無能採用試験官ベン・カルヴィンハースト
安物のソファーの上で意識を取り戻すと、ずんぐりした男がデスク越しにこちらを見ていた。金文字の名札には『ベン・カルヴィンハースト』とある。
「おれは――いったい、なにを?」
「ラッキーな出来事にぶち当たったんだよ」と、カルヴィンがこたえた。
「ラッキーな出来事?」
「そうだ。きみはかわいらしい少女のささやかな胸にその手で触れた。ああ、その顔はだんだん思い出してきたようだな。ベン・カルヴィンハーストだ。覚えていたからといっていいことのある名前ではないが、ひょっとすると、ほんのちょっといいことがあるかも」
「おれは――」
「ジャン・バティスト・ルトロン」
カルヴィンハーストがこたえた。ジャンについての資料が手元にあるらしく、マニラ紙の封筒から何枚か書き込みのある紙を取り出している。
「ファウストの推薦で、テストをしてみてくれとある。悪くとらないでほしいんだが、ファウストの推薦はあてにならない。以前、犬の世界のレオナルド・ダ・ヴィンチを見つけたと言って、わたしによこしたそのルネサンス犬が実はただの雑種で、芸術的なところはまったくなくて、特技と言えば、新品のソファーを三分でボロ屑にすることとモンテネグロ語を話すくらいで――」
「ちょっと待ってくれ。何の話だ?」
「ああ、そうか。テストの話をしなきゃいけなかったんだ」
カルヴィンハーストはデスクに散乱した食べかけのサンドイッチやハンチング帽を引き出しのなかに流し込み、一枚の青い紙ばさみを取り出して、テーブルに置き、ターゲットの資料だといい、前へ押し出した。
「ここから車で五十キロのところに、リーフプレイスという町がある。そこのギャング一家の家長のホレイショ・グラムリーが卒業試験だ」
ジャンはデスクの向かいの椅子に座り、紙ばさみを開いて、なかを見た。写真が数枚、書類、それに女性らしい端整な字で綴られた手紙が入っている。
手紙はマーガレット・アンブルックからホレイショ・グラムリーに送られたもので、消印はニューファンドランド島のカーリングで押されていた。マーガレットは手紙のなかで、もうホレイショを夫として愛せないこと、今はロバートというロブスター漁師と暮らしていること、ロバートは酒におぼれて自分を殴ったりしないし、何より、自分を人間扱いしてくれる優しい本物の男性であること、ホレイショの分身のごとき五人の息子たちにも未練はないことを書き連ね、記入済みの離婚届を同封したらしい。
写真は六枚あり、全て警察に逮捕された際の写真だった。
頬の落ちくぼんだ老人の写真がジャンのターゲットにしてマーガレットに逃げられたホレイショ・グラムリーだった。枯れ枝みたいに痩せているくせに撮影の際には激しく抵抗したらしく、がっしりとした警官が三人がかりで老人を押さえつけて、写真を撮らせたらしい。老人は舌を出してわざと目をつむっていた。この写真のまま報告書をつくったところを見ると、警官たちはもううんざりしたのだろう。
残り五枚の写真もまた警察写真で、長男のピーターから、エヴァン、マイケル、キャロル、フランシスと五人、ずるがしこそうなところと根性の曲がり具合は父親から譲られたものらしい。
最後の書類は逮捕時の記録でグラムリー一族の悪行の履歴書だった。暴行、武装強盗、アルコールの密造と密売、売春強要、強姦、それに殺人。ところが、全て不起訴だった。唯一有罪になったのは銃の不法所持だがこれはギャングが司法関係者に華をもたせるガス抜きの有罪であり、判決は禁固二年だが、八か月後に模範囚として出獄。その一週間後にはよそ者のギャングがつくった賭博場に火炎瓶を投げ込んでいる。
「グラムリー一家の作るコーン・ウイスキーはとにかく粗悪でな、ひどいものになると失明したり中毒死を起こしたりする」
「警察は動かないのか?」
動かない、とこたえながら、カルヴィンハーストは地図を広げた。
19世紀末に流行った都市の鳥観図だが、描かれた町は少々異様だった。
森林と市街がパッチワークみたいに入り乱れていて、繁華街のすぐそばには糸杉の沼が隣接していたり、大通りがあっという間にオークの林に飲み込まれているのだ。
「もともとリーフプレイスは樹海だった。そこに入植者が徐々に住み始め、今のような形になった。問題はグラムリー一族がこの町の森全てを縄張りにしていて、一度森に逃げられると、どれだけの人員を割いても、こいつらを見つけることが不可能なんだ」
「森に火をかければいい」
「それはなしだ。リーフプレイスは結局のところ、緑豊かなモダン都市というのを売りにしている田舎町に過ぎない。森がなくなったら、観光客からの収入がゼロになっちまう」
「なるほど。だから、一人で立ち向かうわけか」
「それなんだがね、ちょっと面倒なことがある」
「面倒?」
「事務方の間違いでこのテストを普通の依頼と勘違いしたやつがいてね、それでそいつが仕事として殺し屋におろしちまったんだ」
「じゃあ、ぐずぐずしていたら、ターゲットはそいつに殺られる。だから、急げと?」
「まあ、そういうことだ」
「その、おれ以外にこのイカれたじいさんを狙う殺し屋ってのはどんなやつなんだ?」
「さっき会った」
「ん?」
「覚えてないのか? 胸まで触ったのに?」
「覚えてるのは顎に食らったショートアッパーだけだよ」
カルヴィンハーストは肩をすくめた。
「気をつけろよ。今度機嫌を損ねたら、ショートアッパーどころじゃ済まない」