幸運な復讐者
その朝、ポーター・クロス・ファクトリーの女工たちは工場の様子がいつもと違うことに気づいた。ミシンの並んだ作業場に非番の警官やKKKのメンバーがシーツをかぶらず、クランのバッジだけつけて、何かを見張っている。ミシンの掛け間違いを見張っているわけではないことは確かだった。
ライナー・ポーターの不安はまんざら無駄ではなかった。
ファウストはポーター・クロス・ファクトリーの建物を見ているうちにうずうずしてきた。ホルスターに差した二丁の45口径オートマティックが、おれたちを手に正面から突っ込んで撃ち合いたくないかとファウストを誘っていた。
エリスはそんなファウストをじっと見た。批難しているわけでもないし、賛同しているわけでもない感情のない視線だ。だが、それを浴びると、誰でも言い訳がましくなる。この優男でも例外ではないようだった。
「そんな目で僕を見るけどね、エリス。これでも自重はしたんだ。ここではストラディバリウスは使わない」
「…………」
「こほん。じゃあ、作戦会議だ。まず、この工場には出入口は二つしかない」
三人が見ているのは商品を搬出入するための大きな入り口だった。ショットガンを手にした男が三人。
シャッターは開いているが、トラックは一台も止まっていない。空っぽの倉庫が見え、右手奥には縫製区画があるようだった。
「この商品搬出入口か裏口か。僕がここから突っ込んで撃ちまくると、ライナー・ポーターはきっと裏口から出てくる。だから、エリスとジャン。きみたちは裏口を見張るように。それと工場のなかにはたくさんの女工がいる。エリス、ルールは分かってるね?」
エリスはコクリとうなずいた。
「じゃ、始めよう。今から十五分後に突っ込むから、それまでに裏口を見張れるいい位置を見つけておいてね」
エリスはちらりとジャンを見ると、シボレーを顎でしゃくった。
エリスの運転で路地をゆっくり走らせる。
そこには貧乏があった。作業着姿の失業者。赤んぼの泣き声の四重奏。チリコンカンの匂い。道路の半分を塞ぐポンコツ車。前世紀につくられた缶詰を臆面もなく売る手ごわい雑貨店。
道沿いに隙間なく並ぶ二階建ての民家はまるで同じ雌鶏の卵から生まれたようにそっくりだ。熱意のない土地開発業者の賜物で、住み心地よりも建材をどう安くするかに心身を注いだ結果の産物だった。
「『グッド・キラーズ』ってのは何だ?」
おもむろにたずねる。ブリックスの安ホテルで半分意識不明だったときにきいた言葉だ。
グッド・キラーズは悪党しか殺さない。
この少女は確かにそう言った。
だが、少女はジャンのほうをちらりと見ただけで何も答えない。
ただ、気のせいかもしれないが、その目にふと哀しみがよぎった気がした。
話したくないなら、それでもいい。
ジャンはこのことは忘れることにした。
やがて裏口が見つかった。
本当に裏口なのか自信がなかった。というのも、その出口は女人像に挟まれ、切妻の出っ張りを支えていたのだ。ジャンが知る限り、工場の裏口にこんな悪趣味な意匠を凝らしたのは、ここだけだ。
「…………」
二人とも一言も交わさない。ただ、シボレーのエンジン音だけがきこえる。
少女のセーターの上にショルダーホルスターがかかっていて、ドイツ製のルガーが差してあった。腰の後ろからは大きなボウイナイフの柄が出ている。
やっぱりこの子も殺し屋なんだな。
それでも、そうだと確信するのは、彼女が実際に誰か殺すのをこの目で見てからにしよう。
だけど、自分よりも年下の少女が感情が死に切った殺し屋になるのに、どんなことがあったのだろう?
