1 仮面をかぶる夫婦
大陸全土を手中に収め、まさに絶頂期というべき偉大なるグルジア帝国は、悠然と絢爛の時代を築いていた。
王侯貴族が湯水のごとく贅の限りをむしゃぶり尽くす、華やかなりしグルジア宮廷。
爛熟した社交界ではありふれた話だが、宮廷恋愛の戯れが流行するかたわらで、この権威と贅を継続するため、家同士の結びつきはあくまで責務による、冷め切ったものというのが通例だ。
つまり、グルジア貴族間の婚姻とは、政略結婚が主流になっていた。その上でそれぞれ愛人を作るなり、若い芸術家のパトロンになるなり、散財に耽るなり、好きに過ごすのである。
とはいえ、そんな貴族たちも、たいていは体面のために仮面をかぶっている。
さて。
ここにも、一組の仮面夫婦がいる。
「ファルネリウス侯爵夫妻、御来場——」
上品なざわめきと優美な管弦の音が混じり合う、帝室主催の夜会。
そんな会場内に、案内人が高らかに告げた来訪者の名によって、一瞬の沈黙が駆け抜けた。
それは微かな緊張を孕んだ沈黙だったが、来場した男女が静かに視線を動かすと、彼らのもとへあっという間に人の波が押し寄せた。
「侯爵閣下、御目通り叶いまして幸福にございます。夫人もお変わりないようで」
「侯爵夫人、お会いできて光栄ですわ」
「閣下、ぜひともお耳に入れたいことが——」
簡略な挨拶とともに、口々に話しかける人々を、夫妻は落ち着いた調子でさばいていく。
不思議な薔薇色がかった金のふさのついた、豪奢な扇子をぱちんと閉じ、ファルネリウス侯爵夫人ミルシュリーズがゆっくりと微笑む。
溶かした真珠に月光を流し込んだような、見事な青銀の髪を艶やかに結い上げ、薔薇をかたどったサファイアの髪飾りを挿している。まぶたにうっすらと塗られた薄青はシャンデリアの輝きを反射して、きらきらと光り、長いまつ毛が作る影との対比で、彼女の白皙の美貌を引き立てていた。花びらを押したようなぽってりとした赤い唇が淑やかに開き、鈴を転がすような美しい声を紡ぐ。
「ごきげんよう、皆様。今宵もお顔を見られて嬉しゅうございますわ」
優しげだが、決して付け入る隙を見せない、完璧な淑女の声。思わず敬わずにはいられないような、品のある発声だった。
彼女を取り囲んだものたちは、男女問わず、ひとときの間、ほうっと見惚れ、そしてすぐさま襟を正した。
「皆、壮健そうで何よりだよ。しかし、すまないけれど、まずは陛下のもとにご挨拶にいかせてほしい」
次に、穏やかだが有無を言わせない、命じ慣れた声が静かに落とされた。その声には、自分が望めばまわりが従うことは、考えるまでもないことだというような、そしてそれを嫌味に感じさせず、むしろ当然のものと感じさせる力があった。
周囲は波を引くように道を開けた。
侯爵は華奢な夫人よりも頭二つ分ほど背が高いので、ふたりが並ぶとより大きく見える。すっと通った鼻筋と切長の眉が凛々しく、朗らかさと思慮深さが同居した美しい青の瞳は、宝石のようにきらめいていた。帝室の高貴な血を示す、金と紫の二本線が入った濃紺のクラヴァットを、夫人と揃いのサファイアの薔薇型のブローチが留めている。
一部の隙もない、すばらしい動作で夫人をエスコートしながら、ファルネリウス侯爵エルティアード閣下は、堂々と人々の間を進んでいく。
