性・・・女性として。
お願いします。
会社の近くの喫茶店、つい先週も神居忍と話しをした場所だ。
その時と同じテーブルに下田陽詩と、神居美佐子は腰を下ろしていた。
「し・も・だ・さん」
そう声を掛けて来たのは、五島さんだった。
グレーのブラウスに、黒のタイトスカート、そして耳にペンギンのピアス。
下田陽詩の座る席にあるPCの画面をのぞき込むように、陽詩の耳元で小さく声を掛けて来た。
陽詩はいきなりの事で、ビックリした声を上げた。
「きゃっ!ナニ・・・」
陽詩はそこに五島さんの顔を見つけると真顔で抗議する。
「なんですか、五島さんビックリするじゃないですか!」
五島さんは意地の悪い顔をすると、ニヤニヤしながら陽詩を見た。
「せっかく下田さんに良い事教えようと思って来たのに・・・」
陽詩はその顔を用心深い顔をして見た。
「・・・・なんですか、その良い事って。」
「ふふふ、知りたい?」
意地悪な顔をしながら笑う五島さん。
「・・・・なんですか、何のことだか分かりませんけど、興味なんかありません。」
「へー、興味ないんだ・・・」
そう耳元でささやくと、椅子に座った陽詩の全身を上からなめるように見つめる。
肩に触れるか触れないかのアシンメトレーにしたショートの髪、前までは普通のボブスタイルだった。
そしてサンドベージュのスキッパーシャツの開いた胸元からエメラルドの小さなネックレスが見えている。そしてデニムのロングタイトスカート、足元は黒のサンダルハイヒール。
スカートの大胆に開いたスリットから白い肌がきれいに見えている。
少し前の陽詩ならこんなお洒落はしていなかっただろう。
五島さんがニヤリと笑う。
「下田さん、変わったよね・・・・」
「な・・・なんですか。」
「恋っていいわよね。」
「何を言って!」
下田さんは真っ赤になっている。
同じ部の社員が、五島さんと下田さんのコソコソ話に耳を傾けている。
すると、急に真面目な顔をした五島さんがポケットからメモを取り出し、下田さんに渡した。
「なんですか?」
下田さんは五島さんと、メモを交互に見る。
「貸しかな・・・」
「貸し?」
「そう貸し、私何となく応援してるのよ。」
下田さんは訝しむ表情を浮かべる。
「その代わり・・・貴方と神居課長の昔の恋バナ、教えてねぇ。」
「恋バナ!そっ・・そんなの無いです。」
「いいから、いいから、早くしないと帰っちゃうよ。じゃあね、恋バナ宜しく。」
五島さんは手を上げながら踵を返した。
「ふぅ・・・なによ。」
陽詩は溜息をつくと、五島さんから渡されたメモを開いた。
「・・・・・・・!」
ガタッ!陽詩は急に立ち上がると部の全員に向かって声を掛けた。
「すいません、ちょっと使用で席を外します。すいません!」
陽詩はメモを胸元で握る。
「神居課長のお母様が来社してます。内緒ですけどね。貸し一つ、宜しく。 五島」
自分のバックを引っ手繰るように持つとオフィスを小走りに出て行った。
「おまたせしました。」
ウェイターが、月菜と美佐子の前に珈琲を丁寧に置く。
「ごゆっくり。」
ウェイターは優雅に声を掛けると、二人の席から離れていった。
「あの・・お母さま。」
美佐子はゆっくりと珈琲に手を伸ばし一口飲む。
ゆっくりとカップを戻すと、陽詩に優しい笑顔を向けた。
「本当に久しぶりね・・・もう何年かしらね。」
陽詩は自分の聞きたいことから話を外された気がした、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をして美佐子に向き合う。
「お母さま、もう十年以上になります。」
「そう・・・もうそんなにかるかしら、月日が経つのは早いわね。」
美佐子は感慨深気な表情をする。
「でも、さっきの話だと今は忍と同じ会社にいるのね。」
「はい・・たまたま、まさかとは思いましたが。」
「そう・・・偶然とは不思議よね。」
美佐子は白髪の混じった髪の毛をちょっと撫でた。
昔、忍と付き合っていた頃の美佐子は黒髪を後ろで一本に束ねていた。
今はボーイッシュなベリーショートの髪をしている。
陽詩は意を決して美佐子に聞きたかったことを尋ねた。
「あの・・・お母さま、忍さんが事故に遭われたと聞いたのですが、容態は・・・容態はどうなんですか。」
焦って聞きたいことが山ほどあったが、一番知りたいことが口に出た。
美佐子は淡々と経緯と今の状態を教えてくれた。
「・・・・・じゃあ、忍さんは・・大丈夫なんですね・・・良かった。」
そう言葉にした瞬間、陽詩の瞳から涙が溢れ出す。
陽詩は必死に手にしたハンカチで涙を拭いながら美佐子に笑いかけた。
「ごめんなさい、会社では誰も教えてくれないし、どうなっているのか不安で、不安で・・・今日お母さまにあえて本当に良かった・・・何もわからないのがもどかしくて・・・」
その姿を美佐子は見つめる、陽詩の本心をさぐるように・・
「忍にまだ面会は出来ないけれど、容態は良くなっているわ。でも、その後も大変らしいけど。」
「はい。」
「その内、面会の許可も出たらお見舞いに来てね、忍も喜ぶわ。」
