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樹になる人

作者: 河辺 螢

 僕の勤める商家のお嬢様は、小さい頃から身体が弱く、二十歳まで生きられるかどうかもわからないと主治医に言われていたようだ。外に出ることはなく、ずっと部屋で過ごしていて、僕ら使用人が見かけることなどほとんどなかった。

 ある日、庭を散歩しているお嬢様が倒れそうになったところを助け、部屋まで送り届けたことがきっかけで、時々部屋に呼ばれるようになった。

 異性である僕がお嬢様の部屋を出入りすることは歓迎されなかった。仕事が終わり、誰もいない時を見計らって窓越しに話しかけているうちに、やがてそれが恋心に変わっていった。密かな恋は、余計に心を熱く燃やし、僕たちはお互いを不可欠の者だと信じて疑わなかった。


 僕らの密会が旦那様に見つかり、僕は書斎に呼び出された。

 そこにはお嬢様もいた。

「私達は愛し合っているの。お父様、私はそんなに長くは生きられないわ。どうか、今のまま、会うことを許して」

 お嬢様の言葉に、旦那様は渋い顔を見せたけれど、友達もおらず、館の侍女くらいしか話し相手のいない孤独なお嬢様から話し相手を奪うことは、例え僕のような者であっても忍びなかったようで、決まった時間内であれば会うことを許してくれるようになった。

 結婚を前提とはせず、決して淫らな事はしない、それが条件だった。


 仕事を終えて、お嬢様の部屋に向かい、その日会ったことや、街の噂などを話して、お休みのキスが時々頬だけでなく、唇に重なっても、お嬢様はそれを受け入れてくれた。

 身分違いの自分を受け止めてもらえることが、何より嬉しかった。


 ある日、溜息交じりにお嬢様が古い伝説を教えてくれた。

 昔、緑色の髪をした人が死ぬと、そこから樹が生え、百個の実をつけた。

 その実はありとあらゆる病に効き、多くの奇蹟を起こしたという。

「その話が本当なら、私も元気になれるのに」

 そう言って涙を浮かべたお嬢様に対し、僕は動悸を押さえることができなかった。

 僕は緑の髪の人の存在を知っていたからだ。


 ふるさとの村の、幼なじみ、イレーヌ。

 村で集まって遊ぶ友達の一人だった。

 ある日、雨に打たれたイレーヌの髪がまだらになり、部分的に緑色になっていた。

「どうしよう、髪に水をつけちゃ駄目って言われていたのに」

 イレーヌは雨のしずくで色が取れ、焦げ茶から緑に変わっていくその髪に、ただうろたえていた。

 僕はイレーネの慌てる姿を見て、このことは他の人に知られてはいけないと思い、上着を頭から被せ、髪を隠して家まで送り、親には誰にも見つからなかったと言うよう伝えた。

 次の日、イレーヌはいつもと同じ焦げ茶色の髪に戻っていた。

 大きくなると、雨が降ってもさほど慌てなくなっていた。ただの錯覚か、一時的な髪の変化なんだろうと思いながらも、もしかしたら、髪を染めるものが水に強くなったのかも知れない。ふと、そんなことを考えた。


 ある日、僕の知り合いに緑の髪の者がいるかも知れないと言うことを、小さい頃の出来事に混ぜて話すと、お嬢様はかなり興味を持った。それまで聞かれたこともない僕の出身地のことを聞かれ、聞かれる内容があまりに詳細になっていった。

 もし、髪の色が緑だったとしても、伝説通りとは限らない。人が樹になる訳がない。でも、伝説を信じる者がいれば、樹が生えると確信して、彼女を殺し、その遺体を土に埋めるかも知れない。それを心配した親が髪を染めていたとしたら…

 少し恐くなって、緑の髪を持つ者が誰かと言うことまでは明かさないようにした。


 数日後、旦那様に呼び出しを受けた。仕事のことかと思っていたら、

「おまえとマリーズを結婚させてもいい」

と言われ、いきなりの展開にうろたえた。

「それには、樹人の樹の実を手に入れることが条件だ。おまえは、樹人の知り合いがいるのだろう?」

 樹人。それが緑の髪の者を示しているだろうことは、すぐに想像がついた。

 イレーヌのことが、旦那様に伝わっていた。

 樹人の伝説を信じる人がいる。病から救われるために、わずかな希望に期待をかけ…

 しかし、樹の実を手に入れると言うことは、緑の髪の人の死を前提にしたものだ。

「僕に…人を殺せ、と?」

 戸惑う僕に構うことなく、旦那様は机の上に小さな瓶を置いた。

「この薬を使うと、少しも苦しむことなく、眠るように死を迎えることができる。樹人の心臓が種になると言われている。心臓を損なわなければ、死体を土に埋めるだけで万能薬となる実を実らせる。一つだけでいい。どうか、娘のために。娘を本当に愛するのなら」