グルジア宮廷の憧れの的、完璧な紳士と完璧な貴婦人は、しかしながら社交界でこのように噂されていた。
なんて、見事で、完璧な——社交界一の仮面夫婦でしょう! と。
ファルネリウス夫妻は、彼らが幼少のみぎりより帝室に定められた婚約者同士だった。
エルティアードは前皇帝が溺愛した弟の息子で、ミルシュリーズの祖母はかつて停戦同盟の証で嫁いできた連盟国の公女だった。さらに言うと、エルティアードの母も、一世代前にグルジアが制圧した小王国の王女だ。
前皇帝はこの自国を含めた三国間の繋がりの強化のため、ふたりを娶せることを決めたのだ。
そういうわけで、彼らは幼い頃より、支配者層が心得るべき最高の教育を施され、互いと結ばれることは高貴なるものの義務と理解していたし、その未来を疑ることもなかった。
淡々と交流を続け、大きな問題もなく成長したふたりは、当然のようにつつがなく婚姻した。
しかし、婚約者同士であった時はお互いに同性同士の社交をしていることが多く、周囲も気に留めていなかったが——このふたりの間には、まったく熱情というものが存在しないのではないか、と誰もが疑わずにはいられないほど、夫婦となったふたりは淡白な様子だった。
いくら政略といえど、ある程度は情が見え隠れする——それがどのような感情であれ——ものだが、ふたりは幼少期から変わらず冷静に、極めて義務的に、しかし完璧な夫婦として社交界を渡り歩いていた。
仲が悪いということもなく、夫妻に対面する人間も接しやすい関係なのだが、互いにあまりにも事務的すぎてまるで仕事相手のようなのである。
あるとき、まだ夫妻の噂を耳にしていなかった若者が、おべっかとして侯爵の前で夫人を誉めた。——たいへんお美しく、ご聡明な細君をお持ちですね。毎日が薔薇色といっても過言ではないでしょう? といったようなことを。
その時、周囲は凍りついた。このふたりが互いをどう思っているか、などということを聞くような不見識なものは、すでに珍しくなっていたからだ。
一瞬の沈黙ののち、エルティアードはいつも通り穏やかな——つまり何を考えているのか腹のうちの見えない笑みで言った。
「ああ。素晴らしい妻がいてくれて、非常にありがたく思っているよ」
完全にただ同意を示すだけの定型文だった。
いや、定型文としても、妻に関する言葉としては、やや温度が感じられず、何と言うかあまり交流の多くない知人に向けるようななおざりな内容だった。それでも、もう少し声色に変化があればよかったものだが、これもいつも通りの調子なので、余計に「ただの相槌」という感じなのだった。
これに対し、夫人の反応と言えば、
「まあ。もったいないお言葉ですわ」
話を振られた時にとりあえず返しておく言葉、として貴婦人の間では有名な一言だった。
賢明な婦人たちは、もちろん、それについて言及はしなかった。
またあるときの茶会では、デビューしたての初々しい淑女が、憧れの存在であるミルシュリーズに、悪意なくこうたずねた。——侯爵夫人の旦那様は、あの眉目秀麗で陛下の覚えもめでたい、帝国切っての美男であるエルティアード様なのでしょう。おふたりでいる時はどのように過ごされているのですか? きっとさぞや、素晴らしい時間なのでしょう?
