嘘でも肯定してくれればいいのに。
でも、そこが彼らしい。胸の中に温かなものが広がっていくのを感じる。
「――やっと見つけた!」
遠く、ミラー様の声がかかる。
わたくしたちを心配して探していたのだろう。向こうから、ミラ-様とオーストラ様とアーシアさんが駆けてくるのが見えた。
念のために顔に触れると、もう涙は乾いていた。
わたくしは彼らに聞こえないよう小さく告げる。
「ありがとうございます、閣下。……わたくし、頑張りますわ」
彼は少しだけこちらを見て、珍しく笑った。
「ああ、その意気だ」