「・・・・・・そうですね、忍さんが良いと言えば・・・」
寂しそうな顔をする陽詩を見て、美佐子は何かを感じたのか話を変えた。
「陽詩ちゃん、今はもうご結婚されてるの?あれからずいぶん経つものね、今は幸せなの?」
陽詩は暫く沈黙した後、大きく息をすると美佐子を真っ直ぐ見つめながら、一つ一つ丁寧に話し始めた。
忍との別れ、結婚や離婚、一人娘の話し、そして忍との再会、自分の中では永遠に感じる出来事を自分に
噛んで含めるように、美佐子さんに話した。
「そうだったの、貴方には忍が迷惑を掛けたわね・・・昔の事とは言え、私からも謝罪をさせてもらうわ。」
美佐子は深々と頭を下げた。
「そんな・・お母さま頭を上げて下さい・・その当時は怒りの感情が先走って、お父さまやお母さまに何も連絡しないままでしたから・・・」
「いえいえ、忍の選んだ人生で、貴方の人生迄傷つけたんじゃないかと、ずっと頭の隅に残っていたの・・・・いつか謝りたいって。」
本当にすまなそうにしている美佐子、陽詩は居住まいを正すと美佐子を真っ直ぐに見つめた。
「お母さま、本当の、本当の事を教えて頂けませんか?」
「本当の事?」
美佐子は陽詩が何を言うのかと動揺していた。
陽詩は美佐子のちょっとした表情の変化も見逃さない、そんな強い視線を向けていた。
「お母さま、忍さんと月葉さんは、本当に、本当にそんな関係だったのですか?」
真っ直ぐに見つめる陽詩の視線、だが、美佐子も伊達に歳を重ねてはいない。
「どう考えても忍さんと、月葉さんとの関係には無理があります、忍はそんなに上手く誤魔化す事なんて出来る人じゃなかった、お母さんは、お母様は何かご存じなんじゃありませんか。」
美佐子は一口珈琲を口にすると、ゆっくりと口を開いた。
「そうね、忍には忍の考え方と覚悟があったのでしょうね・・・」
「お母さま、私が知りたいのはそんな・・」
陽詩の視線を受け止めた美佐子は真剣な顔をした。
「陽詩さん、人にはその時々で決断しなければならない事があるでしょうし、その選択の為に相手を傷つけてしまう事もある。私の人生には有難い事にそんなに大きな決断を下す様な事はありませんでした・・でもあの子は、忍は月葉さんとの子供を育てることを選んだ、ただそれだけです。忍にひどい目に合わされた陽詩ちゃんには申し開きも出来ない・・・忍を許してやってとは言えないけど、でも忍は自分の人生を今、生きている・・・・でも・・それでも陽詩ちゃんには謝らなきゃね。」
深々と頭を下げる美佐子。
「お母さま・・・・」
陽詩は強い意志を持って美佐子を見た。
「お母さまから強引に聞こうとは思っていません。私は子供も居ますし離婚もしています。もうあの時のような子供でもありません・・でも・・・今、ハッキリと確信しています。忍さんと月葉さんの間には何か、何かがあったのだろうって・・・それが何かは分かりません。そのうち忍の口から聞き出すつもりです。 ・・・・わたしは、私は最近になって気が付いたんです、だいぶ・・いえ・・凄く遠回りしましたが。」
美佐子は少し饒舌なくらいな陽詩を見つめた。
「お母様、私はお母さまにお話ししておきたい事があります・・・こんな事言える義理は無いかもしれませんが、私は、わたしは、忍さんを愛しています・・これからお話しする事は私のエゴかもしれません、はしたない女だと蔑んで頂いても構いません・・・・私はあの時、何故忍を信じて理由を聞かなかったのかって後悔しています。・・・忍を忘れる為にくだらない男とも付き合いました・・・そしてこの人ならと思って、結婚して子供まで授かりました・・でも離婚してまた一人になりました。・・・・・最近気が付いたんです・・・わたし、私は忍さんの事をまだ忘れられずにいた事に、そして愛したまま他の男に抱かれていた事に。」
一気に言葉にした陽詩の両目から涙が溢れる、それは後悔なのか。
美佐子はテーブルの上で震えながら話し終えた陽詩の手に自分の手を重ねた。
「貴方も辛かったのね・・・でも女ですもの・・仕方がない事。」
そう一言だけ口にすると、そっと人差し指で陽詩の涙をすくった。
そして・・・女の性、女としての生き方、既に老境に差し掛かった自分に、この子達に何をしてあげられるのか、自分に救えるのか・・・自分は真実を知っている、でも忍の為、啓二の為、月葉さんの為、月菜の為に口をつぐんで来た。
でも、この子達は自分と違ってまだ未来がある・・・忍の為にも、孫の為にも、そしてこの目の前の陽詩の為にも全てを話すべきなのかと悩む、そして言えた言葉はひどく象徴的な言葉だけ・・・。
「陽詩ちゃん、しのぶに、忍にちゃんと向き合ってみなさい、そうすれば何かが変わるかもしれない・・・でも、それは貴方を余計に苦しませることになるかもしれない・・それでも良いの。」
美佐子の問いに。
「・・・お母さま、私はもう後悔したくないんです。」
涙が溢れる顔に笑顔を浮かべ陽詩は力づよく答えた。
「そう・・・・」
美佐子は自分の息子がこんなにも好かれている事を嬉しく思い、また孫の事を思うと苦しくもあった。
そして、一人の女として自分は何が出来るのだろうかと考えていた。