決意
宜しくお願いします。
※カウンターの下で、楓先生の柔らかい太ももが、忍の太ももに触れる。
「居酒屋上州」
そのカウンター席で忍は瓶ビールを前に溜息をついた。
今朝高橋楓先生から電話があり、この店で待ち合わせをしていた。
その一時間前には下田陽詩と、心身が疲れるような話をしてきたばかりだ。
「か・み・い・さん。」
呼ばれて振り向くと「えっちゃん」が笑みを浮かべながら忍の側に立っていた。
えっちゃんは、忍の前にある瓶ビールを手に取ると、「はい、お疲れ様。」そう言うと忍にグラスを手に取る様に促した。
ビールを忍の持つグラスに注ぎながら笑みを浮かべる。
「神居さん、なんか疲れた顔をしてるわね。」
ビールを注ぎ終わると、忍の前にビール瓶を置く。
「いや・・・まぁ・・」
忍は後頭部を掻きながら笑った。
「楓・・そろそろ来ると思うけど。」
「大丈夫ですよ、自分が早く来ただけですから。」
忍は苦笑いを浮かべながら答えた。
「ねぇ・・・楓と付き合うの?」
真顔で忍の耳元に顔を近づけながら、他のお客さんに聞こえないように聞いて来た。
「いや・・どうでしょうか、僕はバツイチの子持ちですから。」
笑いながら答える。
「そう、でも・・・娘さん、楓が担任だって・・・」
忍はちょっと驚いて、目を見開く。
「高橋先生から聞いたんですか?」
えっちゃんはバツが悪そうに苦笑いする。
「はは・・楓から聞いたのは内緒って事で。」
「・・・まぁ・・かまいませんけど。」
忍はグラスに口を付け。
「付き合うかは別にして、今日も学校の事で電話を頂いたものですから。」
「そう・・・」
えっちゃんは指を唇に当てながら、視線を上にして思案するように眉目に皺をよせ。
「ねぇ、神居さん、今日は楓に最後まで付き合ってあげて・・・明日休みでしょ。」
そう言うと、視線を忍に戻して笑う。
「・・・まぁ・・、今日はもう予定もありませんし・・別に。」
そんな会話をしていると、ガラッ!出入り口の暖簾が揺れて高橋楓先生が姿を現した。
忍の横に座る高橋先生の話が一通り終わった所で、忍は少し落ち込んだような先生を見つめた。
グレーのひざ丈のフレアータイトスカートに、ブルーの襟付きのシャツ、ストッキングは薄手の黒、そして黒のヒール。
先生に似合っていると正直に思った。
月菜が職員室を飛び出した一件を聞いて、その後の月菜の行動になんとなく合点が行った。
高橋先生は申し訳なさそうに忍を見つめ、「お家では・・・おうちでの様子はどうでした。」
忍は明るく笑みを浮かべ、
「先生、ありがとうございます。学校を飛び出した時は思う所があったのかもしれませんが、家では何時もどおり笑顔でした。」
忍はその後の月菜の行動を担任に話すべきか悩んだが、月菜との事は親子で解決するべきだと思い、これ以上は話すべきでは無いと判断した。
「そう・・・ですか、なら良かった・・・」
高橋先生はホット胸を撫でおろした。
「・・・飛び出した月菜さんが、あの後どうしたのかと電話をしたのですが、神居さん・・留守電になっていたものですから・・・朝一番で電話してしまって申し訳ありません。」
高橋先生はそう言うと深々と頭を下げた。
「先生・・・お気になさらないでください。ご迷惑をお掛けしてるのはこちらですから。」
忍もそう答え頭を下げた。
「先生、もうこの話はやめましょう、普通に食事を楽しみませんか。」
「そう、ですね、・・・そう、そうしましょ。」
忍は上手いこと話の流れを変えることが出来たことに、ホット胸を撫でおろす。
楓は自分の前で手を合わせると笑顔を浮かべ、ビールの入った自分のグラスを手にした。
「仕切り直し、と言う事で乾杯しましょ。」
忍が手にしたグラスに自分のグラスを合わせた。
暫く高橋先生と忍は世間話に花を咲かせ、笑いながらお酒を楽しんだ。
どれくらい経っただろう、二人に間に話題が途切れた。
