大いなるウィークポイント その一
土日の休みが終わり、どうにかやり過ごした月曜日の放課後のことでした。掃除当番もないのをいいことに、久しぶりに富士野ともども、名画座にでも出かけようと考えていたA氏は、不意に内海に呼び止められ、くるりと踵を返しました。
「あんたたち、このあと空いてる?」
内海のささやかなつり目ににらまれ、A氏と富士野は顔を見合わせましたが、
「ちょうどいい、今暇になったトコなんだ。ここじゃなんなら、場所変えるぜ」
と、いつもの通りにA氏が応じると、内海はそばに寄ってから小声で、
「お店じゃあまりよくないかも。中村、あんたの家におじゃましても大丈夫?」
「万事オッケー。おおかた、三村さんも来るんだろ? ――奮発してタクシーまわしとくから、高倉堂の裏手に集合といこうや」
「わかった。あの子掃除当番だから、終わったころに引っ張ってくる」
それを聞くと、A氏は状況を飲み込めずにキョトンとしている富士野を連れて、一足先に下駄箱へ向かうのでした。
約束通り、一高のそばにあるパン屋・高倉堂の裏手にタクシーを呼んだA氏は、内海と三村の二人が来るなり、運転手へ「NTT裏の大正製粉前まで」と告げて自分は助手席へおさまり、富士野や内海を後部座席へ押し込んで、発車を命じました。
「お客さん、大正製粉のどっち側につけます。NTT側ですか」
制帽を目深にかぶった運転手の問いに、A氏はしばらく考えてから、
「いや、真ん前でたのみます。そうなると裏から回った方がいいなあ、ひとつ、越州電鉄の支社ビルの方から回ってください」
と、慣れた調子で地図をそらんじ、リクエストを伝えます。
「わかりました。じゃあ……」
運転手はそれを聞くと、かねてから頼まれていた通り、帰りがけの一高や二高の連中の目に留まりにくい、ひと気の少ない裏通りを縫って車を進めだしました。
そのうちに、車は傘岡駅の東口から北へ入ったところにある、私鉄・越州電鉄の傘岡支社ビルをかすめ、JRと越州電鉄の線路がまたがる踏切を超えて、傘岡駅前の大通りである大手通りから北へのびる通り・昭和通りへと躍り出ました。ちょうど、この通りの西側にNTTの基地局兼交換局舎があり、その向かいに製粉会社のオフィスがあることから、A氏はタクシーに乗るようなときに、ここを目標に走らせるようにしているのです。
「――ああ、ここでいいです。みんな、先降りててくれ。勘定しておくから」
大正製粉の近くで車を止め、ドアを開けてもらうと、A氏は先に富士野たちをおろし、財布の中に収まっていた、手の切れそうな千円札の群れの中から二枚を抜き、運転手に手渡しました。
「どうもォ」
そして、降りた車が往来へ駆け出してゆくのを見届けると、A氏は釣り銭を学生服の上ポケットへと乱暴に押し込み、住み慣れた我が家へと向け、歩道を小走りに急ぐのでした。
「――エーさん、先にあがったよ」
「おうさ、待たせたね」
いつも調子の悪い、年代物のエレベーターで三階のフラットへ入ると、先だって富士野がコーヒーをひっくり返した居間で、内海と三村がいくらか落ち着いた顔をしてこたつ布団へおさまっていましたので、A氏はいそいそと支度をし、人数分のお茶うけと、貰い物だというセイロンティーのカップをめいめいの手元へ置きました。
「――して、サ店じゃ話せないようなハナシってえのは……?」
お茶うけのビスケットをかじりながらA氏が尋ねると、内海はちょっとためらいがちに、ティーカップをソーサーの上に置きました。どこかで火事でもあったのか、消防車のサイレンと、路面電車の警笛がないまぜになって、部屋の窓ガラスをたたいてゆきます。
「――あたし、見ちゃったんだ。またあいつが、新しい女の子と出歩いてるの」
「――へえ、懲りないやつだなあ。で、どんな子?」
「それがね、中村くん……」
と、腕を組んだまま問いかけるA氏へ、今度は三村が口を開きました。