どうせろくでもないことがあったのは間違いない。それを知ったからといって、何ができるわけでもないし、何かが変わるわけでもない。
考え事をしていると、ふと少女の視線がこちらに向いているのに気づいた。
哀しみの色合いはかなり強くなっている。
「あなたは既に一人殺してる」
少女は今日、初めて口をきいたが、その内容は少々グロテスクだ。
「そんな気はしてた。キャンプが襲撃された夜だろ?」
エリスはうなずいた。
「あれかな。ショットガンを持ってたやつ。顔と首にカードを一枚ずつくれてやった」
エリスは首をふった。
「じゃあ、トラックの運転手。顔に少なくとも三枚は刺さったはずだ」
エリスはまた首をふり、言った。
「トラックの荷台に乗っていた一人が死んだ。トラックがぶつかって、外に投げ出されて、首の骨が折れた」
「そいつ一人だけか?」
「ええ」
「…………」
「…………」
「…………」
「どんな気持ち?」
「え?」
「あなたは初めて人を殺した。どんな気持ちになれた?」
「さあね。後悔はしてないし、憐れみもしない。むしろ、ざまあみろ、って思ってる。どうして、そんなこときく?」
「わたしはもう、思い出せないから」
気まずい話題だ。沈黙が刺さってくる。ジャンはインディアナ名士年鑑を開いた。ここに来る前に本屋で買い求めたもので、インディアナの名士と呼ばれる人々――実業家、大地主、俳優、作家、政治家が顔写真入りで掲載されている。ファウスト曰く、このうち何人かはKKKのメンバーで、何人かはギャング、何人かはその両方だという話だ。
Pのページをめくる。ライナー・ポーターはウォーターヴィルの実業家として年鑑に掲載されている。前世紀っぽい手のかかる大きな髭をたくわえたハンサムな男がハンガーにぶらさがっている何百着という既製ドレスの前で笑って、そのうちの一着を手に取っている。
こいつがあの赤いシーツの男だ。エメラルドもこいつが持っている。
エメラルド自体に未練はないし、万が一手に入らず、自分が殺されることになってもいい。それでも、このクソ野郎が手にすることだけは許せない。
ドン!
銃声。工場からだ。窓ガラスに血が飛び散り、続いて、乱射。稲妻のように激しい銃弾のやり取りが鳴り響き、女工たちの悲鳴もきこえてきた。
「車から出る……後部座席の武器をとって」
「ヴァイオリン・ケースしかないけど?」
「床にバットがある」
エリスの言う通り、ルイヴィル・スラッガーが転がっていた。ファウストは釘バットにして攻撃能力を高めようとしたようだが、釘を二本打ったところで面倒になって作業を放棄したらしい。
「標的が出たら、それで無力化して。それ以外はわたしが排除する」
「バットなんて初めて触るよ。野球するロマなんて、黒人の合衆国大統領くらいあり得ない」
「そう……」
ああああ!
二階の窓が割れて、男が一人、叫びながら地面に落ちた。
路地の住人たちは銃撃戦が始まると、さっさといなくなった。野次馬根性よりも、もめごとを避けようとする本能が勝ったらしい。
ファウストが放った銃弾は窓ガラスを次々と景気よく破り、ときどき人間が窓から飛び出した。既に死んでいる場合もあれば、まだ死んでおらず、頭が地面にぶつかって卵の殻みたいに割れて、やっと死んだ場合もあった。
裏口から男が飛び出した。銃が見えたと思ったら、たちまちエリスが顔に二発撃ち込んだ。顔は吹き飛び、中折れ帽がどこかに飛んでいく。
「ファウストはマフィアなのか?」
バットを手でもてあそびながら、ジャンはエリスのほうを見た。
エリスはルガーを真っ直ぐ裏口に向けていて、空いた手は腰のポーチから伸び出た弾倉に添えられている。片手間で話ができる状態ではないはずだったが――、
「違うと思う」
エリスはこたえた。
「……昔はそうだったかもしれない。今はたぶん違う」
パンパンパン!
二人のクラン・メンバーが現れて、会話が途切れた。クランで警官で用心棒だったが、今は折り重なって物言わぬ死体になっている。
エリスには無駄な動きはなく、人を撃つことはトースターにパンを入れることと大差はないようだった。
パンパン! パン!