 頷いた訳ではなかったけれど、気がついたら、手に薬と当面の生活のためのお金を握らされ、部屋を出ていた。

 一年間の休暇を与えられ、僕は故郷に戻った。


 既に父も母もいない故郷で、農業の仕事を得た。僕のことを覚えていた旧友が快く雇ってくれたのだった。初めは住み込みで働き、村の端にある持ち主のいなくなった家を改修して、やがてそこで暮らすことにした。

 イレーヌを探すのは恐くてできなかった。小さな村なのに、会わずに済んでいたことにほっとしていた。それなのに、街に買い物に行った先で、手にしていた荷物を落とし、困っている女性を見つけて手を貸せば、それがイレーヌだった。

 彼女は僕のことを覚えていて、逃げるように立ち去ろうとする僕に

「エリクじゃない? 村に戻ったの?」

と声をかけてきた。

 僕はその時初めてイレーヌだと気がついたかのように装い、彼女の荷物を持ち、懐かしい話に耳を傾けながら、家まで送って行った。彼女の両親は僕が村を離れているうちに亡くなっていて、今は一人で暮らしていた。

 それから、村で僕を見かけるとイレーヌは声をかけてきた。独り身の僕を気遣ってくれるのか、時に食事に誘われ、故郷の馴染みの味で腹を満たした。

 昔と変わることなく、明るく、よく働くイレーネ。

 お嬢様のためにイレーヌに手をかけるなんて、到底できそうになかった。

 このままお嬢様のことを忘れ、この懐かしい村で骨を埋めてしまうのもいいかもしれない。

 そう思う僕に、まるでハッパをかけるかのようにお嬢様から手紙が来た。

 僕が自分を救ってくれる薬を取りに行っていると聞いた。早く持って帰ってほしい。一緒になれる日が待ち遠しい、と。

 僕がこの場所に住んでいることを知っている。

 手に入れる薬が、人の命に関わっていることを知っているのか、知らないのか。まるで王子が茨を切り、馬で駆けつけて姫を救いに来るおとぎ話のように、姫である自分が助かることが決まっているような書きっぷりに、なんとも言えない薄気味悪さを覚えた。

 お嬢様の手紙はその一通っきり、僕が返事を書かなかったせいもあるかもしれないけれど、それを催促する手紙さえ、来なかった。


 僕とイレーネは、時々街や村はずれで待ち合わせ、お互いの家に行くことも頻繁になっていった。

 薬の瓶は、ここに来た時から引き出しの奥にしまい込まれ、そのくせ捨てることもできずにいた。

 平凡でありながら、空虚な日常。命を狙われていることなど何も知らず、僕に笑顔を向け、甘えてくるイレーヌ。妹のように大事にしながら、やがて妹では収まらなくなっていた。

 気がつけば半年が過ぎ、僕とイレーヌは恋人と呼ばれるようになっていた。

 樹人なんて、ただの伝説だ。樹の実なんて手に入るわけがない。もう忘れてしまおう。

 僕はご主人様とお嬢様に樹の実を手に入れることができなかったことを詫びる手紙を書いた。

 僕はイレーヌと共に生きることを選んだ。


「いつ手に入るんだ」

 ある日、街で知らない男から突然声をかけられた。

「皆、心待ちにしている。予約金も支払っている。…怯むなよ。期限はあと三ヶ月だ」

 予約…? 期限??

「あなたは誰です? 予約って何のことですか?」

 僕が聞くと、男は僕の胸ぐらをつかみ、揺さぶってきた。

「おまえが働いていた商家で、樹人の実を売ると、おまえが持ちかけたそうじゃないか」

「そ、そんなこと、してません! 一体何故…」

「おまえがあの家の娘を手に入れるために売り込んだ事はわかってる。大金をもらったんだろう?」

「もらってません、大金なんて…」

「妻はいつ死ぬかわからない重病なんだ。今更びびられても困る。早く…」

 人の気配を感じたのか、男は投げ捨てるように僕を開放すると、早々に立ち去った。

 一体どういうことなんだろう。

 旦那様が…、予約? 樹の実の?