同席していた子爵夫人は、あやうく飲みかけのカップを取り落とすという、少女の頃ですらしなかった不作法をおかすところだった、とのちに述べた。
ミルシュリーズは動揺することもなく、流れるようにこう言った。
「とてもよくしていただいておりますわ。わたくしにはもったいないほど、立派な夫ですもの」
こう聞かれたらこう答える、と決まっているかのように自然な調子だった。
しかも、彼女の目には熱というものが欠片もなく、帝室に届けられた贈物のリストを冷静に評定していくような、まるで温度のない微笑を浮かべていた。ミルシュリーズは基本的に常に静かな笑みを浮かべているので、つまりまったくいつも通りの読めない表情だった。
もったいない、とはどういう意味なのか……と深読みせざるを得なかった女性たちは、さりげなく話題を変えたという。
この夫婦は、一時が万事、その調子なのである。
それは、皇帝陛下の前ですら、変わらぬようだった。
「そなたたちは、相変わらずであるなあ。もう少し羽目を外しても構わぬぞ」
皇帝と皇后、その子どもたちは、そろって貴族たちの挨拶を受け続け、はやくも飽き始めた頃合いだった。
エルティアードの従兄弟であり、彼より一つ下の皇子は、呆れたような視線を夫妻に向けている。父皇帝の言葉に同意するように、彼は深く頷いた。
「君たち、真面目すぎるよ。ぼくですら、そこそこ自由にやっているんだからさ」
最近ゴシップにハマりだした、俗なところがある皇女が、そうよねえ、と小首を傾げる。
「今日のクレーン伯爵なんて、ワルツの最中にキスをしてたわよ? それも何回も。あれはどうかと思うけど、彼に比べたらあなたたちが多少好きに行動したって、誰も責めないわよ」
エルティアードは心外そうに眉をあげた。
「お言葉ですが、殿下方。あのような嗜みのない不道徳なものと一緒になさるのは、およしください。ご存じかと思いますが、あれは伯爵の愛人でしたよ」
そう。
ファルネリウス夫妻は非常に真面目だった。
真面目に、幼い頃からの教育に従って、貴族のあり方に従っていた。
つまり、仮面夫婦でありながらも、かといって他に相手を持つこともなければ、舞台役者や女優に傾倒することもなく、さらには至ってまっとうな領地運営を行い、日々を粛々と過ごしているのである。
この真面目さがあるからこそ、『完璧な仮面夫婦』と噂されるのだ。
エルティアードは淡々と続ける。
「我々は帝室に恥じることなく過ごしているつもりです」
誰にも迷惑をかけていないのだから放ってけ、という意図が透けて見える発言である。
帝室の背後に控えている衛士たちは、そろって胃がひんやりとする気持ちを味わった。
最後に、皇后が気遣わしげな表情で、ミルシュリーズに声をかけた。
「そなたも、無理はしておりませんか」
ミルシュリーズは氷の薔薇を思わせる、美しい笑みを浮かべた。
「もちろんですわ、陛下。わたくし、誇りを持ってこのような日々を過ごさせていただいております」
ファルネリウス夫妻は、このとき、ようやく視線を交わし合った。
次いで、ミルシュリーズはそっと目を伏せ、エルティアードは浅く頷く。
その様子に皇帝はため息をひとつ落とし、「また宮にくるがよい」と気安く告げると、ふたりが下がることを許したのだった。
そんなこんなで、今宵の会も終盤に差し掛かりつつある。
管弦楽団が甘い音色を奏で、最後のワルツが始まる。こればかりは、よほどのことがない限り、既婚者は夫婦で踊らなければいけない。
ふたりはまるで初対面のように形式通りの挨拶をし、身を寄せ合う。ほとんど会話のないまま踊る夫妻の横を、他の組がわずかな緊張とともににすり抜けていく。
「……あなたは、伯爵を羨ましいと思うかい?」
しかし、珍しくエルティアードが、ワルツの最中に口を開いた。あら、と妻は瞬きをする。
「わたくしをそのような恥ずべき女だと思っていらっしゃるの?」
「まさか。先ほどは、あなたの意見を聞かなかったから、一応ね」
まったく和やかとは言い難い会話である。聞き耳を立てていた周囲はハラハラしていた。
そして再び、沈黙。
「聞くまでもないことと思っておりますけれど」
と、今度はミルシュリーズが口を開いた。
「まさか閣下が、あのような不道徳極まりない行いに憧れようはずがないと、わたくし信じておりますわ」
冷ややかな笑みとともに告げられた言葉に、侯爵閣下はやはり何を考えているのかわからない笑顔で応じる。
「もちろん。それはあなたがわざわざ聞く必要もないことだ」