カーキ色の制服を着た肥満漢が胸に二発、額に一発もらって倒れた。その拍子に男の持っていたショットガンが火を吹き、漆喰片が降ってくる。
人が死ぬルーチンワークを見せられているのに、あまり嫌悪が湧かない。
ふと、思った。
このまま生き続けたら、自分もこのエリスみたいになってしまうのだろうか。
それをいいと思う感情もなし。悪いと思う感情もなし。
復讐に意味はない、という格言がある。
多くの賢人たちが言葉や表現を変えて、そう公言してきた。
ただ、そうした賢人たちは大切なことを見過ごしている。
復讐に憑かれた人間はそもそも人生に意味を求めていないのだ。
生きる意味がなくなるような出来事が起きて、ただ復讐だけが残ったのだ。
そして、今、裏口からライナー・ポーターが現れるのを見ると、復讐だけが自分を突き動かす動機なのだと実感する。
ジャンはライナー・ポーターを殴るのに、わざわざ釘が打ってある場所を使った。やすり掛けした釘の頭が引っ掛かり、確かな手ごたえがあった。悲鳴が上がった。ジャンはバットを力いっぱい引いた。こめかみから自慢の口髭まで、ノコギリで挽いたような傷が出来て、血が飛び散った。
突然、頭のなかで物凄い音が鳴った。アメリカじゅうのチャイナタウンの銅鑼が頭のなかでいっせいに鳴ったような衝撃で意識が飛んだ。
眼を覚ましたとき、二メートルを超える大男がエリスの首をつかみ、持ち上げ、趣味の悪い女人像に押しつけていた。
エリスの足は宙に浮き、蜘蛛の巣にかかった蝶のように弱々しく男を蹴っている。
気を失ったのはほんの数秒だったが、頭のなかでは殴られた衝撃で、まだ銅鑼が鳴っている。
立つことができない。釘バットが見つからない。
だが、エリスの銃がわずか三歩の位置に転がっている。
「ああ、くそっ」
ジャンは必死に這った。世界にはその銃と自分以外の何も存在しないかのようだった。
銃をつかむと世界はもう少し広がった。エリスと大男が加わった。
ジャンは一度も使ったことのない外国製の銃を握り、何とか起き上がり、膝を片方立てた。
たぶん、こんなふうに構えればいいはずだ。
引き金を引いた。
カチン。
弾切れの銃を握ったジャンを世界中が笑っている気がした。
大男はエリスを放した。エリスは地面に落ちてぐったりと横に倒れた。次の獲物を見つけた獣が近づいてくる。
ジャンは尻ポケットに手を伸ばした。
大男に喉をつかまれ、持ち上げられながら、ポケットから一組のトランプを取りだした。
薄れそうになる意識のなかで、ジャンはショーマン・シップの権化となった。
トランプを片手で切り、両手で切り、混ぜ合わせて、滝のようにざあっと流して、また手におさめ、そして、最後に左手にかさなった束に右の人差し指をポンと打った。
トランプが跡形もなく消える。
大男の目が丸くなった。
そして、しゃっくり。
数枚のカードが口から飛び出し、くるくる舞った。
ジャンは指を鳴らした。
次の瞬間、大男はジャンを放り出し、爆発した油田みたいに火を吐いた。
「ゲホッ! ゲホッ!」
咳き込みながら、ふらふらと立ち上がる。
「このクソッタレ野郎!」
体の内側から焼け死ぬという検視官泣かせの死体に一蹴りくれると、エリスに駆け寄った。
気を失っているだけで、息はあった。ただし、一週間かそこら、大男の手形が首に残るだろう。
ジャンに頬を軽く叩かれて、エリスは意識を取り戻した。
「う……やつは?」
「そこでバーベキューになってる」
「違う。ターゲット……」
「あ……」
ライナー・ポーターを見つけるのは簡単だった。地面に垂れた血の跡を追ってもいいが、労働者街の路地裏で二百ドルするスーツを着て、鍵のかかった民家のドアノブを必死に引っぱっている背の高い男は禁酒集会に紛れ込んだ酔っ払いほどに目立つ。
ジャンはバットを手にすると駆けていって、膝を狙って殴った。膝頭が砕ける確かな感覚。インディアナ州のグランド・ドラゴンはおもちゃを買ってもらえない駄々っ子のように地べたでのたうちまわり、泣き叫んだ。
エリスが運転するシボレーがすぐそばに止まった。ファウストは後部座席のドアを開けて、ポーターを引きずり込み、後ろ手に手錠をかけた。ジャンは助手席に乗り込んだ。
「なかなかのスイングだったろう、ミスター・ポーター? 言いたいことは分かってる。ヤンキースのスカウトマンを納得させるほどではない」
「D・Cだ!」
「え? ワシントン・D・Cにコネがあるって?」
「違う、D・C・スタッドソン。全部やつが考えたことだ。おれじゃないんだ。だから、頼む、殺さないでくれ!」
「あのね、ジプシーのキャンプを――」
「ロマだ」ジャンが訂正した。