 僕が樹人を殺すのを待ち、樹の実を売ろうとしてる??

 自分の知らないところで、たった一つの実ではなく、収穫される他の実までも当てにして、商売をしている。しかも、それを僕が売り込んだかのようになっている。

 その事実に、震えが止まらなくなった。

 実を欲している何人に話したんだろう。僕のことを、僕の居場所を、もしかして、僕が共に過ごす人のことまで…。

 これは、樹人を知りながら、樹の実を手に入れようとせず、縁を切ろうとした僕への脅しだと悟った。


 僕はイレーヌに、この町を出て遠くで暮らさないか、とさりげなく聞いてみた。

 しかし、イレーヌは

「私は、この村を離れて生きていけないの」

と答えて、弱々しく笑った。

「エリクは知ってるでしょう? 私の髪が本当は緑色をしていること。…私ね、ご先祖様の呪いで、この土地でしか生きていけないのよ」

 ずっと隠してきただろうそのことをあっさりと告げられて、僕はうろたえた。

「ここを離れると心臓が止まってしまうって言われてたの。こんなに元気なのに、絶対私を村から出さないための嘘だって思って、一度ここから離れてみたことがあるの。だけど、村から離れるにつれて動悸がひどくなって、心臓に痛みを感じて、途中で気を失ってしまって、すぐに元の駅に戻された。それなのに村に戻ったら、何ともないの。三回試して、三回とも同じだった。お父さんやお母さんが言ってたとおり、私はここで生きていくしかないんだわ」

 ここを離れると心臓がおかしくなる。それが先祖の呪いというのなら、種になるという心臓がこの土地から離れられないようになっているんだろうか。

 イレーヌを連れて逃げることもできない。

 どうしたらいいのかわからなかった。

 僕が選んだ人が樹人だということも知られているんだろうか。そうでないなら、今、僕がイレーヌから離れさえすれば、イレーヌのことは気づかれず、生き延びられるかも知れない。

 たとえ離れ離れなっても、イレーヌに生きていてほしい。


 翌日、家の前に怪しい男が立っていた。この前、街であった男とは別の男が、ギラギラとした目で、切羽詰まった様子でドアを叩く姿は、実を必要としている人の命が尽きようとしていることを思わせた。

 それを遠くから見ていると、イレーヌが僕の家に向かって歩いてくるのに気が付いた。

 僕はイレーヌの手を引き、家とは違う方角へと導いた。

 小さい頃から遊び慣れた森の中で、僕はイレーヌに樹人の話をした。

「緑の髪の人が死ぬと樹が芽生え、そこから生えた実が万能薬になると信じ込んでいる奴らがいる。そいつらが君の命を狙っている。僕は、君に死んで欲しくない。とりあえず、逃げよう」

「緑の髪…」

 ゆっくりと目を伏せたイレーヌは、

「見つかってしまったのね」

とつぶやき、悲しげな眼で笑みを浮かべていた。


 森の奥へと進み、どこまでなら心臓が止まることなく行けるのか、イレーヌの手を引いて歩いた。恐ろしいほど静かな森で、スカートのイレーヌの歩みは遅かった。だけどそれは本当は服のせいじゃなくて、徐々に弱っていく心臓がイレーヌを村から逃がすまいとしていたのに気がつかなかった。

 どうにも歩けなくなったイレーヌを休ませるため、岩の上に腰かけて休憩し、水を飲んだ。

 イレーヌは胸を押さえ、息を荒くし、いつまでたっても呼吸は正常に戻らなかった。

「だい…じょ…」

 僕を安心させようと言葉を発しても、途中で息が切れてしまう。

 僕はなんてバカなことをしたんだろう。軽い気持ちで語った小さな秘密が、今、目の前にいる人に死をもたらそうとしている。

 このまま進んでも、戻っても、生き延びるのは難しい。

 それでも、わずかな希望をかけて、イレーヌを抱きかかえ、森の中の小屋までたどり着いた。

 ここなら、隠れて過ごすことができる。ずっとここにいるわけにはいかないけれど、それでもせめてあの連中の興味がなくなるまでここに隠れ、僕がこの地を去れば、イレーヌは生き延びられるかもしれない。

