もとかの・・・
※「・・・そうよ、12年よ・・忘れかけていたのに。」
お昼の時間帯を迎えたエレベーターホールは、ちょっとした渋滞を招いていた。
「皆さん、何を食べに行くんですか。」
「とりあえず、G県名物にしようと思っているんですけど。神居さんG県は初めてでしょ。」
視線をエレベーターから戻しながら訪ねると、五島さんが顎に人差し指をあてながらG県名物の何にするか考えていた。
「この辺だと、うどんか、カツ丼かな。」
「あ、カツ丼と言ってもこっち(G県)はソースカツ丼ですから。」
五島さんの提案に、六郷君がカツ丼をソースカツ丼と言い直し、ソースカツ丼について説明を始めた。
「ソースカツ丼はですね・・・」
「しーのーぶぅー!ここののぉぉぉ!」
ソースカツ丼について語り始める六郷君の声に、何か唸るような大きな声が重なって聞こえた。
『ポフ!』と頭の中に音が響き、背中に鋭い痛みが走る。
「なっ・・」
思わず周りを見回した、吉田部長、六郷君、加藤君、五島さん・・そして他の視線の全てが何事かとこちらに向いていた。
『ボフ!』また音が響き鋭い痛みが背中に走る、何が起こった?真後ろを向く、エレベーターホールで待つ男女の視線が自分に向いている。
「しのぉぶー!むしするきぃー!」
『ボフボフボフボフボフ!!!』頭に響く音と共に、今度はお腹の辺りに物理的衝撃が走る。
「うっ・・」
思わず衝撃にうめき声を上げ、視線を下げた。
どのように説明したらいいのか・・・
傍から見たらこうだ。
大きい男に小さな女の子が、両手を振り回しながらグーパンチを何発も入れているのを想像してもらえれば分かると思う。
小さい女の子は、大きい男の胸の辺りまでしか手が届かないが、男をグーパンチでタコ殴りにしている・・・・いや、・・しているつもりらしい。
大きい男は、おもむろに右手を上げ、小さな女の子の頭に手を当て自分から軽く突き放す。
頭を手で押さえられ、距離を取られた。
グーパンチが当たらない・・振り回す渾身のグーパンチが空回りしている。
「漫画だ・・」
「きぃいぃい!!」
傍から見ていた部長が呟く、小さな女の子がネズミみたいに吠える・・鳴く?
謎の小さな女の子にパンチを食らい続けるわけにはいかない。
何が起きているのか分からない。
現状を打破する為にも、その小さな女の子の頭を押さえ、自分との間に間合いを作った。
「きぃぃ!!この裏切りものぉぉぉおぉ!!」
そう叫ぶと、その女の子は押さえつけられている腕の下から顔を上げた。
鬼の形相、世の中の人間の100%が思い浮かべるであろう、あの般若のお面。
腕を振りまわす姿の背後には、陽炎のような焔が見えているような気がした。
何事が起きたと見つめる忍の目に、何かを思い出したような光が差す。
「あっ・・・」
「忘れたとわぁ!!いわせないんだからぁぁあああ!!」
「お前・・陽詩・・か?」
目を真ん丸に開き、その女の子・・いや・・女性を見つめる。
「きぃいー!お前なんか!お前なんかかぁあ・・・」
漫画のような光景に、エレベーターホールの人々は固まり続けていた。
窓の外を人が歩いている、その歩道の先を数台の車が走り去る。
気まずい・・なんでこんな事が起こっているのか。
担いできた陽詩をそのままこの喫茶店に連れ込んだ迄は良いが、沈黙が流れていた。
目の前には二つのカップが置かれ、コーヒーの良い香りが漂っている。
テーブルを挟んだ反対側に、鬼が俯いて座っている。
白い薄手のブラウスに、大きなリボンがあしらわれているが、怒りの所為かリボンが小刻みに震えている。
エレベーターホールで暴れる陽詩を両腕で上に持ち上げた。
「部長、すいませんお昼はまた今度でお願いします。」
「ぎゃぁ!!離せ!持ち上げるな!さわるなー!!」
部長と唖然としている部下3名を残し、両腕で持ち上げられ騒ぐ陽詩を非常階段で連れ去って来たのだ。
沈黙が続く、耐えきれなくなった忍が独り言のように話かける。
「ひさしぶりだな。・・何年になる。」
ガタ!陽詩が声に反応した。
また殴られるかと思い少し身を引く。
陽詩の両腕が伸びて来る。
「っ!」
思わず殴られるかと思い小さく身構える。
陽詩がコーヒーカップを両手でつかむ、一気にコーヒーを飲む。
ゴクッ・ゴクッ・ふー。
猫が怒っているように息をつく。
「12年・・・」
いきなり口を開くが、陽詩は俯いたままで顔を上げようとしない。
「そうか・・もうそんなになるか・・」
なんとも気まずいが、返事をする。
「・・・そうよ、12年よ・・忘れかけていたのに。」
そういうと下から睨みつけるように顔を上げた。
細い眉が上に向いて弧を描いている。黒目勝ちのドングリ眼を細め睨みつけている。
昔は長かった髪が肩口辺りに切りそろえられていた。その髪が俯いた頬と唇にかかる。
長いまつ毛が冷たい視線に拍車をかける。
若い頃はシャープな顔立ちをしているものだが、12年の歳月が昔の鋭さを和らげ、大分柔らかい印象を陽詩に与えていた。
でも・・変わらずに可愛らしい・・が、今は正直怖い。
「・・アナタの名前を受付の電話で聞いた時は「まさか?」と思ったわよ。」
「受付の電話に出たのは、陽詩だったんだ。」
「ひ、陽詩って呼ぶの止めてくれない。馴れ馴れしい・・」
前髪で顔の表情が分かりづらいが、相当怖い顔をしているのは確かだ。
「じゃあ・・た・・たかはし・・さん?」
「ちっ!」
いま、チッ!って舌ならしたよね・・一応お名前は間違っていないと記憶しておりますが・・まさか、間違えました?