「私も、田崎くんがそうやってるのを別の日に見たの。ただ、よくよく聞いてみたら、相手が違うみたいで……」
「じゃあまた、二股をかけてるってわけかい……!? 呆れたなあ」
様子を悟った富士野が、苦い顔をして嘆きます。本人のあずかり知らないところで刃傷沙汰があったとはいえ、あまりにも節操のない話ではありませんか。
「で、もしかして、今度の相手も坂東先生のところへお世話になってたりしないかと思って、後ろからそっとついて行って、写真を撮ったのよ。これ、そのプリントなんだけど……」
同じようなことを思いついていたのか、内海と三村がそれぞれ、自分の鞄から写真の入った封筒を出したのにはさすがのA氏も驚いた様子でしたが、ひとまず、二人が決死の思いで撮影した写真を見ることを優先して、感情の方はひっこめたようでした。
「――へえ、こりゃまた両方とも、タイプの違う女の子だねえ」
「……だねえ。かたや姐さん風、かたや大人しめの小動物風、ってとこかなあ」
L判の写真をにらむA氏の脇から覗き込み、富士野も新たなる獲物――といったほうがいいのでしょう――の写真をじっと見つめるのでした。
彼の言葉通り、写真に写っていたのはたしかに両極端な、まるきり違うタイプの少女でした。
富士野が「姐さん風」と称した、緑色のブレザーに真っ赤なタータンチェックのスカートといういで立ちの、流し目とつり目の中間のような目をしたいかにも気の強そうな子。
そして、ショートに切った栗色のくせっ毛をゆらしている、天真爛漫な幼な顔の、水色のジャンパースカートにボレロを羽織った、世の中の汚れを知らなそうな子……。この見事なまでに極端な女性に愛を囁き、もてあそんでいるのですから、田崎一弥という男の罪深さときたら、相当なもののようです。
「はてねえ、こっちの姐さんは東光学園高校、こっちのお嬢ちゃんは越州女子なのはわかるが、そんな報告は聞いてないなあ。――真樹さんからの連絡でも、ここだけはノーマークだったよねえ、富士野クン」
写真を封筒へ仕舞いながら、A氏は二人の制服がそれぞれ、市内では有数の私立学校なのを指摘します。私立東光学園付属高校、幼稚園から大学まである、私立越州女子学院……。そうそうたる顔ぶれなわけです。
「たしかそのはずだよ。真樹さん、私学だと親が大物な場合もあるから、親の威光の効かない相手の子供は慰み者のにしないんじゃないか、って言ってたけど……」
「どーやら、その法則も崩れたなあ。可愛げな子がいたら、ほかに相手がいるのも無視して熱中する……。ほーんと、大したドンファンだぜ」
呑気につぶやくと、A氏は写真を上着のポケットへしまってから、
「ひとまず、新しい懸念事項が出来たことはよくわかった。あとはオレや真樹さんたちに任せて、普通に過ごしてな。気になるのはわかるが、あまり思い出さねえほうが健康のためだぜ」
「……うん、わかった。ありがとね、中村」
「――よせやい、スクリーンの中でも現実でも、オレぁ女の涙にゃ弱いんだ」
ティーカップの水面へ顔をうつむかせる内海に、A氏はすかさず、ボックスティッシュを差し出します。
「よしよし、気分をなおすために一肌脱ごう。ここんとこ、この件に絡んでロクロク映画にも行けてないんだ。陽気なミュージカル映画のサントラでもかけてやるから、もう泣きなさんな。な?」
居間の南側に置いたレコードプレーヤーのスイッチを入れ、ターンテーブルへ映画のサントラ集の一枚をのせると、A氏は器用に両手の指先を動かし、遊園地のきぐるみのような動きをして見せます。
「なによそれ、変なの……」
呆れたような、それでいて口元をほころばせている内海に、A氏は安堵したようでした。
「ははは、今泣いたカラスがもう笑った。さて、いの一番は空飛ぶ自動車、『チキチキ・バンバン』だぜ……」
ボリュームをひねると、陽気なメロディが六畳敷きの居間へ響きわたりました。先刻までの陰気な空気は、どこかへ追いやられてしまったようです。