04. side : ミラー・マイエン
自習室に戻ったら、自分の腕を枕に彼女が机の上で顔を伏せて寝ていた。
剣の先生に呼び止められて戻るのに時間がかかったからだ。待っているうちに眠くなっちゃったんだろう。
「オレから勉強を教えてってねだったのに、悪いことしちゃったな」
学年末考査に向けて、いろいろと頑張っているみたいだし。
重みで頬がつぶれ、いつものきれいな顔が、あどけない可愛らしいものになっている。
可愛い。すごく可愛い。綺麗なのに可愛いって最強だし、すごく反則だ。
彼女がオレにトドメを刺しに来てるとしか思えない。
「おーい、ラシアちゃ~ん。こんなところで寝てたら、オレが抱っこして連れて帰っちゃうよ~?」
小さい声で呼びかける。
起こしたいのか、起きてほしくないのか、自分でもよくわからない。
「オレ、キミのことほんとに好きだから、マジでお持ち帰りしちゃうよ~?」
ねえ、起きて。
今の言葉、聞いててくれたらいいのに。
彼女を前にすると、自分でも滑稽なほどに落ち着きがなくなるのが分かる。
今日はどんな話題でどんな風に楽しませよう。
頭の中で何度も事前練習しているはずなのに、いつも、彼女の笑顔で一瞬にして頭が真っ白になる。
少し前まで、言葉はいくらでも流れ出てきていたのに、今思い浮かぶのは面白みもなく使い古された陳腐なものばかりで、しかもそんな単純なものですら舌がもつれてうまく話せない。
彼女の顔にかかる白金色の髪をそっと払う。
もし、もっと早く彼女をよく見ていたら、今頃この距離も変わっていたのかも。
もっと近くに座って、もっと親しい話をして、もっと触れ合って……。
「そこに誰かいるのかな?」
ふいに声をかけられ、悪いことをしていたわけでもないのに咎められた気持ちになり、彼女から少し距離をとる。
「エフューロ先生……」
「どうかしたのかい?」
ラシアちゃんの婚約者……彼女は別れる予定だと言っていたけれど、今のところその先には進めていないようだった。
先生は彼女を見つめて、目を細め、笑う。
まるで、自分の落とし物を見つけたみたいに。
「ああ、彼女、眠ってしまったのか。疲れているのかな。ありがとう。起こそうとしてくれたんだね。彼女のことは僕が責任をもって送っておくから、君は帰っていいよ」
気に入らない。
その言い方も、彼女に冷たい対応をとるくせに別れは承諾しないとことか、何もかもが。
「いえ。オレが彼女を送っていくので大丈夫です」
オレの言葉にさっきとは違う感じに先生は目を細め、笑った。
「君は寮生だろう?」
「そうです。でも、馬車を呼ぶので大丈夫です」
「ああ、僕が彼女に変なことをしようとしていると思ってるのかな。安心していいよ。僕は、彼女の婚約者だから」
仮の、だろう。
そう言いかけて何とか呑み込む。
「オレが、連れて帰るので、大丈夫です」
言い聞かせるように、一語一語区切って告げる。
ずるいとは思ったけど、親父の名前も借りた。
「父から彼女の家へ言付けもあずかってますし、いつでも遊びに来てほしいって言われているので」
アンタはあの家で彼女以外から歓迎されてないだろ。
言葉に隠したものが届いたのか、今度は、口の端だけで笑う。
「……そう。じゃあ、君に頼もうかな。ラシアはいい友人を持ったみたいだね。彼女の婚約者としても嬉しい限りだよ」
それだけ言って、去っていった。振り返るかと思ったけれど、そんなことはなく。
書棚の向こうに姿が消えたのを確認して、ゆっくりと息を吐く。
いつの間にか、拳を強く握っていた。
もしオレに動物みたいな毛が生えていたら、絶対に逆立てていたと思う。
起きたかもと思ったものの、彼女は今のそんな空気に気が付くこともなく、相変わらずすやすやと眠っている。
「眠っている女の子の顔を眺めるのは、さすがにマナー違反だよな……見ていたいけど」
とりあえず、彼女の向かいに腰掛ける。
これなら、彼女の顔は見えないけど、彼女のことは見ていられる。
時計を見上げる。
鐘が鳴るまであと3分。そのくらいなら、この時間を味わったって許されるはず。
耳を澄ませば、彼女の寝息がかすかに聞こえてきてドキドキする。
「我ながら、ちょっと変態っぽいよなぁ……」
でも、呼吸する音、それすらも可愛い。もうキミの何もかもが愛しくてたまらない。
彼女がわずかに動いて、開いていた教科書のページが縒れる。地理だ。
北の公爵家は剣と牙をむいた猟犬、ルシェル家の冠をかぶった鷹、書かれてなくても覚えてる波に麦と雲雀と古い星花、それから辺境伯領を示す鋭い爪をもつ赤い獣。そして、アストリッド家の常緑樹と星。
獅子と星の新しい紋章、ありだと思う。ただ、侯爵は年を取ってできた一人娘を溺愛しているから手放さないだろう。ということで、入り婿もオレ的にはあり。
親父に話したら、「俺もありだな」と笑っていた。従弟に見込みのあるやつがいるらしい。頭もよく、剣の腕もたつ奴が。
多分、口には出さないけど、兄貴が死んでからはオレが生きてさえいれば親父にとっては十分なんだと思う。
鐘が鳴り始めた。
「もう少しだけ……」
せめて鳴り終わるまで。それまでは。
今はまだ、もう少し。
いつか、ずっとに変えてみせるけど。
鐘の音に反応して彼女が声を上げた。目が覚めたらしい。
魔法の時間は終わった。
彼女に届かないように呟く。
「オレ、本気だから――覚悟しててね」
ミラー編終了。この編での出来事が次のオーストラの事件に繋がります。
オーストラ編で夜会など一部の謎が解けます。




