2 仮面を脱いだ夫婦
夜会が終わり、いちはやく会場を出たふたりは、邸宅に帰り着いた途端、互いにつけた仮面を投げ捨てた。
「ふふ……ふふふふふ……」
ミルシュリーズは貴婦人にあるまじき無防備さで私室の長椅子に転がり、小鳥がむずがるような笑いをこぼす。
「うふふふっ……! エル、わたくしたち、今日もとっても、完璧だったわね?」
判で押したように固まりきった冷たい微笑など見る影もなく、ふわふわと緩みきった笑顔は無邪気な妖精のよう。甘い薄紅色に染まった頬と、機嫌の良い猫のように細められた両目が、彼女の興奮をあますことなく伝えている。
「ふふ、そうだね。ミーシュはいつも、完璧に素敵だけどね」
対して、エルティアードもまた、ほわんと浮世離れしたやわらかい声で、優しく妻を肯定した。その姿には夜会で見せた威厳も凄みも欠片もなく、糸が切れたら飛んでいってしまう風船のような、ほのぼのと牧場をうろつく羊のような、のんびりとした様相だった。
彼はとことこと妻の寝転がる長椅子に近づくと、跪いて彼女と目を合わせる。
そして、とろけるように笑み崩れた。
「お疲れ様、ぼくのミーシュ。いたわりを込めて、あなたを抱きしめてもいい?」
ミルシュリーズは夫の提案に目を輝かせると、たいそう嬉しそうに頷いて両手を広げた。
「もちろんよ、わたくしのエル! 愛も込めて、いっぱいぎゅっとしてほしいのよ!」
じゃれつくようにふたりは抱きしめ合い、頬を合わせて熱を分け合う。こつんとひたいを付き合わせると、惹かれるようにしてくちづけた。なんだかうっとりしてしまうわ、とミルシュリーズは夢心地で思った。エルティアードのキスはとっても優しくて、甘くて、それからとびきり丁寧で、何度くちづけても身体中がとろけてしまうような、心地よくも恥ずかしい感覚に包まれるのだ。物腰柔らかく、穏やかな彼からは想像もつかない、濃厚な触れ合い。婚約者の頃は、このひとは霞でも食べて生きてるんじゃないかしら、とたまに思っていたものだけれど……。
とんでもない! クレーン伯爵と愛人のキスなんて、足元にもおよばないわ!
「んっ、う……」
甘いくちづけに囚われたミルシュリーズは、エルティアードにすがりつくようにもたれかかった。そんな妻に、エルティアードは愛しげな眼差しを一心に注ぎながら、一度唇を離す。そして彼女のひたい、まぶた、鼻筋、頬、唇の端、首の付け根、ともどかしい位置に羽のようなくちづけを落としていく。
「え、エル……ったら……、あっ」
くすくすと笑いながら、エルティアードがミルシュリーズの耳を食んだ。ミルシュリーズは真っ赤になって、もう! と怒ったふりをする。
それから、仕返しのように夫の襟を引っ張り、自ら唇を重ねた。
「んう、ふ……っ」
ちゅ、ちゅっとつたなく吸いつく妻に応えるように、エルティアードはくちづけを深くした。いつの間にか長椅子に上がり込み、ぴったりとくっつくようにして彼女を抱き抱えて。
ミルシュリーズは息を荒くしながら、この上ない幸福に浸った。
ああ——わたくし、エルと結婚できてなんて幸せなのかしら!
(わたくし、エルのことがだいすき! 昔からずうっと好きだったけれど、どうしてこんなに、毎日毎日、このひとのことを好きになってしまうのかしら……)
エルティアードのことしか考えられなくなるくらい、彼のことが好きでたまらなかった。優しく自分を呼ぶ声も、穏やかな口調も、少し暢気な考え方も、たまにいたずらっ子のようになるところも、何もかもが愛しい。
(はっ! だ、だめだめ! わたくしは、いいえわたくしたちは、帝室と国に誇れる完璧な夫婦にならなければいけないのに……!)
こんな浮かれきった気持ちで、社交界に出てはいけないのだ。
……と、思うものの、今日の夜会では、自分たちはかなりうまくやっていたと思うし、屋敷にいるときくらいは、許されるのではないだろうか、という甘えが首をもたげる。
「ミーシュ、愛してるよ。ぼくの宝石さん」
「! わたくしも、エルのことがだいすきよ!」
まるでミルシュリーズの心を読んだかのように、絶好のタイミングで彼女を誘惑する睦言を囁かれ、あっという間に陥落する。
見上げると、エルティアードは心から愛に満ちた瞳でミルシュリーズを見つめていた。めまいがするほど熱いまなざしに、ミルシュリーズの胸がいっぱいになる。
このひとは、わたくしのことが好き。
そんな奇跡を、こんなにも長い間受け続けられるなんて、自分はなんて幸運な人間なのだろうか。
——そう。
傍目には、極寒の夫婦関係と思われているふたりは、実のところ、婚約者時代からの長きにわたる両思いを継続した、熱愛夫婦なのだった。
そんなファルネリウス夫妻がどうして、社交界であのように行動しているのか?
それは、彼らの蜜月最終日に遡る。