「ロマのキャンプを丸焼きにするのに、インディアナ州クランの最高幹部が絡んでないなんて思うわけないでしょ? D・C・スタッドソンがゴーサインを出してることなんて、こっちはとっくに見当ついてるんだ」
「宝石はD・Cが持ってる! やつが愛人と密会する秘密のアパートを知ってる! ビーチ・グローブの北五番街の十二番だ。やつはおれが住所を知ってることは知らない。だから――」
「待った待った。どうしちゃったの? ハーマン・ベルングストム教授はもっといろいろ憎まれ口を叩いて、僕らを楽しませてくれたのに。あなたときたら、質問される前に宝石のありかを言っちゃうなんて。しっかりしなさい。あなたはグランド・ドラゴンなんでしょう? ウォーリーヴィル被服業界の巨星がバットで軽くなでられたぐらいでなんでもかんでもペラペラしゃべったと知ったら、あなたのために死んだ連中が浮かばれない。それにあなたはもぐりの酒場でアルコールを売ってる。つまり、全国紙の一面を賑わすスタントンやバルローネと同じ、立派なギャングスターってこと。ここは一発、おれの子分たちが黙っちゃいねえと小粋な台詞を吐くべきなんですよ。それに秘密のアパートなんて、こっちは知りたくもないんだよね。そりゃ、殺し屋なら誰だって、目立たない場所でさくっと仕留めたいと思う。秘密のアパートはうってつけ。でもね、依頼人は少しでも多くの白シーツ愛好家を道連れにしたいと思ってるんだ。だから、あなたが話すべきなのは、D・C・スタッドソンがたくさんのクランメンバーを集める演説なり集会なりをやる場所といつやるかってことなんだよ」
「お、教えたら殺さないか?」
「もちろん」
「冗談じゃないッ!」ジャンが叫んだ。「こいつはあの夜、ケダモノどもを率いていた! こいつはみんなを殺した! こいつは――」
「まあまあ。こういうことには手順があるんだ。彼のいうことは気にしなくていい。インディアナポリスで次に行われるクランの集会。それも大きなやつを教えるんだ」
「ほ、本当に殺さないのか。あんたたちはベルングストムを殺したじゃないか」
「僕はベルングストムなんか殺してないよ」
「……私が殺した」エリスが答えた。
「え? じゃあ、あのときの忘れ物って――うーん、じゃあ、彼女も殺さない。それでどうだい?」
「イ、インディアナ陸海軍兵士記念塔。地下にクランだけが知ってるホールがある。塔の地下の軍事博物館に飾られたマイルストーン将軍の肖像画を右に少し傾けるんだ。それで隠し扉が開く」
「まったく。この州が南北戦争のとき、北軍についたなんて信じられないね」
「約束だ。解放してくれ」
「いいとも」
ファウストはドアを開けて、シボレーからポーターを蹴り落とした。
そこは黒人街の小さな民家の前。
ミセス・ジェファーソンがガソリンの缶を手に立っていた。
ジャンはライナー・ポーターが生きたまま焼かれるのを眺めた。
これとまったく同じことが家族同然に暮らしてきた仲間たちの身にも起きたのだと思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
だが、炎のなかで死骸がギシギシ音を立てながら胎児のような形に縮んでいくのを見つめているうちにジャンは結局、自分は幸運なのだと悟った。大切な人たちを奪われた報復をジャンはわずか三日で叶えられた――ミセス・ジェファーソンのように何年もポーチで待つことなく。
グランド・ドラゴンが自らの業火に呑まれる様を見に、大勢の黒人たちが集まった。なかにはロビンソンも混じっていて、決闘の立会人みたいに腕を組み、細めた目でクランの大物が消し炭になるのを見つめていた。
やあ、とファウストが挨拶した。
「五百ドル分の価値はあった?」
「ああ。クランの幹部のバーベキューなんて、一生に一度見られるかどうかだからな。D・C・スタッドソン。どうせ、やつなんだろ? 残念な話だねえ。あんたはストラディバリウスを買った」
「だから?」
「デューセンバーグのモデルJ。上り坂でもサードから発進できる。ニューヨークのモーターショーで見たとき、停止状態から時速160キロまで加速するのに、二十秒もかからなかった。車輪のついたダイアモンド。D・Cの愛車だ。きっと蜂の巣になる」
デューセンバーグ社はインディアナ州が世界に誇る高級自動車メーカーだ。そのモデルJとなると、最低でも一台二万ドルはする。それに対し、ファウストが乗っているシボレー・スペリア・セダンは八百ドルだ。
自動車をこよなく愛するロビンソンにしたら、たとえ乗っているのがKKKの白いクソでも、デューセンバーグがおしゃかになるのは心が痛む。
「なるべく弾を当てないようにしてくれよな」
「うん。努力はするよ」