大いなるウィークポイント その三
女子高生の大群が引き揚げ、看護師も帰ったのを見届けると、坂東医師はあらためて、若い友人であるA氏や富士野、そして本来の応対相手であった真樹へコーヒーを出し、貰い物だというクッキーの缶を応接間の座卓の上に広げ、三人へすすめるのでした。
「すまないね、中村くん。いきなり呼びだして、あげく交通整理のようなことまでさせて」
キャメルへ火をくべ、しきりに煙を巻きながら、坂東医師は眉をㇵの字に曲げ、肩をさすります。
「いやァ、構いませんよ。面倒ごとは慣れてますから……。それよりもですよ」
ペーパードリップのキリマンジャロをなめながら、A氏はソファへもたれ、ちょうど向かいへ座った真樹へギョロリとした目を向けました。
「真樹さん、あんた確か、別件があってここへ来た、って言ってましたね。怒涛のような解散、ひょっとしてそれに何か関係があるんじゃないの」
不意を突かれた真樹は、カップを持ったまましばらく目を伏せていましたが、カンのいいやつだな、とため息交じりにつぶやいてから、部屋の隅へ置いてあったショルダーバックを取り、中から文庫本大のテープレコーダーと、ケースを厳重に紐で巻いたカセットテープを机の上に乗せました。
「なんですか、これ?」
「ま、ひとまず聞いてみな」
富士野の問いをあしらうと、真樹は紐をほどいてカセットを出し、レコーダーへセットしてから再生ボタンを押しました。すると――。
『……と、いう具合ですから、まあ、ひとつ今度の県道入札の方のお計らいを、お願いできないかと思いまして……』
と、声だけながらも平身低頭ぶりが伝わる高めの声の男。
『ははは、まあ、任せておいてください。で、額の方ですが一つこの辺で……』
そこへ万事問題なし、とでも言いたげな、年季の入ったがらがらとした低い声で応じる男。さきほどまで、応接間を満たしていた女子高生軍団とはまるで違った趣の声が、小さなスピーカーから聞こえてきたので、A氏や富士野はきょとんと固まってしまいました。
A氏が身を乗り出して尋ねたところで、真樹は停止ボタンへ指をかけ、レコーダーからはずしたカセットを、元の通りにケースへ納めました。
「ちょっとした偶然からオレの元へ舞い込んできた、ある政治スキャンダルの一コマさ。中村くん、きみならわかると思うが、かれこれ十年ばかり放置気味になってた、Nと傘岡の間を渡る第三県道の工事がやっと再開されたのは知ってるだろ?」
真樹の言葉に、A氏は考えるまでもなく、もちろん、と、腕組みしたまま返しました。
十年ほど前、工事中に戦争中の不発弾が相次いで爆発するという出来事から、大幅なルート変更と土地の追加買収を余儀なくされ、長らくほったらかしになっていた高速県道、N-傘岡第三ハイウェーの工事がやっと再開されたというのは、傘岡はおろか、N県に住んでいれば誰でも知っている大ニュースだったのですから、無理もありません。
「ついでにいやあ、傘岡側のインターチェンジの工事を巡って、長いことの不景気で暇を持て余してる市内の土建屋さん方が、代議士や有力者に袖の下送るのや談合の支度やらで必死だってのも、一部じゃ有名だが、まさかこうして、その一端を聞く羽目になるとは思わなんだなあ。――そうでしょ?」
「あ、じゃあこれって……談合の盗聴テープなんですか!?」
驚く富士野に、A氏が鈍いなァ、と苦く笑ってみせると、真樹は自信満々に、そういうことさ、と、にやりと微笑み、コーヒーを飲み下します。
「――まあ、この録音そのものは僕が録ったものじゃなくって、知り合いの雑誌記者くんが、いざというときのためにとオレに預けたシロモノなんだがね。それより中村くん、このテープにはもっと面白いことがある」
「ほほう?」
足を組みなおすA氏に、真樹は唇についたコーヒーを手の甲で拭ってから、こう告げました。
「この、自信満々に談合の支度を応じてんのは渦中の少年ドンファン、田崎一弥の親父である、田崎淳造さ。息子が息子なら親も親だ、つくづく、あそこン家の人間は性悪に出来てるらしい」
