ガソリンスタンドはガソリン以外のものも売っている
次の日の昼ごろ、ファウストがやってきた。
「完成度を見に来たんだけど、どう?」
「八割は完成している」エリスがこたえた。
「残り二割は?」
「重機関銃の使い方と自動車爆弾」
「それはおいおいでいいや。試験を急ごう」
ジャンとエリスはファウストのシボレーに乗って、山道を東へと降りていく。
この二か月、欠かさず眺めたブルー・スモーキー・マウンテンは遠ざかり、モミに覆われた尾根の向こうへと見えなくなっていった。アスファルトで舗装された自動車道路は山の地形に逆らわず、右へ左へ長々とうねっていた。
世間から隔絶された山奥を後に残し、少しずつ土地が賑やかになっていく。
大自然のハイキングを売りにした小さな町を通り過ぎ、A1ステーキソースの大きな看板の裏に潜むスピード違反目当ての警察用オートバイをやり過ごしているうちに 釣り餌やサンドイッチを売る小さなガソリンスタンドの前で車を停めた。
ファウストがてっぺんにガラスの水槽があるガソリン・ポンプのレバーをがっし、がっし、と動かしていると、コーンパイプをくわえた店主らしき老人がスクリーンドアを開けてやってきた。ガソリンを取り扱っているそばであることを考えると、そのコーンパイプは少々危なっかしいが、老人は気にする様子はなかった。
ファウストは愛想のいい調子でたずねた。
「ここらへんじゃ何が釣れるのかな?」
店主の老人は田舎に住む人が都会からやってきた人に応対するときのややあきれた感じで、肩をすくめた。
「バスとナマズ。ヒューイット湖へ行けば、ブラウントラウトが釣れる。産卵期には川で淡水ニシンも釣れるが、今は駄目だな」
「どうして?」
「今は産卵期じゃないからだ」
「でも、どうして産卵期じゃないと卵を産まないの?」
「そんなのは魚にきかないと分からん」
「そんなの変だ。だって、人間はしょっちゅうセックスしてるし」
「人間は三振アウトの堕落した生き物なのさ」
「なんだか昔流行った元メジャーリーガーの伝道師みたいなことを言うね。なんて名前だったっけ?」
「ビリー・サンデー師だ。実物を見たことがある。21年にチャペルヒルで。スライディングも見た。本物だぜ」
「淡水ニシンは?」
「いない」
「僕は淡水ニシンのあぶり焼きが好きなんだけどなあ。ほら、開いた淡水ニシンを釘で板に打ちつけて、あぶるやつ」
「シーズンじゃないんだ。あきらめるんだね」
「一匹くらい身持ちの悪い淡水ニシンがいてもいいのになあ」
老人は自分の肩越しに小屋の入り口を顎でしゃくった。
「店のなかを見てみな。一匹くらいあるかもしれない」
「じゃあ、そうしてみるかな。ジャン、ちょっと店に行ってみてくれないか?」
ファウストが店主を相手にガソリン代を精算しているあいだ、ジャンは車から降りて、店へと歩いた。ペンキの剥げたポーチがあり、壁や窓にはガソリン会社や飲料会社が無料で配る看板がごてごてと取り付けられている。
ドアは開きっぱなしで、スクリーンドアだけが閉まっているが、薄暗くてなかの様子はよく分からない。だが、きっとバスかブラウントラウトの剥製が飾ってあるのだろう。
ジャンは取っ手に指をひっかけて、スクリーンドアを開け、なかへ一歩足を踏み出した。
まるで催眠術にでもかかったようだった。
小さな釣り餌屋の網戸を開けて、そのなかに入ったはずなのに、いま、ジャンがいるのは電話のベルがひっきりなしに鳴る事務所の大部屋だったのだ。左右は三十メートルほどの幅だったが、奥行きは何メートル、いや何キロあるのか分からない。どこまでも事務用デスクが並ぶ奥は霞んでよく見えなかった。
部屋にはこぎれいな事務員の男女がいて、それぞれのデスクに一台、ローソク型の電話があり、その他、便箋だのインクだのグリーンのフェルト・マットだのがあり、デスクのあいだをローラースケートをつけたメッセンジャー・ボーイがギリギリぶつからない神業を発揮しながら、流れるような動作で書類を受け取ったり届けたりしている。
何百という電話が鳴り続けて、壁は配線でぐちゃぐちゃになっている。かと思えば、人の名前や都市の名前が殴り書きされた黒板がある。
電話の内容があちこちから切れ切れにきこえてきたが、それがどうも殺し屋の契約に絡む内容のようだった。
「はい。こちら、グッド・キラーズ・カンパニーでございます。迅速隠密確実な暗殺のご用命なら我が社にどうぞ!」
「はい、こちらではギャングの暗殺も承っております。チンピラなら五百ドル、幹部が二千ドル、ボスのお値段は時価となりますが――」
「申し訳ございませんが、お客様。踏み倒し目当ての高利貸しの暗殺は弊社では取り扱ってございません」
「はい、我が社の殺し屋健康保険では弾丸の摘出は三発までで、四発目以降は保険適用外になります」
なんなんだ、ここは、と呆然としていると、ファウストがどこからともなく現れた。
「グッド・キラーズ・ノースカロライナ支社へようこそ」
「ノースカロライナ支社ってことは他の州にもあるのか?」
「サモアやプエルトリコにもあるよ」
「儲かってて結構な話だな」
「それはきみの本音じゃないね。本当はこの電話の数だけ死んで当然の悪党がいることを嘆いている」
「だったら?」
「殺しまくればいいじゃないか。実はね、これから、試験を行うんだ。きみがグッド・キラーズの一員になれるかどうかをテストする」
「……誰か殺すのか?」
「察しがよくて助かるね。その通り、誰かを殺すんだけど、誰かは僕も知らない。あそこの壁に扉があるのが見えるかな? 見える? 大変結構。あそこが殺し屋への依頼を管理している部屋で、あそこで試験問題も渡される」
「殺すのは悪党なのか?」
「グッド・キラーズでは殺すのは悪党だけ。これ、第一のルール。じゃ、いってらっしゃい」
「おれ、ひとりで?」
「もちろん。だって、試験ってそういうもんでしょ? 横で答えをささやいてくれるやつがいたら、それはカンニングだし。まあ、カンニング・ペーパーでくるまれた石が窓を破って投げ込まれるくらいのことはあるかもしれないけど、基本は一人。こういうのは創意工夫が大事だ」
ファウストに見送られ、ジャンはデスクのあいだの狭い通路へ。高速で動き回るメッセンジャー・ボーイにぶつからないよう気をつけながら、問題の部屋の前へたどり着くと、ドアの曇りガラスに『ベン・カルヴィンハースト 依頼管理室』の黒文字が読めた。さらにその下にメモ帳がテープで貼ってある。『入るときはノック!』。ノックしようとすると、拳は空を叩き、ドアは内側へとひとりでに開いた。
軽く握った拳が柔らかいものに叩く。
それが部屋から出てきたばかりの少女の胸だと分かったのは、当の少女が顔を真っ赤にして、「この変態!」と罵りながら、右のショートアッパーをジャンの顎にお見舞いしてから十数分後のことだった。