 しかし、ここは少し村から遠すぎるようで、イレーヌの鼓動はどんどん弱まっていった。

「エリク…。わたしは、もう、生きられないかもしれない」

 首にしがみつく腕の力が、みるみるうちに弱まっていく。

 これ以上、ここに隠れていることはできない。

「…危険だけど、やっぱり村に戻ろう」

 そう決意した僕に、

「あなたに殺されるなら、かまわなかったのに…」

 イレーヌの言葉に、ぼくは瞬きを忘れた。

 イレーヌはポケットから僕が隠し持っていたあの瓶を取り出し、僕に手渡した。

 イレーヌは、知っていたのか。僕がなぜここに、故郷の村に戻ってきたのかを。

「毒を使えば、実は腐る。心臓を突けば、種は砕ける。あなたがこれを使った時、私は人として死ぬのだと、そう思っていた。だけど、あなたは使わなかった。…私のことを、思ってくれていた?」

 「もちろんだ」、そう言いたかった。でも僕はその毒を手にとってしまった人間だ。使わなかったとはいえ、僕にはそう告げる資格はない。

 それでも、生き延びてほしいと、願わずにはいられない。

 抱きしめ、頬を合わせたイレーヌは、恐ろしいほど冷たくなっていた。

「早く村に戻らないと」

 僕はイレーネを抱えて、村へと戻っていった。

「他の人に、殺されるのは、嫌」

「君を死なせたくない」

 しがみついていた手が、徐々に力を失っていく。

「緑の…髪を、見て、あなただけが、守ってくれた。…怖がらず、逃げずに、私を家に…送り届けてくれた。変わらず、…何も変わらず…」

「イレーネ、」

「…ありが、とう」

 最後はあまりにあっけなかった。聞こえそうなくらいはっきりと、トクンとなった鼓動を最後に、イレーネの心臓は血液を送り出すことを止めてしまった。


 イレーネを抱きしめたまま森の中で声を殺して泣き続けた。

 僕の涙を受けた髪は、あの時のように緑色を取り戻していた。樹人であることを隠して生きるしかなかったイレーネの、偽らない髪の色を目にして、あの時も今も、その色をきれいだと思った。

 夜が明ける頃、ようやく決意して、森の小屋からスコップを持ち出し、イレーネを埋葬した。


 家に戻ると、実を求める男はいなかった。

 次の日から、昼はいつもの農業に従事し、夜にはかなり遠回りをして森をうろつき、イレーネの元へと向かった。

 二日目に芽吹いた樹は、五日でイレーネと同じくらいの背丈になり、七日目に一つの花をつけた。

 十日目、たった一つついた樹の実をそっと摘み取り、家に戻ると、そこには旦那様とお嬢様がいた。僕はずっと監視されていたのかもしれない。

「いなくなって十日目ね。私の実、できた?」

 僕が摘み取ったばかりの実を手渡すと、お嬢様はためらうことなくすぐに口に含んだ。片手に乗るほどの小さな実はあっという間になくなり、ものの十分もしないうちにお嬢様は自分の力で立ち上がり、得意げにその場でくるりと回転した。

「ああ、もう苦しくないわ。嬉しい。ありがとう。約束通り、あなたと結婚してあげるわ」

 お嬢様の言う結婚は、絵本の中の王子様との結末に過ぎない。

 それは、自分を救ってくれた僕でもいいし、これから現れる誰かであってもいいのだろう。

「いえ…」

 僕はゆっくりと首を横に振った。

「あなたにはもう僕は必要ないでしょう」

 お嬢様は、

「そうね、元気になったのだもの。別に使用人と結婚する必要もないわね」

と言って、その目はもはや僕を見ることはなかった。

 立ち去ろうとする僕の肩を旦那様がつかみ、揺さぶった。

「他の実はどうした」

「実ったのは、一つだけでした」

「なにっ、そんなはずはない。他にも、百個の実が…。樹はどこだ」

 僕が旦那様の手をつかんで自分から引き離すと、その手に封を開けていないあの薬と、もらっていたお金を戻した。

「樹は、森の中にあります」


 旦那様は、明日、人足を連れて森を探すと意気込んでいた。

 お嬢様は、一度も僕の名を口にすることなく、未練もなく、自由になった体を満喫していた。

 僕はその日のうちに友人に別れを告げ、村を出て、二度と戻ることはなかった。


 風のうわさに、お嬢様は村から出ようとした途端心臓の発作に襲われ、あの村から出ることはできなくなったと聞いた。

 そして、後に村に屋敷を建て、誰かと結婚したが、生まれた子供は緑の髪をしていた、という。


 森の中で、あの樹が見つかったかどうかは知らない。


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