「へえ、ドンファンの親父が……!」
A氏の顔へ興奮の真っ赤な血潮がさあっと染み渡り、両の目が限界まで見開かれました。これには富士野も驚いて、
「親子ともども悪事を裁けるなんて、すごい偶然だねえ」
と、そわそわしながら、興奮気味に目を輝かせてみせます。そんな二人を前にして、真樹啓介も、実に満足そうな顔色をのぞかせているのでした。
「最初は僕と坂東先生だけで秘密裏に動こうと思っていたんだが、ああしてお嬢さん方も陳情に訪れたことだ、いっそ、二大巨悪はいちどきにまとめて成敗と思って――」
「――いや、それは違うと思うな」
とんとんと進む話の腰を折ったのは、いの一番に喜んで見せたA氏でした。
「エーさん、いったい何が悪いんだい。だって、悪党の親子を両方……」
そこまで言いかけて、富士野はふと、A氏の目がさきほどまでと打って変わって、ひどく落ち着いたものになっているのに気付いて口をつぐみました。
「親父の方の犯した罪は、警察がいずれ介入して、お裁きがくだるだろう。でも、息子の一弥はどうだい? いっときの勢いと、偽りの愛情で女子をたぶらかした人情のかけらもないようなやつとはいえ、あれでもまだ、法の裁きを受けるようなことだけはしちゃいねえんだ。せいぜい保護者同士で形だけ頭を下げてそれでお開きのもんさ――だけどね」
A氏の鋭い目が、部屋の中の三人をなめるように動きます。
「真樹さん、バンユー先生。法でさばいてお開きになる大人と違って、僕ら学生の世界じゃ、こういう話は同じようには片付けられないんですよ。
裏切られたとわかるまでは、声をかけられた方は本気の恋だったかもしれない。
その様子を見ちまって、好きだった相手を奪われたと涙にくれたやつもいるかもしれない。
人生経験のある真樹さんたちから見たら、過ぎた昔の思い出かもしれないけど、今こうして、感情踏みにじられて苦しんでるやつらが大勢いるのはまごうことなき事実なんです。同じ学生が、心の中を荒らし回されて壊れかけているのを放っておくわけにはいけませんよ。
これは、僕ら学生が自分たちの手で、仲間の奪われた尊厳を取り戻すための行動なんですよ!」
朗々たる、堂々たる調子で言い終えると、A氏はすっかりぬるくなったコーヒーをなめてから、
「――だから、一緒にするのはなんか違うなあ、って思うんですけど……どう?」
と、いつものトボけた調子で付け加えたので、緊張の糸の切れた富士野や真樹、坂東医師は、腹を抱えて笑い出してしまいました。
「ハハハ、やっぱりこういうことだったか。ガラじゃねえとは思ったんだ」
歯をむき出しにして笑う真樹へA氏は、
「ひでぇなあ、せっかく人が、一世一代の大芝居と思って言ったのにぃ」
と言って不満そうな顔をして見せますが、普段はフォローにまわるはずの富士野がただただひきつったような声をあげているところを察するに、ひいき目に見積もっても、大根な芝居であったことは間違いないようです。
「てなわけだから、親父のほうは真樹さんたちに任せます。ひとつ今まで通り、僕や富士野くん、内海や冬月さんあたりの後方支援として、よろしくお願いしますわ」
「任せておきなさい。どうやらこの頃は、人の間のいざこざを治すのも商売になってきたみたいだから……。そうでしょう、真樹さん?」
新しいキャメルへ火をくべ、唇の合間から煙を吐きながら、坂東医師は真樹に尋ねます。その問いかけに対して真樹は、
「――ああ、もちろん最後まで面倒を見てやるさ。これもひとつのアフター・サービス、ってとこかな?」
と、目配せと一緒に頷いてみせ、A氏と富士野をこの上なく安心させたのでした。
「さあて、ぼちぼちこの奇々怪々な映画もクライマックスだな。富士野くん、これからが厄介だぜ……」
腕組みをしたまま、神妙な、それでいてひどく自信に満ちた顔を覗かせ、A氏こと中村瑛志は、窓の外で傾く夕焼け空を眺めているのでした。




