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卒業

忍が入院している病室を四倍にしたような広さの空間に、数台のリハビリ台やトレーニング機器、歩行のリハビリ用平行棒などが整備され、数人の入院患者が理学療法士(リハビリの先生)の補助を受けながらリハビリが行われていた。

今日からリハビリが始まる忍は、このリハビリテーション室に看護師に押され車いすで着いた所だった。

出入り口の受付で看護師が書類を渡している間、室内を眺めていた。

「神居忍さんですね。」

その声と共に白のケーシー白衣を着た女性が目の前に現れた。

忍は目線を上に向け挨拶をする。

「宜しくお願いします。」

「神居さんの担当の石塚と申します。宜しくお願いします。」

忍の前に立つ女性は、しゃがみ込みながら視線を忍と合わせた。

髪の毛をポニーテルにまとめ、少しつり目の茶色い瞳が忍を見つめている。

「リハビリはキツイ事も多いですが、一緒に頑張りましょうね。」

ニコリと笑顔を浮かべ立ち上がると、白衣が体の線を浮かび上がらせた。

スタイルの良い女性だな、そんな事を考えていると、後ろにまわった石塚先生が車いすを押してリハビリ室の奥へと進む。

ちょっと大きめの机の前に車いすを止めると、石塚先生がプラスティック製のコップを持ってやってきた。忍の前にそのコップを置く。

しゃがみ込んで視線を合わせた先生が、「神居さん、まずはそのコップを取って頂けますか。」と指示を出した。

「そんな簡単な事・・」

そう呟いた忍は、左手でコップを取りに行った。

伸ばした手がコップを掴むはずだったが、左手には何も触れない。忍は焦って二度三度と同じことを繰り返すが、コップを掴めず空を切る。

更に手を伸ばしてコップに触れたと思った瞬間、コップが机から落ちた。

茫然とする忍「神居さん。」石塚先生がコップを拾いながら優しく声を掛けてくる。

「いま神居さんの視野は、狭くなっています。普通は両目で180~200度。神居さんの場合は片目で耳側に約90度、鼻側に約60度と思われます。視野が狭くなった事で距離感や立体感もつかみずらいはずです。階段の上り下りや、歩行で転倒する事もありえます。このリハビリで生活する為の距離感を掴んでいきましょう。」

「それでは、もう一回やってみましょう。」

忍の右側から白い手が急に現れ、忍の目の前にコップを置いて行った。


目が疲れた。左手で目をマッサージする。

片目での作業がこんなにも疲れる物なのか正直ため息が出た。

リハビリ室を移動する為、石塚先生が車いすを押してくれている。大きな治療台の前に車いすを置き、忍に肩を貸しながら治療台に寝かされた。

石塚先生がカルテを見ながら覗き込むように忍を見た。

「これから右足のリハビリを行います。関節可動域訓練と言ってスムーズに体を動かせるようにする訓練です。ちょっと辛いこともありますが頑張りましょうね。」

ニコッと笑う先生。

その少し後、忍の苦痛に耐える唸り声が響いていた。


「パパ、お帰り。」

「月菜、来ていたのか。」

病室に戻ると、月菜が笑顔で出迎えてくれた。

忍はベットに座らせてくれた看護師にお礼を言って頭を軽く下げた。看護師は明日のリハビリの予定と、まだ固定されたままの右手と眼科の検診の時間を忍に伝えると病室を後にした。

忍以外にも、他の入院患者の家族などが見舞いに訪れていた。

月菜は周りを見回すと、忍のベットの周りをまわるようにコントラクトカーテンを閉める。

「パパ、話があるの。」

カーテンを閉め終わった月菜は、パイプ椅子に座った。

白いTシャツに、ブルーのデニムのミニスカート。両手を太ももの上に置き忍を見つめる月菜。

「お祖母ちゃんに聞いた。」

「そうか。」

月菜は、やっぱりパパはお祖母ちゃんと話をしていたのかと得心した。

「パパ・・・まずはお礼しなきゃね、まったく血の繋がっていない私を大切に育ててくれてありがとう。」

月菜は頭を深々と下げた。

「そして、お母さんの我儘を聞いてくれて・・・・あ・り・・がとう。」

月菜は頭を下げたまま続けた、太ももの上に重ねた手が震えている。

「・・・パパの人生を私の為に・・棒に振ってしまって・・・ごめんなさい。」

忍は優しい笑顔を浮かべながら、左手で月菜の頭を撫でる。

「いいんだ、月菜。気にしなくていい。」

「パパ。」

月菜が顔を上げた。キッとした表情で忍を睨むように見つめる。その眼には決意がこもっているように見えた。

「私は、パパを一人の女として愛しています。これからの人生を、パパが人生を棒に振った分、私の全て捧げます。だから・・だから。」

「月菜、そんな事考えなくても良いんだよ。」

「いやなの、それじゃあ。」

忍は月菜の目を見つめた。そして次の言葉を口にしようとした瞬間。

ガタ!パイプ椅子が音を立てた。

月菜が立ち上がりながら忍の首に強く抱きつき、唇を重ねて来た。どれくらいの時間が流れたのだろうか、ゆっくりと唇が離れていく。

そして、月菜が忍の瞳を見つめる。

「月菜・・・」忍は少し動揺していた。

「パパ・・パパの周りに沢山の女性が居るのも分かってる。それでもね、パパの事を一番知っているのは私、そして一番パパを愛しているのも私、私を育ててパパは自分の人生を犠牲にしてくれた。それに、うまく言えないけど、今迄私にくれた愛情を返したいの。だから、だから私を愛して下さい、私を選んで下さい。」

月菜は忍を見つめたまま、その手で忍の右目の上から頬に掛けて走る傷を優しく触る。

「目の事もお祖母ちゃんから聞いた・・・」

そう口にしながら月菜が唇を重ねて来る。

忍はされるがままに、月菜の一言一言を聞き逃さない様にしていた。

血のつながりが無い事を知った娘が、自己犠牲を払って忍に寄り添うとしている。

忍は娘への愛情なのか、無下に否定することが出来なかった。

母の言ったとおりに、一人の女性として見てやることが正しいのか、それともこれまでどおりに娘として接する方が良いのか。

自分でわかっていることは、月菜が娘として卒業してしまったこと、そして一人の女性として自分に関わろうとしている事。

そして・・自分はどうしていいか分からなくなっている事。

ただ、今は娘である月菜を優しく抱きしめてやる事、子供の頃からそうしているように。

唇を重ねて来た月菜を、動く左手で優しく抱きしめる。

「パパ・・・」

重ねた唇から吐息が漏れる。

カーテンの外から見舞客たちの笑い声が聞こえていた。



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