古書店主真樹啓介、大いに暗躍す その三
「すっかり、秋になっちまったんだなあ」
西の空を仰ぐA氏のつぶやきに、富士野もそうだね、と頷いてみせます。来た時よりも日は傾いて、四時過ぎと言うのに、西の空はすっかり赤黒い色味をのぞかせているのでした。
「じゃ、エーさん、僕はこれで……」
富士野が帰ろうとすると、腕を組んだまま路面をにらんでいたA氏が不意に彼の詰襟をつかみ、グイと後ろへ引き寄せました。
「な、なにするんだい」
「いま、ちょうど四時過ぎだろ? たしか、二高はこの時期、交通事故予防って建前で、木曜だけはどの部活も五時までに帰るようにうるさく言われてるはずだ」
「――ってことは、田崎もそろそろ学校を出るころ、ってこと?」
二高、部活、という単語から、渦中の問題児・田崎のことを連想した富士野に、A氏はご名答、と返します。
「内海たちの一件以来、人づてにもらった写真で顔は知ってたが、実物は見たことがなくってね。ちょうどいい、我が世の春を味わってるドンファンのご尊影、拝んでやろうじゃないの」
言うが早く、ポケットから定期券を出すと、A氏は富士野を率いて、傘岡駅の東口にある市電の東傘岡線乗り場へと急ぎました。ここから発着する市電は普通、急行と問わずに二高前の電停は必ず停車するのです。
運よく、三分後に東口から鴻ノ上ニュータウン方面の支線へ向けて出る、ラッシュ専用の通勤急行が止まっているのに乗り込むと、A氏と富士野は二高の正門側のつり革を握り、発車をいまかいまかと待ち構えるのでした。
やがて、小気味のいい発車ベルと共に、年代物の路面電車が動き出すと、二人はじっと、目を皿のようにして二高側の車道、歩道をにらみました。市立の科学博物館の前を過ぎ、武蔵川支流の農業用水が流れる川にかかった鉄橋を、家路を急ぐ車と一緒にわたり切ると、二人の眼前にようやく、問題の二高の正門が飛び込んできました。
「こういうとき、市内全域可の定期券は便利だよねえ」
財布の中を探り探り、小銭だらけで乗車賃を払い終えた富士野は、先に定期を見せて電停に降りていたA氏に声をかけます。
「だからあれほど、今日は回数券を用意しとけっていったんだよ。それより、ウカウカしてると、敵さん逃げちまうぞ……」
「あ、待ってよエーさん……」
市電が出ていき、目の前の信号が変わったのを見ると、A氏は富士野を連れて、なにげない風を装い、二高の前へと躍り出ました。そして、すぐそばにある市バスの停留所のベンチへ腰を下ろし、鞄の中から取り出した文庫本を開くと、二人は先に出てきた文化部、ないしは帰宅部の面々の通り過ぎるさまを横目でじっとうかがっていましたが――。
「……お出でなすったな」
十分もしないうちに、視界の隅へ竹刀の入った鞘袋を銃剣のように構えた一団が飛び込んできたので、二人はベンチを離れ、バスの代わりに市電へ乗り込むようなていで、元いた電停へと舞い戻りました。あちこちで気の早い街灯がともりだす、五時まであと幾ばくもないような頃合いです。
「――あれだ。今出てきたやつらの先頭の、鞘袋に真っ赤なお守りをぶらさげてるやつだ」
身動き一つせずにA氏がささやいたので、富士野はいましがた正門から出てきたグループの先頭で、身振り手振りを交え、同級生と陽気にじゃれあう、細身ながらもどこか勢力旺盛な雰囲気の男子生徒へピントをあわせました。
「……ほんとにいたんだね、ドンファンみたいな好色漢って」
写真と寸分変わらない、田崎一弥がそこに確かにいたのですから、富士野の驚きようといったらありませんでした。が、対照的にA氏は、身じろぎ一つせず、ポケットに手を突っ込んだまま、じっと田崎の顔をにらんでいるばかりです。
「――エーさん、どうしたの? 帰りの電車、もうそこまで来てるよ」
逆方向から来る、傘岡駅止まりの通勤急行が手前の信号へさしかかったのに気付き、富士野がA氏の肩をゆすぶると、A氏はそれを嫌がるそぶりもみせず、顔だけ富士野の方へ向けて、
「腹も減ったし、さっさと帰ろうや」
と、まるで緊張感のないことを言って、富士野ともども、帰りの市電へと乗りこむべく、向かいの電停へと急ぐのでした。
五時を告げる有線放送の「赤とんぼ」のメロディが、どこからか物憂げに鳴り響く、ある木曜日の夕方のことです。