触れたい・・・抱きしめたい・・・もう一度、抱きしめて・・・
忍の意識が戻ったと言っても、集中治療室から出られた訳では無い。
状況はまだ予断を許さない。
30分だけ看護師と一緒との条件付きで面会が許された。
ベットに横たわる忍の姿をやっと見ることが出来た、お祖母ちゃんに肩を抱かれながら忍と分け隔てる透明な窓ガラス越しの面会。
「パパ・・・・」
それでも、やっと見ることが出来た父親の姿に涙が止まらない。
祖母もやるせなさそうな表情を浮かべ、月菜を強く抱きしめている。
「お父さんにこちらの声は聞こえるてるはずですから、話し掛けてあげてください。」
看護師さんが優しく教えてくれる。
月菜は祖母の手を借りながらヨロヨロと窓に近づき、手を窓についた。
「パパ・・・・・・早く良くなってね。」
月菜の目から涙が溢れる。
「わたし、パパが元気になったら・・・わたし・・わたし・・パパに・・・おねがいパパに触れた い・・・お願いですから・・・パパを感じたい・・・」
月菜の祈る言葉の最後は段々小さくなり、声にならなかった。
「月菜、大丈夫よ、忍は私が産んだ子だから絶対大丈夫よ。」
祖母も辛い筈なのに月菜に優しく励ましてくれる。
「お祖母ちゃん・・・・」
祖母が優しく月菜の頭を撫でてくれた。
「神居さん、面会時間は終わりです。・・・・すいません。」
申し訳なさそうに看護師は頭を深々と下げた。
「そうですか、意識が・・・はい、はい、それで月菜さんは、はい、そうですか。」
高橋楓先生は自分の席で立ちあがりながら、携帯電話の向こう側の人物に頭を何度も下げながら話す。
「そうですか・・・よかったです。はい、はい、宜しくお願いします。」
深々と頭を下げ、先方が電話を切るのを待つ。
先方が電話切ったのを確認した高橋先生は、疲れ切った顔に笑顔を浮かべた。
「神居さんのお父様の意識が戻られたようです。」
職員室に高橋先生の声が響く、他の先生のため息や、喜びの言葉が漏れだす。
高橋先生はゆっくりと自分の席に座ると、大きくため息をついた。
「よかった・・・・ほんとに・・よかったぁ。」
他の先生に見られないように、そっと溢れた涙を拭う。
本当だったら、すぐにでも病院に行きたかった。
神居忍さんと交際を始めるにあたり、生徒の保護者と教師と言う関係上、慎重に行動しようと話していた。
まずは月菜さんへ私達の関係をお父さんから話をする、そして私も両親に二人の関係を話し理解してもらってから交際を始める。
そして、暫く交際を重ねてから学校へ二人の事をキチンと報告するつもりだった。
それが、そんな計画をあざ笑うかのような今回の事故。
忍の事故の報を聞いたときは、自分の感情だけが先走りしそうだった。
何とか自分の感情を抑え付け、月菜さんから状況を聞こうと思ったが月菜さんも学校を休んでいた。
朝目が覚める度に忍の入院する病院へ行ってしまおうかと悩んだ、心配で他の事が手に付かなかった。
それが今受けた忍さんのお母様からの連絡で、何か憑いていたものが落ちた気がした。
涙が溢れそうになり、高橋先生はそっと職員室を出た。
授業中の廊下は静寂に包まれていた、何処かで教師の声と生徒の笑い声が聞こえる。
高橋先生は職員室から離れた階段の踊り場に来ると、隠れるようにその場にしゃがみこんだ。
目から涙が溢れだす。
「しのぶ・・・・よかった、ほんとによかった・・わたし、わたし、・・あなたに、あなたを抱きしめたい・・・もう、はなしてやらないから・・心配かけて・・ゆるさないから・・」
自分の体を抱きしめながら、止めどもなくあふれる涙を拭うことすら忘れ、忍に抱きしめられた時の温かさを思い出していた。
「え?・・・・いま何て・・」
営業部のオフィスで、吉田部長を前に目を大きく見開く。
吉田部長は椅子に座りながら、そのでっぷりと突き出た腹を下田陽詩に向けながら真剣な顔をしていた。
禿頭に皺を寄せて小声で話す。
「先週の事だよ、容態も状況もハッキリするまでは、会社でも口外出来なくてね。」
「そんな・・・・」
「神居君のお母さんの話では80キロ近いスピードで跳ねられて、今も集中治療室らしい。」
「吉田部長・・・なんで話して・・・」
心なしか、陽詩の体が小さく震えている。
「それはそうだろ・・個人情報だからね、状況がはっきりするまでは伝えられないよ。それが例え、下田さんと神居さんの間に昔関係があったとしてもしてもね。」
吉田部長は、神居忍が転勤して来た時の下田陽詩との騒動の事を指して言っている。
「そんな・・・」
「それにハッキリした事が分かるまで、会社として箝口令を出しているからね。」
吉田部長はそう言うと渋い顔をした。
「しのぶ・・・神居さんは、どこの病院に入院しているのですか。」
「それも今は言えないな、なんにせよだ・・神居君のお母さんが近いうちに会社に報告に来て下さるらしいから、それまではあまり騒がないでくれよ、それによって会社としても動きが変わるから。」
そう答えると吉田部長はこれでこの話はおしまいと言うように、陽詩に背中を向けてしまった。
吉田部長が箝口令と言いながら下田陽詩に事情を話してくれたのは、神居忍と下田陽詩の関係を少しは知っていたからだろう。
吉田部長の背中を見つめる陽詩の両手が自分の口を押えた・・・ボロボロと涙が零れる。
陽詩は踵を返すと営業部のオフィスを小走りに出て行こうとした。
走り出した陽詩は誰かと肩がぶつかった。
「・・・・・・」
謝罪の言葉もなく出て行く陽詩の背中を、ぶつかられた五島さんが振り返る。
「下田さん・・・・泣いて・・・」
陽詩は非常階段の踊り場の壁に背中を預けていた。
忍が・・・しのぶが、事故。
なんで・・・なんで誰も私に教えてれないの・・どうして。
会社が教えてくれなかったことを恨む、冷静になれば逆恨みなのもわかっている。
集中治療室で懸命に戦っている忍・・・もし、もしも、忍が・・・忍が死んだら。
もしかしたら、今にも・・・・やだ。
やだ、やだ、やだ、やだ・・・思えば思うほど涙が溢れ嗚咽が漏れる。
誰か・・だれか助けて下さい・・・・・
もう一度、私に、私に、チャンスを下さい。
忍が・・・好きなの、忍を愛しているの・・・・最近気が付いたの・・・本当に愛していたことに・・だれか・・だからチャンスを下さい。
胸が苦しく、嗚咽が漏れる・・涙が溢れて溢れて、拭っても拭っても拭いきれない。
陽詩は踊り場に崩れ落ち、冷たい床が陽詩を受け止める。
「しのぶ・・・」
歓迎会の夜・・忍に助けられ抱きしめられた体、縋りついた胸、忍の体温。
「忍・・・叶うなら、もう一度・・もういちどだけでいい・・私を抱いて・・抱きしめてください・・・しのぶ・・・お願い・・しのぶ・・」
非常階段に陽詩の嗚咽だけが響いていた。