沈黙が続く。
店内では他のお客さんの笑い声や、話し声が聞こえる。
店内は満席に近い状態で、えっちゃんと他の従業員がバタバタと注文取りや、配膳に飛び回っている。
カウンターの隣に座る楓が、忍を見つめながら体を寄せてくる。
高橋先生は忍を見つめながら小声で、「神居さん・・・・この間の事、覚えています。」上目遣いに忍を見る。
「高橋先生、僕はバツイチの子持ちですよ。」
「はい・・・存じています。」
「高橋先生はまだ若いですし、僕のような男はやめた方が良いと思います。」
苦い顔をして忍は口にした、男として告白され光栄なことだと思う、でも今の自分が置かれている環境は、決して高橋先生には良いとは言えないと思う。
「高橋先生、お気持ちは大変うれしいです。でも、もしそれを私が受け入れてしまったら、先生が不幸になるかもしれない・・。」
忍の語尾が段々小さくなる。
高橋先生はしばらく沈黙した後、少し寂しそうな顔をした。
「神居さん、私の幸せは他人が図ることなんて出来ません。私の幸せは私自身がつかみ取って実感することだと思っています。」
まるで、忍を威嚇するかのように強い口調で答える。
楓は自分の左側に座る忍に体を向けた。
カウンターの下で、楓先生の柔らかい太ももが、忍の太ももに触れる、まるで何も気が付いていないように楓は忍を見つめた。
忍は慌てて高橋先生の太ももの感触から逃げるように、足を組もうとした。
「忍さん、逃げないで。」
そう小声で囁くと、左手で逃げようとした忍の太ももの上に手を置いた。
楓の大胆な行動に忍は動揺を隠せない、自分たちの後ろには客席がいくつかあり、楓の行動は後ろから見てもまるわかりのはずだ。。
「・・・たかはし、先生・・」
忍は息を飲む。
それだけでは終わらなった。
カウンターの上でも楓が大胆な行動に出た。
楓の右手が忍の手の上に伸び、指が重ねられる。
「全てわかったうえです。」
「でも・・・・」
忍が反論しようとした。
「私はこの前も言いましたが、本気です。」
真剣な表情で忍の目を見つめたまま答える。
沈黙が訪れる。
楓は大きく深呼吸をすると。
「少し酔ったみたいです、風にあたりませんか?」
そう口にして微笑んだ。
渡良瀬川、この街を代表する川だ。
川の流れが速いのかゴロゴロと河原の石も一緒に流れる音が聞こえる。
土手が舗装されちょっとした散歩コースになっており、歩道にポツンポツンと灯る街灯が川の曲線を先の方まで浮かび上がらせていた。
心地よい風が川の流れに沿って吹いている。
遠くに民家の灯りと、夜空の星が周りの山々を浮かび上がらせていた。
高橋先生と忍は土手道をゆっくりと並んで歩ていた。
「風が気持ちいですね。」
高橋先生が腕を上げながら伸びをする。
「神居さん・・・」
高橋先生が横を歩く忍に声を掛けた。
「・・・・・・神居さん、私には姉がいるんです。」
唐突に高橋先生が、忍の横顔を見つめながら話し出した。
「お姉ちゃんは結婚に失敗して、バツイチ子持ちで実家に戻ってきてるんですよ・・・もう何年になるかな・・」
姉からお姉ちゃんに自然と呼び方が変わったのを聞いて、忍は少し微笑む。
「・・・・・」
「そのお姉ちゃんが、この間幼馴染にプロポーズされたらしいんです。」
「・・・・そう、ですか・・・おめでとうございます。よかったじゃないですか。」
忍は笑みを浮かべた。
その言葉を聞いた高橋先生は、大きくため息をつくと視線を空に向けた。
「それがですね・・・・あんまり、おめでたくないないんですよ・・・お姉ちゃんには。」
「はぁ・・・」
忍は返答に困り、同じように空を見上げた。
「その幼馴染と、こっちに戻ってきてから、良く姉の子供と一緒に出掛けたりしてたんです・・・私と母はその姿を見ていて、その幼馴染の男性はお姉ちゃん事が好きなんだな・・・って。そのうちお姉ちゃんも再婚するのかな・・・って思ってたんですけどね。」