忍は流れる冷や汗が、背中を伝って下に流れるのを感じ、自然と背筋を伸ばす。唾を飲み込む。ごっくん・・
「しもだ!」
「は・・い?」
「し、も、だっ!」
「はっはい?・・し・・しもだ・・さん?」
「そうよ!下田よ!12年前と今じゃ違うの!アンタなんかと違って嘘つかない男と結婚したの!ふん!」
俯き加減だった顔を上げ、まるで害虫をなじるような目を向ける。
それはそうだ、12年も経てば結婚もしているだろうし、お子さんもいるだろう・・
とりあえず、落ち着け俺・・とにかく話を穏便な方向に変えなくては。
「し・・しもださん?」
「なによ・・」
肘をテーブルの上に乗せ、その手に頬を乗せ睨みつけている・・目が座ってます。
不服そうに何か用かと訴える視線。
「なんで・・その、このK市に?」
頬を乗せていた手が、段々グーに変わっていく様をただ見つめる俺。
「わたしは・・貴方と約5年・・5年も付き合ったのよ・・その間に何回生まれた場所の話をしたと思う・・・」
グーに握る手の指が白く変化してくる。
やばい・・・
「そうよね・・そうだわよね・・5年よ・・5年も私を騙していたのよねぇ・・貴方は・・。」
グーが震え始める・・・
まずい・・でもここ喫茶店だし・・公共の場だし・・背中を流れる汗が滝になる・・額に汗が流れ始めるのを押さえるのも限界だ。
陽詩はコップの水に手を伸ばし、一気に呷り「ダン!」と音を立ててコップをテーブルに叩きつけるように置いた。
コップを握ったまま、俯いている。
ふーっふーっ・・・・ゆっくりと深呼吸をしながら顔を半分だけ上げた。
「まぁ・・いいわ、ここは喫茶店だしね。」
何が言いたいのであろう・・とりあえず次の言葉を待つ。
「そうよね、貴方にとっては遊びだった私の事教えてあげるわねぇ・・・このK市は私の生まれ育った所、故郷に戻ってきたのが1年前、そして今の会社に友達の紹介で入ったのよ・・・新しい門出だったはずなの・・ここまで順調にきていたのに。」
陽詩の握りしめる空のコップがミシッ!、音を立てたような気がする。
「貴方の事なんて忘れていた・・・それなのに、今朝、貴方の名前を聞いた瞬間、悪夢が蘇ったわ・・思い出すのもおぞましい。・・それなのにぃ・・いくらでも同じ名前の人はいる・・同姓同名なんていくらでもいるって・・・そう思ったのに。」
ピシッ!ピシッ!・・・コップ大丈夫かな。
「そう・・他人だと思ったのに・・他人だったらよかったのに・・・なのに、本物のうそつきの裏切り者が現れるなんて・・ゆるさない・・ゆるせない・・純情だったあの頃の私を弄んで・・」
事務所でのあの黒い影の正体はこいつか・・確信を得る。
「それから、会う男、会う男・・・ぜっっんぶ!クズの嘘つき!!全部アンタの所為よ!」
あれ、さっき「アンタなんかと違って嘘つかない男と結婚したの!ふん!」とか言ってませんでしたか?
パリンンンンン!コップが遂に弾ける音が響いた。
やばい、態度に出てしまったか?!
ガタン!椅子を弾くように陽詩立ち上がった、そして顎を突き出すように向け、見下げるような態度をとる。
「私と付き合った5年間、奥さんと子供がいるのを隠してるなんて、嘘つきの卑怯者の貴方には何が何でも責任を取ってもらいますからね!覚えてらっしゃい!」
そう言葉を投げ捨てるように立ち上がると、地響きを立てる様に喫茶店を出て行った。
・・・・ご・・誤解だ。