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「駆け込み寺」坂東医院にて その二

「――あの先生の口の固いのに、僕は却って安心したよ。もしもホイホイ話をしてたら、今まで大勢連れこんだ訳アリの連中の今後が気にかかって仕方がなかっただろうね」

 内海たちを送った足で、市電の停留所を二駅ばかり乗った先にある、電車通りに面しているA氏の下宿に上がりこんだ富士野は、コーヒー片手に今しがたまでのやりとりを振り返る彼に、なるほどねえ、と、相槌を返しながら、居間のこたつの中に足を伸ばしていました。彼の父親の持ち物であった雑居ビル兼下宿館の「頓珍館」の三階フラットは、A氏のかけたレコードから流れる、ゆったりとしたワルツの他は何も聞こえてこない、どこか現実離れした空気を携えていて、今日のここまでの急展開につぐ急展開ぶりに神経の昂っていた富士野は、その安心感からか、軽く船をこぎ出しているのでした。

「ま、この件は明日からゆっくり調査を始めることにして、だ。今日はひとつ、面倒ごとに巻き込んだお詫びに、ラーメンでもごちそうするぜ」

「いいのかい。じゃ、お言葉に甘えて……」

 A氏の言葉にすっかり目も覚め、彼が出前を取ろうと、居間の入り口に置いた電話台へとさしかかった時でした。時代物の黒電話がいきなり鳴り出したので、富士野は手に抱えたコーヒーカップを危うくひっくり返しそうになるほどでした。

「――はい、頓珍館三階中村瑛志……。あら、バンユー先生、さっきはどうもお邪魔様」

 電話の相手が坂東医師だとわかると、富士野はそっと、こたつの天板の上にカップを置いて、布団をそっと第二ボタンのあたりまで被せましたが、

「なに、とうとう出たァ!?」

 という、天井板をゆらすようなA氏の叫び声に、とうとう勢い余ってカップの中身をぶちまけてしまったのでした。

「エーさん、どうしたの」

 ティッシュで中身をふき取りながら富士野が尋ねると、

「弱ったな、僕ァそれを一番恐れてたんですよ。――富士野くん、弱ったことになった。田崎に弄ばれたのを苦にして、自殺未遂をしたやつが出たんだ」

 A氏は顔いっぱいに動揺を浮かべ、受話器の送話口をおさえて答えました。自殺未遂! 内海と三村の殴り合いが可愛く見えるほど、残酷な響きを孕んでいる四文字ではありませんか。

 重いかげない出来事に驚く富士野をよそに、A氏はふたたび受話器へかじりつきました。

「――そんで先生、その子の容体は……? ああ、ならそこまで気にすることはないか……。しかし先生、これからどうする気です。同じようなのが何度も出て、手当むなしく死んだりしたら……。――冗談冗談、ちょっとキツかったのはみとめます、ハイ。……ひとまず、今後どうするかは改めて相談しましょう。じゃ……」

 そこまで話し終えて受話器を戻すと、A氏はかけっぱなしになって終わりの溝がプツプツと音を立てていたレコードをラックへ戻し、無言でこたつへ潜り込みました。つられて、向かいへ富士野が腰を下ろし、どうしたの……? と恐る恐る尋ねます。

「――バンユー先生、さすがにこのままダンマリを決めとくわけにはいかない、とは言ってくれたが、さすがに守秘義務上の問題から、患者のいっさいがっさいを教えるわけにはいかんらしい。こうなりゃ、じきじきに奴と対峙するか……?」

 ぬるくなったコーヒーへ口をつけると、A氏はしばらく天井をにらんでいましたが、いくらなんでも剣道の有段者が相手では、お世辞にもスポーツマンというわけでないA氏に勝ち目があるとは思えません。

「富士野くん、いま君、僕の細腕じゃ勝てそうにない、と思っただろ」

 隠し事はできないと、富士野は正直に首をしゃくります。すると、A氏は怒るでもなくにこりと笑って、自信たっぷりにこう答えるのでした。

「忘れちゃいないかい。前にみょうちくりんなお化けライダーが出た時も、路面電車を亡き者にしようとしたインチキ野郎が現れた時も、僕と君はいったい、どうやって危機を乗り切った……?」

 A氏は自信に満ちた目で富士野の顔を眺めながら、しきりに人差し指でこめかみのあたりをつつきます。つまるところ、体力ではなく、知力で勝負、ということなのでしょう。

「まあ、ひとまず敵サンの情報を集めるところからだね。――おっと、忘れてた、早いとこラーメン取らないと、夜が明けちまう……」

「おっと、そうだった。じゃ、ゴチになります」

 A氏が学生服の胸元を任せなさい、と言いながら叩き、ふたたび電話台の方へ向かったのを見ると、富士野はほんの少しだけこたつから身を出し、湯気の立つラーメンの届くのを待ちかねていましたが――。

「……や、こんばんは、中村です。真樹さん、ちょっとお力をお借りしたいことがあるんですが、明日あたり『ズンメル』で会えませんかね」

 どうやら、ラーメンの届くのはもうしばらくかかるようです。


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