コツコツと楓のヒールの音が鳴る。
そして、忍を見つめると足を止めた。
「同じことを言うんです、忍さんと・・・・・」
「えっ?」
忍は歩みを止めた高橋先生を見た。
「私はバツイチ子持ちだし、私にはその資格がないって。」
楓の沈んだ声が胸に響く。
そしてそれを忘れるかのように、楓のヒールが響く。
楓は視線を上に向けて淡々と話し出した。
「昔、姉には大好きな彼がいたらしいんですけど、その彼に酷い裏切られ方をしたらしくって・・・」
「・・・・・・・」
忍は黙って聞き続ける。
「でもね・・・・お姉ちゃんは後悔してるんですよ・・・他の人と結婚して子供がいても・・・いまの幼馴染にプロポーズされても・・・多分、本当に幸せじゃないんだと思います。」
どこかで犬の鳴き声が聞こえる。
土手に設置された街灯に、高橋先生が浮かび上がる。
「姉はまだ、昔の彼の面影をどこかで追いかけてるんです。」
「・・・・・・」
高橋先生は街灯の下で立ち止まった。
「・・・・・・なぜ、別れを切り出された時に何もしなかったのかって・・・」
「・・・・・・・・・」
「何故、裏切られたと勝手に思ってしまったのかって・・・何も事情を聴かなかった事を・・・多分、まだお姉ちゃんはその人の事を愛しているんだと思います。」
忍は同じ街灯の下で、高橋先生の話を黙って聞いていた。
街灯に蛾が纏わりつきながら飛んでいる。
高橋先生が、真剣な顔で忍を見つめていた。
「私・・・わたしはお姉ちゃんのように後悔したくないんです。」
高橋先生は、忍の手を取ると両手で握りしめ、その手を自分の胸に抱くようにした。
「例え・・・たとえ神居さんが、今の状況じゃなかったとしても・・・私は神居さんに同じように接したと思います。」
高橋先生の目が忍を見つめている。
忍は高橋先生の決意を聞き、自分は人並みに幸せになってはいけない、月菜を育て上げ月菜に好きな人が出来て、そのパートナーと幸せになるのを見届けるまでは、自分の幸せや欲などは二の次と抑え込もうとしていた。
分わかっていたはずだ、自分の人生を諦めて月菜を育て上げると決意したその日から、自分は死の間際に後悔するのであろうことも・・・。
でも・・・自分も月菜も幸せになる人生を歩んでも良いのだろうか・・
いま目の前で、忍を見つめている女性に頼ってしまっていいのだろうか、今の自分は弱すぎる。
黙り込む忍の瞳を見つめ、その瞳から何かを理解しようとしているのか、高橋先生の瞳に迷いはなかった。
「私は・・・神居さん、・・・いえ、忍さん、あなたが好きです・・・もう一度言います。私は貴方が好きです。愛しています。」
遠くで電車が鉄橋を渡る音が流れてくる、そして静寂。
「ふぅ・・・」
忍は大きく深呼吸をした、そして楓の言葉に、頑なだった自分に・・・自分の迷いを捨てよう・・・そう思った。
忍は少し間を置くと意を決したように、高橋先生の揺れる瞳を見つめ返す。
「ありがとう・・・こんな男を好きになってくれて・・・色々足りない男だけど・・・・」
忍の顔に優しさが溢れる。
高橋先生が見つめる。
「僕でよければ、一つ一つ積み上げさせて欲しい。」
高橋先生の目が見開かれる、そして段々と笑顔になり・・・笑顔がくしゃくしゃになり・・
街灯の下、二人の影が一つになる・・・
「しのぶさん・・・」
楓が名前を呼ぶ・・
「しのぶさん・・・」
楓が忍の唇を奪う・・・
「しのぶ・・・」
楓が忍の胸に顔を埋める・・・
「しのぶ・・・しの・・ぶ」
忍はその一つ一つに答える。
忍が楓を呼ぶ
「楓・・・さん・・・」
忍が楓の唇を奪う・・・
「楓・・・・・」
忍はすべてを忘れるかのように、強く強く楓を抱きしめる。
「楓・・・・」
街灯の灯りが二人だけの世界を作り上げていた。




